白ノ宮 2

 へたりこんだ少女の横に、刀が落ちていた。なすすべもない、といった様子。獣は黒い瘴気をくゆらせ、唸り声を上げる。


 グルルルルゥゥ……


「やだ。いやッ……」と少女の声が聞こえる。


(あれが縫衣か? くそッ。間に合うか……?)


 蓮二は右手に太刀を掴み、獣の背後へと突っ走る。


 そのとき、少女――縫衣はおもむろに左手を突き出すと、獣の鼻先を包むようにした。


(何だと? 何をやってやがる……あいつ)


 すると、おかしなことが起こった。


 獣の体を覆う瘴気の層が揺らぎはじめたのだ。



 ギャアイイイイィィン……



 叫び声を上げて、獣の体が波打った。何度か痙攣けいれんすると、黒い粘土のようにねじれた。


 眼前までやってきた蓮二は、あまりの出来事に身動きすら取れず、縫衣の左腕を見つめた。


 黒い瘴気の塊と化した獣は、溶けて歪みながらも、縫衣の左手に吸い込まれて行くようだ。


 元の形を失いつつある獣は、抗うように哭いた。


 ギャィィィン……


 しかし、左手はまだまだ貪欲に、獣だった影を吸収してゆく。そして縫衣の左腕は青黒く染まっていった。――そうだ、その左腕はそもそも、妙に黒ずんでいた。


「いや、だ……。やめて……。やめて!」


 そんな声を漏らしながら、しかし左手はしかと獣を捉え続けていた。


 獣はもはや、一陣の煙の如き黒い筋を残すばかりとなり、その姿を消していた。


 一方で縫衣は黒ずんだ左腕を眼前に掲げ、それをじっと見つめていた。目も暗く落ち窪み、瞳孔が広がっていた。それに奇妙なことに、口元は引きつって、顔は青褪めている。


 蓮二は声を詰まらせながらも、


「お、おい。お前が縫衣なのか?」


 尋ねると、縫衣は口元を歪ませて嗤った。蓮二は怖気に襲われながらも続ける。


「答えろ! 九慈郎と同行してきた、銀狼衆の娘か?」


 そのとき、縫衣の肩が大きく揺れた。体の奥で、何かが暴れているように。


「やめて! 返して……。体を……」


 縫衣はそう切実な声で云うと、目つきが穏やかになっていった。ついで、気を失うように地面に倒れ込む縫衣を見て、蓮二は腰を屈めた。


「瘴気を、吸ったのか? こいつは何だ……。くそッ」




 縫衣は目を閉じ、森の地面に横たわっていた。いまだ横に落ちている白柄の刀は、小ぶりではあるが、森を写す刃はよく手入れされ、端正な造りが見て取れた。いささか、綺麗すぎるほどに。


(こいつは、新品も同様だ。たいして、ねえ。この小娘が、銀狼衆の若手だと? 九慈の親爺も、耄碌したもんだぜ)


 そうは思いながら、蓮二は右手を伸ばし、細い肩を揺する。


「おい、どうした。大丈夫か? ――縫衣。で合ってるのか? 目を醒ませ……」


 縫衣の袖からのぞく左腕は、肘から手にかけて黒ずんでいた。左腕だけが鬱血したかのように青黒く……。


 それに引き換え頬や額は白く滑らかだ。ぴたりと閉じられた柔らかそうな瞼や唇などは、ともすれば、わらべのようでもある。


 やがて瞼がぴくりと動く。――ついで小さな呻き声。


「ん、ああ……。わたしは……」


 縫衣は悄然たる目つきをしていたが、蓮二を見るにがばりと、上体を起こした。警戒の眼差しで、


「あ、あなたは……」


 蓮二は頭をがりがりと掻きながら、


「ちッ。助けるように、頼まれた。九慈の親爺に。俺は、盗賊だのじゃねえ」

「九慈郎様、に?」

「ああ。父っつぁんは瘴魔に。――獣に噛まれた。いったい何だ、やつらは。銀狼衆のか? だとしたら、なんだこの様はよォ」


 縫衣は片膝を立て、右手で刀を拾うと、きっぱりと首を振った。――黒髪が揺れて輝き、暗緑色の鉢巻が風になびく。


「違う。不意打ちだ……。九慈郎様は、わたしをかばって……。そうだ!」


 縫衣は悄然とした顔つきで、刀を片手に立ち上がると、ふらり、とよろけた。左手を木の幹に伸ばして体を支えると、


「おじさん、九慈郎様は……?」

「お前はよォ。ちったあ俺の話を聞けよ。第一、九慈の親爺が様づけなら、俺のことは蓮二様、とでも呼べよ。――で、父っつぁんは、あっちだ」


 蓮二は右手の親指を立てて持ち上げ、背後を示した。


「ありゃあ、大層な深手だった。早く手当しなきゃならねえ」

「そ、そんな。案内してくれませんか? おじさんが、見た場所へ」

「ちッ。躾がなってねえなァ。どうなってやがる。今の銀狼衆は……」


 それでも蓮二は振り返ると、


「遅れるな。ついてこい」


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