126-夢見る飴
誰もいない小さな街の片隅にある古物店に静かに明かりが灯っている。石畳の上の街灯は仄かな光で足元を照らすだけなので、街は暗い。何も無い黒い空は常に夜を引き下ろし、静謐を抱いている。
置棚が並ぶ狭い店内の奥にある机上で古いチェス盤を広げ、黒いマレーバクの動物面を被った
贔屓は変転人のように手紙の思念を辿ることは苦手なので、机に懐中時計のような形の思念を感知する羅針盤を置いて度々視線を向ける。変転人なら懐に入れていても感知できるのだが。
「……ああ、そうだ獏。一つ伝えておかないといけないことがあったんだ」
「何?」
白と黒の駒を交互に進めながら、二人は顔を上げずに会話をする。
「君のこの牢を以前の街のように牢屋らしくない形にしたことには意味があるんだ」
「そうなの?」
以前牢として使用していた街は
「事故や事件で変転人が
「ここで一時的に保護するってこと?」
「ああ。必要なら他の建物を使用してもいい。最低限の家具は備え付けてある」
「そうだねぇ、誰も牢屋で待機なんてしたくないもんね。でもそういう仕組みは、僕が罪人になる前からあれば良かったのにね。もしくは……宵街に直接手紙を出して頼ることはできないの?」
「宵街とこの街は空間の造りが違うんだが、宵街の中では人間の街の思念を感知するのが難しいらしい。変転人によって個人差が出るようだ。それに宵街の仕事を増やすと狴犴が心配だからな……」
仕事を増やすと狴犴がまた過労で倒れそうだ。負担が減らせる所は減らした方が良い。
「ポストを利用する仕組みは
「あ、そっか。確かにそうだね。僕が生まれた時は無かった気がする」
獏は明治二年に生まれた。ポストが生まれたのはその少し後、明治四年だ。その頃の獏は見世物小屋に囚われていた。
「獏が罪人になったことと、宵街とは異なる空間を牢に使用したことで、この仕組みを構築することができた。試用も充分できた」
「狴犴は僕で色々試し過ぎじゃない? 本当に罪人と思ってる?」
「烙印を捺しているんだから罪人とは思っているだろ。気に入られているんじゃないか?」
「気持ち悪いこと言わないでよ……」
「フ……信頼されているなら、裏切らないようにな」
笑ってはいるが、贔屓の言葉は脅しのようだった。裏切れば事によっては文字通り首が飛ぶかもしれない。
「――で、問題無く善行ができてるから、採用したってこと?」
「そうだな。変転人が思念を辿れることに気付いて利用するなんて、面白いだろ?」
「僕もちょっとは辿れるよ」
「獣は個体差があるようだ。だがどの獣も手紙を正確に回収できるほど辿ることはできないだろ。手紙の回収は変転人に軍配が上がる。獏はできることの幅が広いようで羨ましいよ」
「……見世物になれば能力が増えるんじゃない?」
静かに声が沈み、潮が引くように感情が抜けた。獏にとって能力が多いことは嬉しいことではなく、屈辱の傷のようなものだ。発現したものは利用してやると能力を使っているが、羨ましがられると複雑な気持ちだ。
「すまない。詳細は知らないとは言え、悪いことを言ってしまったな」
「いいよ。何人かに昔のことを話した所為かな、今は少し落ち着けるようになった。じゃなかったら今頃、君の頭を掴んで机の角に叩き付けてたかもね」
「それは躱すが。――チェック」
「えっ……」
王に狙いを定める白い駒に気付き、獏は目を瞠った。チェスは何度も打ったことがあるが、追い詰められたのは初めてだ。
「ちょっと待って……いつの間に……」
「ああ、長考してもらって構わない。久し振りに手紙が投函されたようだ。頑張って回収してくるよ」
思念を辿れる羅針盤があるとは言え、手紙の差出人を探し出すのは変転人のように容易ではない。獣でも探し出し易いように目印の蝋燭を灯してもらっているが、それでも少し時間が掛かる。
「いってらっしゃい……」
