白ノ宮 5
縫衣が十五のころ、馬稚国の東部にある村で暮らしていた。
父方の叔父の
ある秋の夜、眠る前に縫衣は右手に
そのとき、厠の手前に一匹の、丸々と太った鼠がいた。鼠は驚いたように立ち止まり、縫衣を見上げている。
「いいものを、食べてきたんだねえ」
と頭の中に声がした。――あの、左腕に取り憑いた女の魔性の声だ。
(やめて。話しかけないで)
「そんなことを云うな。わたしたちは、一心同体じゃないか」
(違う……!)
「く、く。それより、その鼠の霊気を、喰わしてはくれぬか? 少し、左腕をかざしてみればよい……」
(嫌だ)
「連れぬなあ……。縫衣よ。わたしが満たされれば、そなたも、えも云われぬ快楽に満たされるというに」
(快楽?)
「ああそうさ、だから」
縫衣は疑いながらも、ついに左手を広げて、鼠へと向けた。
きっ、と鼠は苦しそうに鳴くと、金縛りにあったように、体を細かく震わせて、固まっていた。
「それでいい。そのまま、掴め」
縫衣は引き寄せられるように、左手を伸ばしていって、小さな温もりを手の中に収めた。
左手の中に温かい、細かな振動が伝わってきた。液体のような手応えを持って、何かが手の中に流れ込んでくる。
「嗚呼……満たされる! 甘いのう。――この上なく」
頭の中に響く声は高らかに、喜びに震えた。
左手の振動は全身に広がり、縫衣を高揚させた。正月に稀に飲める、甘酒を口にしたときのように……。いや、あの
どくん、と左腕が疼く。体の芯がしっとりと熱くなる感じがする。
「気持ちがいいだろう? 霊気を喰らうというのは。霊気の甘みは、かの白花糖を超える美味。それに、瘴気のあの、ほろ苦い口どけ……。そうやって、そなたは、底なしに、喰ってゆけ。――欲望のおもむくままにな」
左手を開くと、干からびた鼠の死骸が転がり落ちてきた。
翌日になると縫衣は
左腕を見ると、薄っすらと黒みがかっていた。――昨夜のことはまるで、夢でも見ていたかのようだ。
縁側から見える庭の部材置き場には、材木やらが山積みになっている。――藤蔵は大工の棟梁だった。と、そこへ一人の徒弟が庭に入ってきた。
小さな髷を結った、黒い前掛け姿の細身の青年だ。
「縫衣さん、精が出るねえ」
青年はそう云って笑顔を見せた。縫衣は床を拭く手を止めると、なぜかいつも話しかけてくる、その青年に答えた。
「――与祢さんが、帰ってくる前に終わらせないと、小言を云われるから」
「縫衣さんを、こき使いすぎなんだよ。藤蔵さんも、おかみさんもさ」
「そんなこと……」と縫衣は床を見る。「こんなわたしを、引き取ってくれた。それだけで……」
すると青年は遠慮がちに、
「よ、よかったらさ。夕方になったら、丘に、涼みにでもいかないかい? ね、縫衣さん。岩棚の、景色のいい場所を、見つけたんだ……」
縫衣は床を見たまま黙っていた。それでもやがて答えた。
「最近、瘴魔が出るっていうし。何か、猿みたいなのに襲われた人がいるって……。それに、お夕飯の支度や、洗い物があるから」
「そうか……。悪かったね、忙しいときに。それじゃ、別の機会にでも」
すると、青年は丸太を立てて肩に当てがい、庭の裏戸から出ていった。
しばらくすると、裏戸の向こうに見慣れぬ一団が通りがかった。
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