透明街の人喰い獏(2)

葉里ノイ

125-火種


 どんな手段を用いても人間が自力で辿り着くことはできない透明な街が、この世界の何処かにあるらしい。

 そこは小さな街で、『それ』以外は誰もいない静謐と闇に包まれている。

 願い事を書いた手紙を『それ』宛てにポストに投函すれば、そこへ連れて行かれて願い事を叶えてもらえる。

 投函すれば後は家に帰って一本の蝋燭を灯せ。その蝋燭が燃え尽きるまでに迎えが来る。


 男は偶然耳にした眉唾物の噂通りに、家に余っていた茶封筒へ願い事を入れてポストに投函した。

 帰る途中でわざわざ購入した蝋燭を箱から一本取り出し、火を点して適当な小皿に立てる。

 何を遣っているんだろう。男はふと我に返り、馬鹿馬鹿しいと床に寝転がった。何が願い事を叶えてくれる『ばく』だ。獏と言えば夢を喰うものだろう。どうやって願いを叶えるのだ。そう気付いてしまった。

 仕事から帰ったばかりの男は疲れていた。きっと疲れていたから変な噂に惑わされ、試そうと思ってしまったのだ。



 誰もいない闇の中に少し蛇行した狭い石畳が伸び、左右に五軒ずつ洋風の家が並んでいた。石を積んで作った家の一つにだけ明かりが灯り、それ以外は闇に沈んでいる。

 その唯一の明かりがある家の中には背の高い置棚が幾つも聳え、何に使うのかわからない瓦落多がらくたが雑多に詰め込まれていた。

 外壁は石だが室内は木でできており、薄暗い橙色の光が見下ろす通路の奥に机が一つある。机の向こうには古い革張りの椅子が置かれ、黒い動物面を被る人間では無い者が微笑んでいた。

 その対面に簡素な椅子を置いて座る人間の男は茫然自失といった様子で床を見詰め、焦げた臭いを漂わせていた。

「――それで、君は願い事を変えたいの?」

 動物面は短い黒髪に黒衣を纏い、肌の色だけは白く浮かぶ。少年なのか少女なのか曖昧な声で尋ねながら、そいつは茶封筒を机に置いた。男がポストに投函した物だ。

「ああ……。変えたい……」

 ぼそぼそと燻るような声で男は力無く呟く。随分と生気の無い草臥れた差出人だ。

「獏なんて……でももう……こんなのにしか縋れない……」

「こんなの……ね」

 随分と見下げられたものだ。獏は人差し指と親指で徐ろに輪を作り、男へ向ける。面の奥で無言で瞬きをし、かくんと首を傾けた。

「……焦げ臭いと思ったら、家が燃えたんだね」

 獏は席を立ち、隣に見える小さな台所へ入って行く。

 男は俯いたままだが、次第に唇が震えてきた。

「まあとりあえずミルクでも飲みなよ。砂糖も入れる?」

「お……お前の所為だからな!」

「ん? 何が?」

 堪えきれなくなった男は椅子を引っ繰り返しながら立ち上がり、両手を机に叩き付けた。

「お前の噂の所為だ! 蝋燭に火を点けろなんて……火を点けなけりゃオレの家は燃えることはなかったんだ!」

「えぇ……それを僕の所為にするの? 君の不注意でしょ? 火を点けたままうっかり寝て、寝返りの振動で蝋燭が倒れたんでしょ? それで机が燃えて動転して急いで逃げた。最初は小さな火だったんだから消せば良かったのに。寝惚けてたの?」

「何でそんな見てたみたいに!」

「ふふ。願い事を叶えるんだから、それくらいはできないとね」

 男がもう机を叩かないことを確認し、獏は手に持っていたティーカップを置いた。中身は冷たいミルクだ。

 男は興奮しながらも白く揺らぐそれに目を落とした。揺らぐ表面が炎の揺らぎに見えて最悪の気分だ。

 獏は椅子に座り、嫋やかに脚を組む。机に置いた封筒をもう一度指で叩き、頬杖を突いた。

「手紙には『他人の心が見たい』って書いてるけど、今の君は『家をどうにかしてくれ』なんだよね? 願い事の変更は受け付けるけど、あんまり大きな変更はしてほしくないんだよね。こっちにも心の準備があるんだから」