獏は盤から顔を上げず、贔屓は思念の羅針盤を拾いながら笑う。獏は元の調子に戻ったようだ。独りだと鬱いでしまうことでも、今は気を紛らわせられる物がある。
フードを目深に被り、贔屓は手に杖を召喚する。監視役体験は中々順調だ。
一人で暫し待たされる獏は盤上の駒を並べ替えようかと魔が差すが、駒の位置など贔屓は全て記憶しているだろう。諦めるしかないのかと獏は腕を組んで天井を見上げる。天井も壁も床も、以前の街と大差無い。まるで何も変わっていないようだった。
天井を見上げていても現状は変わらず、その格好のまま暫く固まっているとドアを開ける音が聞こえた。獏は徐ろに前方に顔を戻す。浮かない顔をした少女が一人、贔屓に連れられて店に遣って来た。
少女は獏の前に立ち、怯えるように顔を伏せる。
贔屓から手紙を受け取った獏は中身に目を通し、振り返って棚から大きな瓶を取り出した。
「眠れないから噂の眠り薬が欲しいらしいけど、これは薬じゃないよ」
「え……?」
獏は顔を上げた少女を見上げ、中に白い結晶が詰まった大きな瓶の蓋を開けた。
「これは僕の力を閉じ込めてもらった物で、眠り方を思い出させてくれる安眠氷砂糖。副作用は無いし、只の甘い飴みたいな物だよ」
親指の先ほどの結晶を一粒取り出し、小さな紙袋に入れて少女に差し出す。少女は困惑を顔に貼り付けた。
「……よく効く睡眠薬なんですよね? もっと……欲しいです」
「一つで充分だよ。一度食べれば眠り方を思い出すんだから。もしまた眠れなくなったら、またここに来ればいいよ」
「怖い夢を見て……だから怖くて眠れなくて……だから……」
「そんなに心配なら、悪夢以外の夢を見られるように誘導する夢見ドロップもあげようか」
「えっ……ぁ……じゃあ……はい……」
棚の木箱の中から今度は長方形のブリキ缶を取り出し、小さな蓋を開ける。中身の見えない缶には何が入っているのかわからない。
「何が出るかはお楽しみ。さあ手を出して」
「…………」
何が出るかはわからない。そう言われて少女は躊躇した。噂の怪しい眠り薬を求めて来たとは言え、人間では無い妖しい生き物が差し出す何が入っているのかわからない物に手を出せなかった。
それでも獏は缶を突き出して微笑む。
「さっきから気になってたし、やっぱり先に処理してあげようかな」
「……?」
一旦缶を置き、獏は机を回り込む。そして首を傾け、俯く少女の顔を覗き込んだ。
「君、悪夢に喰われかけてるね」
「え……?」
今はまだ獏の目にしか見えない黒い靄が、少女から吐き出されていた。
「贔屓、悪夢を食べてもいいんだよね?」
フードを目深に被りドアに凭れていた贔屓は小さく頷く。
「構わない。監視の監督の許なら許可する。だが使役は許可できない」
「しないよ。そうほいほい披露するものじゃないからね。あんまり遣り過ぎると自己嫌悪に陥っちゃうし」
最近は眠れないと言って訪れる人間が多く、一人一人の眠れない原因を潰していくのも骨が折れるため、この安眠氷砂糖を作ったのだ。
何か楽しみがあって眠れない人間はこんな所に来ない。ここに来るような人間の眠れない原因は殆どが悪夢の栄養になるものだ。思い掛けない餌に、獏は高揚しながら少女に手を伸ばした。
「!」
少女は人間とは思えない反射速度で後方に跳び退く。黒い靄が不規則に少女から噴き出した。
「おや……少し乗っ取られてるね」
「私は……私は! 弱い人間だから! 強くなくていい! 来るな! 克服なんてしなくていい! 優しくしないで!」
獏は少女へ指の輪を向け、隠された感情を覗いて苦笑した。
少女は背を向けてドアへ――贔屓に向かって床を蹴る。店から逃げ出すのが目的か、ドアを塞いで立つ贔屓を襲うつもりなのか、少女の口角は引き攣るように持ち上がった。
「何もしないつもりだったが……」
悪夢に操られ最早人間の動きでは無い。贔屓は杖を翳して少女に即座に加重する。
