白ノ宮 3

 九慈郎は大木の幹に背を預け、青白い顔をしていた。地面には血溜まり。口端からも血を流し、目つきは朦朧もうろうとしている。


 喉元の、獣に噛まれた傷跡は赤黒くなり、血が流れている。


 白髪の前髪が日焼けした顔にかかる。顔には深く硬い皺が幾重にも刻まれており、それらの皺は苦痛によるものか、いっそ濃く見えた。



「おい、父っつぁん。しっかりしろ! 縫衣を連れてきたぜ」


 と蓮二は駆け寄った。追いかけてきた縫衣が横に出てきて、「九慈郎様!」と手を伸ばしかける。九慈郎は弱々しい眼差しを上げると、


「あ、ああ……。すまねえ。蓮二。――それに、縫衣」

「九慈郎様……。しっかりしてください!」


 縫衣は片膝を折って顔を寄せるが、九慈郎に触れたり、抱きついたりはしない。――なすすべもなく、九慈郎の残された命の火を消さぬように、寄り添うかのようだ。


「蓮二よォ。ごくろうだったな」

「なんでもねえ」と蓮二は続ける。「いったい、この小娘はなんだ? それに、さっきの獣どもは?」


 九慈郎は一度力なく咳き込むと、血を口から滴らせながら云った。


「ちったあ、変わったようだな。蓮二。お前は……」

「何だ、何を云ってやがる」

「目つきが、まろくなった」

「やめろや父っつぁん。気味が悪ィ」

「いいや、本当だぜ。――何年前か。お前は思い詰めたツラで、銀狼衆を離れて行ったな。――あのときより、いい目をしてるぜ」

「ちッ。どうでもいい」

「だがよ」と、真剣な目をする。

「何だ。何が云いてえ」


 九慈郎はふと、口元を綻ばせた。


「空虚だな。目の奥が、がらんどうだ……」

「何だァ、そりゃ……」

「俺みてえな、獣になっちゃならねえぜ。蓮二。――だから」


 と、九慈郎は縫衣を見る。


「この縫衣を、守ってやってくれねえか? なあ蓮二。――俺の、最後の頼みだ。人のために生きりゃあ、ちったあ、お前も目の底が、明るくなるかもしれねえな」

「黙れよ、怪我人が。――街まで、運んで行くからよォ」

「やめてくれや……。俺は、ここまでだ。死に場所くれえ、選ばせてくれや」


 そのとき、縫衣が身を乗り出してくると、泣きそうな横顔を九慈郎へ近づけた。


「九慈郎様ァ!」


 九慈郎は震える右手を持ち上げて、縫衣の頭に置いた。血が黒髪に伝った。


「ぬ、縫衣。俺たちの身に起きたことを、蓮二に説明してやれ。……きっと、助けになってくれる。悪いが、俺はここまでだ」

「なぜ? 九慈郎様……。もう喋らないで! 血が……」

「ああ。仕方ねえさ。銀狼衆に、入ったときから、随分と無茶をしてきたからよ。――そろそろ、休ませてくれや。――な? 縫衣。お前は、まだまだ生きろ」

「九慈郎様も……」

「縫衣。俺はお前に会えてよ。人の親になれた気がしたもんだ。――笑っちまうぜ、この俺が」

「いやだ……。一緒に、生きて! ああ、一緒に……。でないと、わたしは、また、ひとりぼっちに。――九慈郎様!」


 すると、九慈郎は穏やかな笑顔を浮かべた。


「やれやれ、仕方ねえ。わかったからよ。――その前に、ちと、休ませてくれや」



 九慈郎の腕が力なく落ち、首が人形のようにかしいだ。目がすうと、静かに閉ざされた。苦しそうな、ざらついた呼吸の音が消えた。


 ふいに木陰から羽音――白い一羽の小鳥が空へ飛び立っていった。



 ついに縫衣は、こらえきれぬ様子で、九慈郎に飛びついた。両手で老剣士の頭を抱くと、肩を震わせた。


「九慈郎様っ。どうして……」


 うずくまった縫衣は、嗚咽混じりの声を漏らし、洟水をすすった。蓮二は二人を見下ろしながらも、周囲に視線を走らせた。


「ここを離れた方がいいぜ」


 すると縫衣が振り向いた。濡れた目元にかかる眉がしかめられ、口元から犬歯がのぞいた。


「なぜだ。お弔いせねば」

「無駄だ。時間がかかるし、危険だ。――野晒しが嫌なら、銀狼衆なんざァ、抜けた方がいい」


 蓮二はそう云いながら、怒りに見開かれた縫衣の瞳の中に、そこ知れぬ翳が澱んでいるのを見た。蓮二の脳裏に、先刻、縫衣が左腕で瘴魔をときの光景が蘇る。


「ちッ。何が何だか分からねえが。行くぜ」

「――いったい、どこへ?」

「この手のことにかけちゃ、いい場所がある。――たぶんな」

「だから、それはどこ?」

「白ノ宮だ。巫女どもの巣。聞いたことぐらいは、あるだろ」


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