あなたが捨てた私の恋心

くくり

あなたが捨てた私の恋心

 一番初めの記憶と言えば、この国の女神様にまつわる説教だろうか。


 “最後の息をするとき、後悔を残してはいけない”


 そうしないと、女神様は同じ時を何度もやり直させる。

 これは慈悲ではなく…罰である。

 だから、人から後ろ指を指されるようなことをしてはいけない。未練を引きずりながら、後悔に苛まれながら、生き恥を晒しながら、歩みを止めてはいけない。そうして、歩くと決めたのならば、その後悔と向き合わねばならない。過去から逃げた者を、女神様はお許しにならないからだ。

 物心つく時から教会で何度も何度も聞かされたそれは、今ではコテコテに教典の専門用語で飾られたものですら諳んじられるほどに脳髄に染み込んでいた。


 同じだね、と笑った声は、もうどこにもいなかった。


 ※※


 お互い八歳から王命で結ばれた婚約は、後ろ盾を盤石にしたい王太子と貴族派の中心である筆頭公爵家長女の婚約だった。何かと忙しい毎日だったが、それでも城に行けば必ず顔を見て挨拶をし、しばらく会えないとなった時は直筆で文通した。好きなものや嫌いなものはお互い当然把握している、誕生日プレゼントは特に念入りに用意して手渡しが暗黙の了解だった。


 毎年催される殿下の生誕を祝う夜会には、必ず殿下が最初から最後までエスコートしてくれた。成人するまでお酒を口に出来ない私たちは、いつだって皆の前では上質な葡萄ジュースを口にした。

 そして、私を公爵邸へ送る馬車の中で、こっそり二人で夜会でくすねたシャンパンを侍従とメイドに目を瞑ってもらいながら楽しんだ。

 私が十年間、必死で王太子妃になるための勉強に耐え続けたのは、そのシャンパンを楽しむためだった。

 私にしか見せない、お茶目でちょっと羽目を外すのが好きな彼の笑顔を、毎年毎年ちょっとだけ好きになっていった。それは、殿下も同じだと信じていた。


 三年前。

 アーノルド殿下は、王太子教育の一環として十五になる年に厳格な王立学院へ入学した。

 寄宿舎に入った殿下からの手紙が、ある時から少し雰囲気が変わった。胸騒ぎを覚えた私は、すぐに父である公爵へ報告し調査を依頼した。

 結果、殿下は王族派のとある伯爵家の庶子と懇意にしていた。これは貴族派の公爵家に真っ向から喧嘩を売る所業と言っても過言ではなかった。

 私は、少し優柔不断で人間関係の面倒ごとを避ける殿下に、浮気をする甲斐性があったことに驚いた。さらに言えば、男女共学ではあるが男女でカリキュラムが分かれている学園で、御学友たちと切磋琢磨するのが目的だった真面目な殿下が女生徒に現を抜かすわけは無いだろうと、腹黒い父ですら侮っていた。

 しかしながら、私たちは公爵家。たかが凡庸な伯爵家の庶子の分際で、公爵家の婚約者である殿下を誑かすなどあってはならない。

 王家よりぜひにと整えられた王命だったのだ。本当ならば、私はのんびりと家庭教師に教えられて領地経営や社交のノウハウを両親から学び、机に並べられた優秀な婿たちの絵姿を目を瞑って一枚取るだけで済んだのだ。それを、是非にと…王家から打診してきたのだ。


 報告書から上がる、学園で流れていた噂に眩暈がした。

 “公爵令嬢の我儘で整えられた横暴な婚約”

 優しく聡明な王太子と、伯爵家で虐げられながらも健気に振る舞う人望の厚い伯爵令嬢の恋ですって。笑ってしまう、それを殿下は否定しなかったというのだから……情けない。

 伯爵家の庶子ごとき、捻り潰してやろう。身持ちの悪いメイドの母から生まれた、伯爵の血を継いでいるのかも怪しい娘など公爵家の前では塵と同じだ。


※※


 今夜は、殿下の十八歳の誕生日。成人を祝う特別な夜会。

 今日着ている真っ赤な薔薇の花を思わせる豪華なイブニングドレスとガーネットであつらえたネックレスは、今年の誕生日に殿下が一式揃えてプレゼントしてくれたものだった。私の巻き毛の金髪とエメラルドの瞳によく映えた。

 そして、十八になった殿下の誕生日プレゼントに私が選んだのは、シャンパンだった。私にとって、シャンパンはこの婚約の象徴だった。

 十才の夜会の帰り。勝手な大人たちが楽しんでいる物をちょっとだけ舐めてみよう、と差し出されたグラス。無理強いはしないと言われ断れた誘いに乗ったのは、産まれた時からの鬱屈した反抗心と抑えつけられていた好奇心がない混ぜになっていたからかもしれない。