少女は驚愕を顔に貼り付けた後、意思に反して床に勢い良く叩き付けられた。床に俯せに貼り付いたまま動けない。まるで床に縫い付けられたかのように、顔を上げることも叶わなかった。
その背後から獏は余裕の笑みで歩み寄る。贔屓なら取り押さえられると確信していた。蹲んで膝を少女の背に当て、頭を掴む。
「贔屓、頭だけ軽くすることはできる?」
「難しいな」
「じゃあいいや。力を解いていいよ。すぐに食べる」
「ああ、わかった」
杖を振ると加重が解かれ少女は踠こうとするが、獏に両目を押さえられ、棚の側面に頭を叩き付けられて両脚に伸し掛かられた。
「あ……ああっ!?」
「乗っ取りは死の前兆……すぐに楽にしてあげる」
動物面を外し、獏は少女に口付けた。口の端から黒い靄が漏れる。
無音で悪夢を呑み込み、獏は面を被り直して唇を舐めながら首を傾けた。思ったよりも普通の味だ。宿主を乗っ取るほど育っている悪夢ならもう少し美味だと思っていたのに。
少女はずるりと床に落ち、惚けて虚空を見詰める。
「さ、これで大丈夫だね」
食事を終えた獏は満足げに立ち上がり、机まで戻って夢見ドロップの缶を取って戻る。動かない少女の掌の上で缶を振り、かろころと音がして橙色の飴が転がり出た。
「良かったね! 普通だと当たりだよ!」
安眠氷砂糖と同じように小さな紙袋にそれを入れ、少女の手に載せる。
「この二つは同時、もしくは連続して食べてね。――良い夢を」
にこりと微笑む獏に贔屓は違和感を覚えたが、用の済んだ少女の腕を掴んで立たせる。少女はもう暴れる気配は無かった。悪夢とは本当に厄介で、理解の難しいものだ。
贔屓は用の済んだ少女を連れ、速やかに元の場所へ転送する。暴れる人間はあまり長居してほしくない。
贔屓がいてくれると不測の事態にも安心だ。そう思いながら獏は棚の整理をして帰りを待つ。他に用の無かった贔屓はすぐに戻って来た。
フードを脱ぎながら椅子に腰掛けた贔屓は、机上に放置された盤上の駒に変化が無いことを確認する。
「獏。良い夢を、とはどういう意味だ?」
「何? 変なことだった?」
「悪夢を美味しそうに食べる君が言う『良い夢』とは何なのかと思ってな」
「ふふ……」
獏は意味深長な含み笑いをする。
「一口に良い夢と言っても、全ての人に対して良いわけじゃないからね。悪夢なんて人それぞれなんだから」
楽しい夢でも悪夢になる時がある。獏の言葉で贔屓もそれを理解した。
「……成程な。その夢見ドロップと言う物は何なんだ? 氷砂糖は許可したが、それは初めて見る」
「これ? 安眠氷砂糖は眠り方を思い出させてくれる飴でしょ? 夢見ドロップは夢を見られるよう、眠りを浅くする飴だよ。眠りの浅いレム睡眠に手を引いて、特定の感情を誘発させる記憶を継ぎ接ぎして夢に見せるの。色によって誘発する感情は異なる。お遊びで作ってみたんだけど、君も試してみる?」
缶をかろころと振って笑う獏に、贔屓は苦笑し首を振った。
「遠慮しておこう。聞く限り良い夢を約束してくれる物ではなさそうだ」
「あれ? もうバレちゃった」
「先程自分で言っただろ。全ての人に対して良いわけではないと」
缶を木箱に戻し、獏は笑いながら古い椅子に座る。盤上の黒い王を指で弾き、こつんと転がした。
「飽くまで感情を誘発するだけだからね。継ぎ接ぎの結果、何が出来上がるかは誰にもわからない。橙色は温かくて一般的には幸せと言える感情だけど、それが万人に幸福を与えてくれるとは限らない」
「先程の彼女にとっては幸福では無いんだな」
「ふふっ。そうだね。だってあの子の見る悪夢、あんまり美味しくなかったんだもん。一般的な負の感情じゃなかった。たぶんあの子の周りの人達は良い人達なんだろうね。それが彼女にとっては重く、苦しいことだった」
