第一章 白ノ宮

白ノ宮 1

 馬稚国の都へ向かう街道は、森の中を南から北へ突っ切っていた。


 そんな、初夏の木漏れ日が差し込む山道を、ひとりの男が歩いていた。


 左腰に大ぶりの太刀を佩き、背中には行李を背負っている。


 消し炭色の髪は乾いて乱れ、擦り切れた黒い着流しの裾が風にはためく。左目の上には古い傷跡が走り、口元はきつく結ばれている。


 鋭い眼差しは、常に不機嫌そうにしかめられつつ、どこか深い哀愁を感じさせた。


 その男――蓮二は肩を左右に悠然と揺すって、左手を顎に添えて、まるで森が我が物でもあるかのように進んでいた。



 そのとき蓮二は、ふいに異変を感じた。急に背中がざわつき、風が冷たく感じたのだ。


「なんだァ……。この感じはよォ」


 目を細めて呼吸を整えると、木立へと視線を走らせる。――かつて銀狼衆で学んだ、観気ノ術だ。すると右方から、滲むように瘴気が漂ってくる気がした。見ると、草木を掻き分けて、太刀を右手にしたひとりの男が駆けていた。


 白髪混じりの老剣士、といった風情で、暗緑色の鉢巻に、同じ色の着物と袴姿。まさしく銀狼衆の剣士だ。


 それに、只事ならぬ表情で額に汗を浮かべて、背後を睨んでいる。


 老剣士の顔は、蓮二に見覚えがあった。


「まさか、九慈郎くじろう――九慈の親爺おやじか……」


 蓮二はすぐに駆け出した。街道から茂みに飛び込み、老剣士――九慈郎の背中を目指す。むせ返る濃密な緑の匂いが押し寄せてくる。


 九慈郎は黒い獣に追われているようだった。ずっと先を走る九慈郎の背後に、狼のような黒い獣が迫っていた。


(ちッ。銀狼衆の侍が、野良犬に追われてたんじゃ、洒落にもならねェ)


 心内でぼやきながらも、蓮二は走る。


 九慈郎は奇妙なことに、獣から逃げながらも、誰かを探すようにときおり周囲を見回している。


 しかしやがて、九慈郎は大木の前に行き着くと、疲れ果てたように、その大木に背を預けた。


 グルルルルルゥゥ……


 獣は低く喉を鳴らし、一度身を屈めてから飛び上がる。――瘴気を陽炎の如くまとい、九慈郎へと落ちてゆく。


 九慈郎は太刀を横薙ぎにして払うも、再度獣が地を蹴って迫り、九慈郎の首に飛びついた。


「うぐあッ!」


 と苦悶の声が聞こえる。


 蓮二はやっと追いつくと、九慈郎へと喰らいつく獣の背中に、太刀を振り降ろす。


「くたばれッ」


 濡れた布を斬るような、独特な手応えとともに、獣の体が地面に落ちる。


 ギャイイィン……!


 獣は哭き声を上げ、横たわって赤黒い舌を出す。再び蓮二は太刀を振り上げると、右足を大きく踏み出して斬り下ろす。


「仕舞いだ……」


 刃は獣の頭を断ち切った。


 獣は甲高い声で哭くと、蒸発するように消えていった。蓮二はそれを横目に、


「おい、大丈夫か、九慈の親爺……」


 九慈郎は座り込み、噛まれた喉の傷口を押さえていた。止めどなく溢れてくる血を押さえつつも、悲痛の面持ちで見上げてきた。掠れた声で、


「そ、そなたはまさか、蓮二か……」

「いったい、何の因果か……。驚いたぜ。よりによって、あんたと鉢合わせるとは……。それより、血を止めねえとッ」


 九慈郎はがくりと横に崩れながらも、再び青褪めた顔を上げた。血が着物の襟を赤黒く染めている。


「わ、儂はいい。――そ、それよりも。縫衣を」

「縫衣だと?」

「ああ。銀狼衆の、若手だ……」

「女みてえな名前だなァ。そいつはどこだッ」


 すると九慈郎は一度咳き込んでから、震える指先で森の奥を示した。


「あっちだ。急に獣どもが……。瘴魔が襲ってきやがって……。頼む、蓮二……!」

「――ああ。あんたの頼みとなりゃ、断る道理もねえ。待ってろ」


 そう云って駆け出しながら、蓮二は目を細めて木立の先を見た。


 瘴気の流れを追ってゆくと、今度は銀狼衆の装束――暗緑色の着物に袴姿の、ひとりの少女が見えた。少女は木々の間の草むらに座り込み、黒い影にのしかかられていた。


 それは九慈郎に迫っていたものと似た、獣の瘴魔のようだった。


「こいつは、やばいぜッ」


 蓮二はさらに強く地面を蹴って、森を駆けた。


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