 小指につけて行儀悪く二人で舐めた罪の味は、今でも忘れられない。指先で一口味わったのが、スプーンになり、ショットグラスになり、今ではシャンパングラスになっていた。


 何もばれていないと思っている殿下は、いつものように私を夜会でエスコートしてくれた。そして休憩してくるとほんの数分席を外したその隙に、カーテンで厚く覆われたバルコニーで例の彼女と落ち合っていたのだ。全て、私たちにバレていると気づかずに。

 先ほど玉座の近くで皆の前で誇らしげに開けて私と乾杯したシャンパン、その残りを無邪気に笑う伯爵令嬢のグラスに注ぎ、あの悪戯が成功した笑顔で彼女と誕生日を祝っていた。

 その直後、伯爵令嬢は口から血を流して絶命した。悲鳴もなく、自分に何が起きたのか気づかないまま逝っただろう。


 それを見届けてから、静かに厚いカーテンの奥にあるバルコニーへ滑り込んだ。

 目の前で血の海が広がっていた。可愛らしいドレスを着た可愛らしい令嬢が血まみれで絶命し、その令嬢を呆然と抱き抱えていたのは間違いなく私の婚約者だった。


「私と毎年飲んでいたシャンパンのお味は、美味しゅうございましたでしょう?」


 むせ返るような錆臭く生臭い香りに混じって、近くで割れた二つのグラスに注がれていたシャンパンの香りがわずかに鼻腔をくすぐった。台無しだ。

 ゆっくりゆっくり二人に近づくと、私が出来うる最上級の淑女の礼をとった。これで思い残すことはない。これで、この男は一生幸せになることはない。


「お、まえがやったのか……アメリア?」


「私以外、誰がやるというのです?」


「なぜ……」


「なぜ?そうですね…強いていうならば、十年間でしょうか。あなたが今一瞬で踏み躙った、私の気持ちですわ」


 ゆっくりゆっくり頭を上げて、じっとりと彼の絶望しているであろう琥珀色の瞳を見据えた。

 私には、あなたしかいなかったというのに。

 私の両目から溢れた雫に、彼は正気を取り戻したようにはっと息を呑んだ。それもそのはずだ、私だってまだ自分が泣けたことに驚いていた。長年の王太子妃教育は、私から表情を奪っていたからだ。こんなにも感情が昂り、それを自制できないなんて久しぶりだった。


「後悔などありません」


 グラスに毒を仕込むのは貴族派が送り込んだメイドの仕事だったが、無理を言って私自ら毒を塗り込んだ。ただし、それも事件を公表するときには目の前で骸になった彼女のせいになっているはずだ。過激な王族派である伯爵家が、娘を使ってハニートラップで落とした王太子。しかし娘がその婚約者と口論の末、バルコニーから突き落として殺してしまったのだから。現場にたまたま居合わせた王太子に詰め寄られた彼女は、逃げられないと悟り家のために自ら毒を飲んで死んだ。

 そういう筋書きだ。多少強引でもかまわないのだ、どう転んでもこれが真実になることは決まっている。

 たった二つの命で、我々貴族派は完全に政権を牛耳れるのだから。父が前々から目障りに思っていた素直で平和ボケした王族たちを、傀儡にできるのだ。かつて玉座に鎮座していた公爵家の悲願だ。

 結局、私も父の捨て駒でしかなかった。


「ご機嫌よう」


 それでも、最期に最高に美しい姿の私を、好きだった人のその目に焼き付けることができる。

 私は、出会ったころに殿下が可愛いと誉めてくれた笑顔を浮かべながら、バルコニーの手摺から軽やかに飛び降りた。


(私のことも憎めばいいのよ。あぁ…あなたの最期が楽しみだわ!)


 この恋に、後悔なんてしない。




 ※※




 一番初めの記憶と言えば、この国の女神様にまつわる説教だろうか。


 “最後の息をするとき、後悔を残してはいけない”


 そうしないと、女神様は同じ時を何度もやり直させる。

 これは慈悲ではなく…罰である。

 だから、人から後ろ指を指されるようなことをしてはいけない。未練を引きずりながら、後悔に苛まれながら、生き恥を晒しながら、歩みを止めてはいけない。そうして、歩くと決めたのならば、その後悔と向き合わねばならない。過去から逃げた者を、女神様はお許しにならないからだ。