人によって好き嫌いが異なるように、悪いと感じることも異なる。一概にこれが悪夢と決め付けることはできない。なので黒い靄だけが頼りだ。黒い靄が見えればそれは総じてその人にとっての悪夢である。
「人間は難しいな……。一人で生きる獣には理解するのが難しい」
「理解しなくていいよ、人間のことなんて」
「そうか? 飴を必要とする人間がいることは理解できたが、渡すのは程々にな。核に変換石を埋め込んでいるだろ? 人間の体にどんな影響があるかわからないよ」
「埋め込んでるんじゃなくて、砕いて混ぜ込んでるんだよ」
「…………」
どちらにしろ変換石が含まれていることには変わりない。変換石は宵街で産出する特別な石だ。獣が召喚する杖や変転人が生成する武器には力を媒介する変換石と言う石を装着しており、体内に収めて取り出すことができる。人間は石を削って薬として呑むことがあるが、変換石がどう作用するかはわからない。
「一粒や二粒に留めておくようにな。――それで、チェスは君の負けでいいかい?」
「…………」
嫌なことを思い出させられて獏は不満げに唇を尖らせた。転がっていた黒い王を抓み、王を追い詰めた白い騎士を突き倒す。
「いいけど」
「相手がいるのも良いものだな。長らく人間の街で一人でいたが、偶には誰かがいるのも悪くない」
「寂しいの?」
「いや、そういうことではないんだが」
駒を木箱へ仕舞う獏を見ながら、贔屓は周囲の棚をぐるりと見回す。何に使うのかわからない部品や古い道具などが雑多に並んでいる。人間の作る物は移り変わりが早過ぎる。獣の棲む宵街から離れて人間の街で暮らしている贔屓には棚の中の物は懐かしく、そして虚しい物だった。すぐに失われていく物に寂しいという感情は無い。それは生命も同じだ。
「欲しい物があったら買っていいよ」
「罪人が店とは、何度聞いても奇妙だな」
「そう言えば、贔屓ってどうやって人間のお金を手に入れてるの? ずっと人間の街に棲んでるんだから、買物もするよね?」
「秘密」
「え……」
何気無い会話のつもりだったが逸らかされるとは思わず、獏は素っ頓狂な声を出してしまった。
「悪いことしてそう……」
「人聞きが悪いな。だが……君と似たようなことをしている、と言っておこう」
「善行? 贔屓も願い事を叶えてるの? それとも暗殺?」
「君は暗殺をしているのか? 僕のことは秘密にしておこう」
「言えないことなんだ……」
軽く突いてみるが、贔屓の口は堅かった。話してくれないのならと獏も詰まらなくなる。毎日喫茶店で珈琲を飲める程度には稼ぎがあるはずだが、人間の街に彼の家があるのかも知らない。よくよく考えれば贔屓のことを何も知らないことに気付いた。宵街の元統治者という肩書きと兄弟が多いこと以外、何も知らない。
チェスセットを棚に仕舞い、横目で贔屓を見る。贔屓は近くの棚に置いている古書の方を見ていた。
獏も古書に手を伸ばそうとしたが、誰もいない街に不意にドアを叩く音が聞こえた。
「……さっきの人は送り返したんだよね?」
「ああ。人間が自力でここには戻れない」
「誰だろ」
「僕が出るよ。もしかしたら
灰所属の変転人――灰色海月は罪人の監視役をするにあたり未熟だったので、宵街で教育を受けている。その間の獏の監視は贔屓が引き受けているが、彼女が戻って来たなら贔屓はこの街を出て行くだろう。監視役は一人で充分だ。暇潰しのチェスの相手がいなくなるのは少し寂しい。
ドアに手を掛けようとした贔屓は、ふと止まって片足を半歩引く。ドアを開けると同時に腰を反らし、顔を逸らした。
「!」
驚いたのはドアの向こうに立っていた者で、突き出した手が空を掻いて目を丸くした。
「――はあ!? 完全に気配を消した鼻フックだっただろ!」
頭に牛のような角を生やした白黒頭の少年――
「獏なら掛かったかもしれないが、僕は掛からないよ」
「僕も掛からないよ」
奥で獏がぼそりと呟き、贔屓はくすりと笑った。
