第2話 氷を溶かすひと
(そもそも、どうして私が嘘をついているとわかったの? 母国でも魔法が使えることは完璧に隠していたわ。このことは、亡くなった父と師匠以外は知り得ないはずなのに。師匠と陛下に関わりがあるとも思えない。それにさっきの反応は、魔法が使えると『知っていた』というより『気づいた』に近かった)
アイリスが忙しなく思考していると、ふと頭に三文字の言葉が浮かんだ。
「まさか、
「ああ」
「…………!」
魔力の高い人間が持つ特殊能力。神からの
ローレンに離婚話を切り出す前に、なぜその可能性を考慮に入れなかったのか。アイリスは内心で自分の至らなさに歯噛みした。
数多くの魔物討伐の功績を上げ、魔剣士としても名高いローレンがギフトを有していることなど、少し考えればわかることだった。
(でも、よりにもよってその能力が『嘘を見抜く力』だなんて……とことん運がないわね)
半ば諦めにも近い溜息をふっと吐くと、強張っていた体から一気に力が抜けていくのを感じた。
(魔法が使えることがバレたのは、もうこの際仕方ないわ。問題はここからどう離婚に持っていくかよ。やっぱり、まともに教育を受けていないと言って無能アピール? それとも、無愛想でつまらない女と思わせるのがいいかしら?)
考えを巡らせながら相手の出方を伺っていると、ローレンは目を眇めながら至極当然の疑問を口にした。
「しかし、なぜ力を隠していた? アトラス王国では、『黒髪緋眼』は無条件で王位の座を得ることができると聞く。近年途絶えていた『黒髪緋眼』の出現は、王家にとって悲願だっただろうに。その力は、アトラスの民衆のために振るうべきものだったのではないのか」
非難めいたその言葉を耳にした途端、アイリスは怒りとも憎悪ともとれない激情に支配された。体の奥底から熱い泥のようなものが溢れ出し、感情の制御を失う。
「――何も。何も、知らないくせに……!」
気づけばアイリスは、燃え盛る炎のような瞳でローレンを睨みつけていた。誰かに感情をぶつける事など、ここ何年もなかったことだった。
感情が乏しく無愛想な『氷姫』が見せる初めての表情に、ローレンの碧眼が大きく見開かれる。
一方アイリスは、ハッと我に返ると、自分の発言と態度に青ざめた。いくら夫とはいえ、相手は国王だ。考えるまでもなく、要らぬ反感を買うのは避けるべきだった。
相手の表情を見るのが怖くなり、アイリスは思わず俯く。
「しっ、失礼いたしました。お許しを」
「いや、礼を欠いたのは俺の方だ。お前の事情をよく知らないのに、わかったような口をきいてすまなかった」
寛大な許しの言葉に、アイリスは安堵の吐息を漏らした。
ローレンも表情が豊かな方ではなく、基本的には気難しい顔をしているので近寄り難い印象だったが、案外優しい人物なのかもしれない。
俯きながらそんなことを考えていると、ふいにローレンの指がアイリスの顎にかけられた。優しい、だが確かな力で、強制的に上を向かされる。
目の前には、深く穏やかな海を思わせる瞳があった。
「顔を上げろ。表情を隠すな。感情を殺すな。少なくとも、俺の前ではそうしてくれ」
その言葉を聞いて、一瞬胸の奥がぎゅっと締め付けられるような思いがした。期待とも喜びともつかない何かが溢れないよう、唇を引き結び、必死に堪える。
「お前が元の国であまりいい扱いを受けていなかったということは聞いている。すぐには難しいかもしれないが、俺には気を遣わなくていい。顔色を伺うようなこともしなくていい」
それはアイリスにとって、救いのような言葉だった。
(――この人は、私の感情を受け止めてくれる……? 鬱陶しがったりしない? 嫌悪の表情を向けたりしない? 叩いたりしない……?)
"愚鈍で無能な氷姫" の二つ名を持つことからもわかるように、アイリスを好ましく思う者は、母国には一人もいなかった。
先代の王である今は亡き父は、アイリスを愛さなかった。元々病弱だった母がアイリスの出産に耐えられず亡くなったことが、父に嫌われている理由だと知ったのは、まだ三歳の頃だった。
父はアイリスが笑うとあからさまな嫌悪を示し、アイリスが泣くと煩わしそうに顔を
戦争の火種になるから魔法の力を隠せと言ったのも父だった。『黒髪緋眼』の力と引き換えに母が亡くなったのだと父は考え、力そのものを忌避した。
アイリスは本来は愛嬌があり感情の豊かな方だったが、自分が父に嫌われていると気づいた時から、父の前では感情を押し殺すようになった。――ほんの少しでも、父に愛されたかったから。
父亡きあと、王位を継いだ叔父や、叔母、その子供である従兄弟たちは、守る者のいないアイリスをこぞって虐めた。『黒髪緋眼』に王位を奪われないよう、アイリスを排除しようとしたのだ。
彼らはアイリスを物置部屋に追いやり、使用人まがいの事をさせ、まともな教育を受けさせなかった。
不満気な顔をすると生意気だと叩かれた。泣けばうるさいと怒鳴られた。
アイリスは自分の身を守るため、感情を読まれないよう無表情に徹し、常に顔色を伺いながら相手の機嫌を損ねないよう振る舞った。
アイリスにとって、感情を殺し無表情でいることは、味方のいない、あの閉ざされた世界で生き残るための生存戦略だったのだ。
魔法の力を隠し、感情を殺し続けた結果ついた二つ名が、 "愚鈍で無能な氷姫" だった。
(感情を殺さなくていいなんて……初めて言われたわ……)
たとえ同情から出た言葉だったとしても、アイリスにとっては得難いものだった。心の奥から、温かい感情が込み上げてくる。
「返事は?」
ローレンの声で我に返ると、長いまつ毛に縁取られた碧い瞳がこちらを覗いていた。
(ち、近い……!)
美しく整った人形のような顔が間近にあることに気づき、途端に視線の行き場を失う。
「ぜ、善処いたします……」
顔に熱が昇るのを感じ、アイリスはかろうじて一言だけそう返した。
ローレンはその返答に満足したのか、フッと微笑を浮かべるとアイリスの顎から手を離し、向かいのソファに座り直した。
(この人には感情を殺さなくても、表情を隠さなくてもいいのね……)
安堵とも喜びともつかない感情を抱き、アイリスはわずかに顔を綻ばせた。
「もちろん俺だけでなく、他の者にも自分を押し殺すような真似はしなくていい。ここにはもう、お前を虐げる者はいない。万が一、お前に不当な扱いをする輩が出てきた場合、必ず守るから安心しろ」
「ありがとう……ございます……」
(そうか、ここはもう、アトラス王国じゃない……。私が感情を出して怒る人も、叩く人もいない……。もう、終わりにしていいのね……)
こうしてアイリスが感情をひた隠す日々は、あっけなくも唐突に終わりを迎えたのであった。
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