 物心つく時から教会で何度も何度も聞かされたそれは、今ではコテコテに教典の専門用語で飾られたものですら諳んじられるほどに脳髄に染み込んでいた。

 婚約者と羽目を外す時、必ずこの教えが頭をよぎるようになっていた。


「アメリア、婚約を解消してくれないか」


 今夜は、殿下の十七才の誕生日。

 毎年楽しむ二人の秘密の時間、公爵家に帰る馬車の中でシャンパンを全て飲み干した後だった。

 ほろ酔いの頭が急激に冷めていく。一気に台無しにされた気分に、酔いとは違う気分の悪さに頭がくらりとした。

 最近の私は、一年前から始まった王太子の素行調査に、いい加減うんざりしながらも家のために…捨てられない恋心のために毎日踏みとどまっていた。

 右手に報告書、左手に殿下からの心のこもった手紙。

 やるせなさと怒りと嫉妬で、頭がおかしくなりそうだった。

 それなのに、私が口にしたくとも死んでも口にできないそれを、目の前の男は何も考えずに簡単に唇から紡いでみせたのだ。


「恋に現を抜かして、ついに阿呆になりまして?アーノルド殿下」


 この婚約は、王命だ。

 言外に匂わせた言葉に、殿下の瞳が揺らいだ。


「あの伯爵令嬢はダメですわよ、王族派ですもの。敵対派閥を取り込みたい陛下と貴族派筆頭の父が許しません。あなたは、私と結婚するしかないんですよ。そういうわけで、愛妾にも据えることはできません……彼女が大切なら、手放すべきです」


「やはり、全て知っていたのか……だけど、俺が守りたいのは、アメリアだ」


「建前や詭弁は、笑えるものでないと好きませんの」


 空になったグラスを隣で座っていたメイドに手渡した。殿下の隣で座る侍従と揃って顔色が悪い。こんな話を聞いてしまったら、そんな顔色になっても仕方がないというものだ。


「あなたが、彼女ではなく私を手放すのなら……用済みの私を、父は結局のところ殺すでしょうね。我が公爵家には優秀な従兄弟が婿養子に迎え入れられて、父のお気に入りの次女が婚約しております。公爵家の未来に、私のための空きはありませんのよ」


 ずるい言い方だ。

 優しい性分の彼に命乞いをしている。そして、この言葉が全て真実だとアーノルド殿下も分かっている。

 そう微笑めば、なぜか殿下が泣きそうな顔で俯いてしまった。


「もう間違えない、間違えてたまるものか…そう足掻いてみたが、結局知れば知るほど脆弱な王家を守っていたのはこの婚約だった。あの伯爵家の娘は、王族派に探りを入れるために戯れていたに過ぎない。腹黒い伯爵家が手を焼くのも分かるほど、何も考えずに話をする娘だったよ。あと一年は王族派を油断させるためにも、そばに置いておきたい。許してくれ」


「よく分かりませんが……殿下、私の知らない間に性格が悪くなりました?」


 今までの殿下とは、様子が違う。報告書にも載っていなかった、こんなことは。

 不覚にも動揺して黙り込んでしまった私に、殿下は俯いていた顔を上げた。その琥珀色の瞳は、今まで見てきた中で一番力強かった。

 そこで、馬車が止まった。公爵邸の玄関の前に到着したようだ。

 ほっと息をついて、御者が扉を叩くのを待った。いつも通りの手順で馬車を降りようとした時、最後に降りる私の手を取ろうと下で待ってくれていた殿下が、荒々しい所作で馬車の中に私を押し込んで自らも再度乗り込んできた。婚約していようが未婚の男女が二人きりになるのは、この国では御法度だ。驚きのあまり声も出せずにいると、私をぐしゃぐしゃに殿下が抱きしめてきた。

 こんなことは初めてだった。

 殿下の亜麻色の髪がとても柔らかいのだと知った。


「解消すると今答えてくれたら、俺が何が何でもお前をこの国から逃してやる」


「……嫌だと言ったら?」


 瞬間、息まで喰らいつくさんばかりに口付けられた。

 こんな殿下は知らない。

 何があったというのだろう?まるで別人だ。真っ赤に顔を染めながらも、必死で抵抗を試みるがびくともしない彼の体と力の差に、初めて殿下に男を感じた。


「どこにも、逃してやれない。結局バカな俺には、お前しかいなかったんだ……死ぬまでいっしょにいてもらう」


「本当に、あ、ほになって、しまわれたんですね…!」


 乱れた息を整えながら睨みつければ、殿下はボロボロと泣き出した。

 なんなんでしょう、この情緒不安定な生き物は?私の知っている殿下とは、まるで……違う?いや、違わないわ……だって、私この泣き顔を昔から見てきたもの。最近では、見ることはなくなったと思っていたのだけど。


「傷つけてごめんな……もう一回、俺のことを愛してくれないか?それと、先に謝っておくが……俺の手を取るなら、俺は各派閥のトップを潰すつもりだ」


「………そんなこと、滅多に口にするものではありませんよ。殿下が潰されてしまいます」


 “最後の息をするとき、後悔を残してはいけない”その教えが、頭に過った。


「でも……あなたのお嫁さんになれるのなら、なんでもいいわ」


 今まで怖くて口にできなかったその言葉を呟けば、アーノルド殿下はまた私を掻き抱いた。

 もうこのイブニングドレスは着れないわね。

 急かすように鳴り続けるノック音に、どう言い訳しようかと頭を悩ませる。


「二十才の俺の誕生日に結婚式を挙げるからな」


「予定通りでは?」


 そうだな。

 そう笑った殿下は、真っ赤な目をして悪戯に笑った。





 終

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