「窮奇は気配が騒がしいからな」
「おい、どういう意味だそれ」
舌打ちをする窮奇の後ろで、ふわふわの白い髪を黒いリボンで二つに束ねた、羊のような角を生やした少女が不思議そうに彼の服を掴んで見上げる。いつも被っていた学帽は被っていない。贔屓は彼女へ目を遣った。
「結局
「贔屓
嬉しそうに手を上げる饕餮に、贔屓も軽く手を上げて応じる。彼女は以前、肉体を遺して魂だけが死ぬという稀有な体験をした。通常、死んだ獣は容姿も性格も変わって別人に化生する。饕餮は魂だけ化生をしたため、体に変化が無い。
記憶を全て喪って新しく生まれた彼女にはもう近付かないと窮奇は宣言したのだが、結局死ぬ前と同じように連んでいる。
「こいつが勝手に付いて来るんだよ……」
「懐かれたんだな。それで、二人は何故ここに?」
窮奇に尋ねるが、饕餮の方が手を挙げて答えた。
「獏の新しい家ができたと聞いて、見に来た」
「なんだ、窮奇の方が付き添いじゃないか」
「蜃がいるかと見に来ただけだ」
いないと伝えると窮奇は落胆し、饕餮は慰めているのか彼の背中をばしばしと叩いた。
贔屓は彼女にも、ここは街の形ではあるが罪人の牢であることを教えておく。面会は構わないが、気軽に遊びに来る場所ではない。
その二人の更に後ろに、微動だにしない灰色の人影がじっと様子を窺っていた。出入口を塞がれてしまったので、中に入れず困っている。贔屓が視線を向けると彼女は漸く動き、灰色の頭を下げた。贔屓は彼女の存在に最初から気付いていたが、窮奇の攻撃を避ける方が先だった。
「灰色海月、お疲れ様。少し引継ぎをしようか」
「はい」
外に出る贔屓の遣り取りを聞き、獏も店の奥で腰を上げる。灰色海月が戻って来たのだと気付く。
饕餮が物珍しそうにきょろきょろと店内に入り窮奇も後に続くので、獏は狭い通路を押し退けて外に出ることはできなかった。
「おい獏。蜃が何処に行ったか知らねーか?」
「知らないなぁ。自由に出歩けないから、外のことはさっぱりだよ」
「宵街にいる時はいつでも会えると思ってたんだけどな……オレに無言でいなくなったんだ」
「それはまあ……気持ちはわかるよ」
蜃は以前窮奇に瀕死の重傷を負わされ、それ以降彼が苦手だ。わざわざ窮奇に居場所を教えることはないだろう。宵街にいないのなら、友達の
「饕餮の方はどうなの? 少しでも記憶を思い出した?」
「いや、記憶はちっともだ。そっちはもう諦めてると言うか、もう考えなくていいだろ。記憶が無い所為か、好奇心だけは前よりあってうろちょろ付いて来る。あいつ、オレが入ってんのに便所のドアを開けやがったんだぞ」
「はは……それは大変そうだね。鍵を掛けなよ」
「掛けてたし。ドアを蹴破りやがったんだ」
「ふふ……それはどうしようもないね」
「だから人間の便所は、男の方には入れないんだって言い聞かせた。理解したかはわからねぇ……こいつ絶対前より阿呆になってる」
「えっ、人間のトイレを破壊したの?」
きっとドアを破壊されたそのトイレに人間は困惑しているだろう。宵街ではトイレは共用なので、人間の規則を覚えることを急いだ方が良いかもしれない。それ以前にドアは蹴破る物ではないが。
今世の饕餮も天真爛漫のようだ。距離を取ると言った窮奇も彼女の好奇心に付き合って振り回されている。饕餮の外見が変わっていないこともあり、やはり化生前と他人とは思えないようだ。
話しつつ何だかよくわからない物が詰まっている棚を縫って物色していた二人はどかどかと騒がしく二階へ上がり、漸く静かになった。場所が空いたので、ドアから長い灰色の髪を揺らしながら灰色海月が中を覗く。贔屓との話は終わった。
「獏。簡単に引き継いだから、僕の仕事はここまでだ。時々様子を見に来るかもしれないが、僕はこれで失礼するよ」
「うん。チェスの相手ありがとう。次に来る時は御茶くらい出せるようになってるといいんだけど」
「フ……罪人に御茶は期待していないよ」
少しくらい名残惜しい顔をするかと思ったが、贔屓はあっさりとドアを閉めて出て行ってしまった。行き付けの喫茶店の珈琲が恋しいのだろう。
残された灰色海月はやや緊張気味に灰色の頭を下げ、落ち着かなさそうに口を開いた。
「あの……私を覚えてますか?」
「うん。覚えてるよ。おかえり、クラゲさん」
微笑んで名前を呼ぶと、彼女はほっとしたように緊張を和らげた。
「修行してきました。これで私も立派な監視役です」
「修行……? 教育って聞いたけど、戦闘訓練もしたの?」
変転人となり然程時が経たない内に獏の監視役となった灰色海月は改めて宵街で教育を受け、無表情でありながらその顔は自信に満ち溢れていた。獏を慕う彼女は罪人の監視にも不満を漏らさず、寧ろ遣る気を漲らせている。正義に従う白、命令があれば悪にも染まる黒――そのどちらとも言えない灰の彼女は貴重な存在だ。
教育は一ヶ月ほどするのだろうと獏は想像していたので、僅か十日ほどで彼女が戻って来たことに驚いている。物覚えは悪くないようだ。
「宵街のことと罪人のこと、そして簡単な体の使い方を教えてもらいました。体の使い方はレオ先生が教えてくれました。水中生物は元は水の抵抗と浮力の中で生活してたので、その時の癖が残ってる場合があるそうです。癖を取る練習をしました」
レオ――無色の変転人の中では最年長である黒色蟹は、元は灰色海月と同じ海の生物だ。似た環境で育った彼なら彼女のことも理解できると言うわけだ。灰色海月は
「私は海にいた頃はぼんやりと流されて漂うことが殆どだったので、抵抗はあまり感じたことはないんじゃないかとレオ先生に言われましたが。舐められた気がしました。いずれ蟹と海月どちらが強いか決着を……」
「変な自信が湧いちゃったかな……落ち着いて、クラゲさん」
黒色蟹の予約が取れないと贔屓が言っていたが、灰色海月の教育を任されていたからのようだ。これは確かに予約を捩じ込めない。
「はい。――あ、あと、感情について質問をしたんですが、変転人の成長についても教えてもらえました」
「へえ。どんな?」
灰色海月は何を学んだのか聞いてほしくて堪らないようだ。まるで子供が学校で覚えたことを親に聞かせるように。獏も穏やかに微笑みながら耳を傾ける。
「変転人は大体三歳くらいまでに色んな感情が出現し、五歳くらいで理解して顔にも表情として出て来るそうです。それから個々の能力や経験も含め、十歳くらいで一人前となるそうです。多くの人と交流すればするほど感情の成長が早かったり、個人差があるのであまり気にしなくていいと言ってました。個人差で早期に涙が出ることもあるだろう、とのことです」
「そういうのは僕も初めて聞くよ。さすが最年長、勉強になるね」
「十歳で一人前ならつまり、スミレさんは一人前ですよね。急にしゃしゃり出てきた不穏分子としか思ってませんでした。実は凄かったんですね」
「今度スミレさんに言ってあげるといいよ」
つまり現在一歳である灰色海月は、内に感情が出現しているがあまり理解できていない状態らしい。それなら出て来た感情に混乱して振り回されるのも無理はない。また獏を困らせるようなことを言っても長い目で見ておこうと、獏も理解を示すことにした。
「それと……その、貴方も御茶を出すと聞こえたんですが、私の仕事を取らないでください。私がいない間は仕方無いですが……。贔屓さんに淹れてもらってたんですか?」
「贔屓も紅茶は淹れられないみたいだよ。珈琲は苦いから断っちゃった」
「そうなんですか。飲み物を淹れなくても監視役は務まるんですね……」
「僕も贔屓も契約の刻印は使えないからね……」
灰色海月は切ない表情になったが、変転人の中から監視役を当てるはずだったのに結局見つからなかったのだと察した。一時的とは言え罪人の監視のために自分も牢に入り毎日を過ごすなど、生半可な覚悟ではできないだろう。だがまさか宵街の元統治者が罪人の監視代理を任されているとは、ここに来るまで灰色海月は知らなかった。
「今は何か仕事はありますか?」
「丁度善行が終わった所だから、新しい手紙が無いなら遣ることは無いよ。いつも通りクラゲさんは自由にしてて」
「そうですか」
意気込んで遣って来たので少々肩透かしを喰らった気分だが、灰色海月は周囲を見渡して奥の台所を覗いた。この新しい牢である小さな街に足を踏み入れたのは初めてだ。まずは確認である。
「間取りは前の街と同じですか?」
「うん。台所は少し広くなった気がするけど、大体同じだね。また椒図の力で閉じてもらったから、食品が劣化することもないんだって。気を利かせてくれたみたいだね」
罪人に気を利かせることはないが、台所の設備は灰色海月のためだ。罪人と共に牢で過ごさなければならない彼女のために、せめてもの息抜きとして台所を充実させている。菓子作りが趣味だからと白花苧環が狴犴に進言したのだ。
「貴方の後ろには、前は無かった棚があります」
「ああこれ? 善行に必要な物を置けるように設置してもらったんだ。クラゲさんにも教えておくね。安眠氷砂糖と夢見ドロップ。僕の力を椒図に閉じ込めてもらって作った飴だよ」
「飴……ですか? 食べられるんですか?」
「勿論。食べるとぐっすり眠れるし、良い夢が見られる。毒物じゃないし副作用も無い。しかも美味しい。はず」
「…………」
「あれ? 信じられない?」
「……はい」
「そうだねぇ……誰かには良いことでも、他の誰かには悪いことかもしれないからね。でもそういうのって他の色んなことにも言えるし、僕の作ったこれだけが悪いってわけじゃないよね。それを悪いって言われてもねぇ……あ、贔屓は許可してくれたよ」
贔屓が許可を出したのなら、灰色海月はそれに異を唱えることはできない。人間を喰い物にするこの獏の性格は変わっていないようだ。
「味は人間に馴染みのある苺味とか蜜柑味だよ。お店で売ってても可笑しくない」
「売るんですか?」
「さすがに売りはしないかな。夢のような飴だけど、取り扱い要注意の危険物だし」
獏は何ということもなく笑い、灰色海月は危険物の自覚はあるのだと呆れた。贔屓が使用を認めているのだから口は出さないが、贔屓がいなければ一度宵街に戻って判断を仰ぐ所だ。
「苺とか蜜柑とか聞こえた!」
「!」
突然傍らに気配も無く立っていた饕餮に、獏はびくりと跳ねた。そう言えばいつの間にか二階の騒がしい足音が消えている。
「御菓子なの? 美味しい物?」
「ダメダメ。これは気軽に食べる物じゃないんだから。眠れない悩みを抱える人とか、夢を弄りたい人が食べる物なの」
手を伸ばす饕餮を躱しながら、獏は棚にある飴の瓶と缶を守る。おやつに食べて良い物ではない。
「ふぅん。食べるなと言われると腹が減る……」
「ここは飲食店じゃないよ」
「御菓子なら何か作りましょうか?」
しょんぼりと眉尻を下げていた饕餮の顔が、朝陽を受けたようにぱっと輝く。大きく頷き、親指を立てた。
「食べたい物はありますか?」
「じゃあ美味い奴!」
遅れて二階から下りてきた窮奇は、階段の下で退屈そうに欠伸をする。
「余程の喰えない物じゃない限り何でも喰うぞ、そいつ」
何を作るか悩む灰色海月に窮奇はぼそりと助言する。今まで饕餮が不味いと言った物など、前世も含めて、腐敗した物と毒物くらいしかない。肉しか食べない窮奇には、何でも食べる饕餮を見ていると面白いと感じる。
願い事の手紙の投函も無いので、灰色海月は台所の棚を開けて材料を確認した。善行の監視よりも、こういう何もしない時間の方が多い。監視役は暇潰しの方が重要だ。
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