「じゃあ何だ……両方か!? 両方でいいのか!」

「自棄になって話が噛み合わなくなってきたね……。両方でもいいけど、代価も二つ分戴くよ。燃えて何も無くなった君にも安心の、金銭じゃない、君の心の一番柔らかい所をほんの少し……を、二倍」

 獏は白魚のような指を二本立てて微笑む。願い事の数は一度に一つと決まっているわけではなく、幾つとも決めていない。ただ後者は面倒臭いので取り下げてほしい、と内心は思っている。

 差し出された願い事は全て等しく叶えるわけではない。手紙を見て叶えるかどうか選択をしている。燃えた家をどうにかしてくれなど、どうにもできるはずがない。燃えた物は戻らないのだ。新しい家をくれと言われても、獏は不動産屋ではない。

 願い事を叶えると噂を流せば、人間は何でも願おうとする。曖昧な噂によくも群がってくるものだと獏は感心している。

「家をくれるんなら代価くらい幾らでもくれてやるよ! ああ……賠償金も請求されるかもしれない……それもどうにか……」

「法律相談所に行けばいいのに」

「お前、獏だろ!? 現実的なこと言ってんじゃねぇよ!」

「君も現実を見た方がいいよ。……で、願い事は何? 決めてくれないと叶えられないよ」

「だから……! 気持ちをもっと察しろと言われて……それで! 他人の心を見られるようにしてほしい! あと家だ! 一人で静かに過ごせるような……贅沢は言わねぇ……ワンルームで充分だ! どうだ!? 譲歩してるだろ!? 一軒家でもいいけどな!」

「わかった。それでいこう。でも君が直接他人の心を見ることはできないから、僕が見て話すのでもいい?」

 ここに男を連れて来た『お迎え』から既に聞いているが、燃えたのはワンルームのマンションだ。何が譲歩なのだと思いつつ獏は頷く。

「他人の心がわかるなら充分だ! 全くわからないとか馬鹿にしやがって……」

 少しは生気を取り戻したようだ。威勢の良い男に獏は薄気味悪く微笑む。

「ちょっとならわかるの? 例えば……人間じゃないけど、今僕が考えてることはわかる?」

「え? ……わかった! 『よし、願い事を叶えるぞ!』これだろ?」

「あははは! ……ないなぁ」

「ない!?」

「それじゃあ、行こうか」

 高い踵を鳴らして獏は通路を進んでドアを開け、外に一歩出て陰に控える人影へ目を向けた。それは丈の長い黒い外套を羽織り、目深にフードを被って顔が見えない。片手には木のような長い杖を持っている。

「ねえ、君の考えた蝋燭に苦情が来たんだけど」

「苦情? 僕が家を燃やしたわけではないんだが」

「それに僕は契約の刻印ができないんだけど。只のミルクを出す意味って何?」

 契約の刻印とは、願い事の手紙の差出人と契約を結ぶための物だ。獏は差出人の願い事を叶え、差出人は代価を差し出す。踏み倒して逃げられないように、印を付けるのだ。

変転人へんてんびとのように思念が辿れないからな……目印にと蝋燭を立ててもらったんだが、まさか相手の不注意で苦情が来るとは。気の毒だが補償はできない。それと刻印ができないのは僕も同じだ。ミルクを出したのは君だろ」

「じゃあ善行なんてまだすべきじゃなかったんだよ。新しい監視役も見つからないのに」

狴犴へいかんが科刑所に君を置いておくのも邪魔だと言い出したからな。黒色くろいろカニが来てくれれば良かったんだが、生憎予約が取れなくてな」

「科刑所でも予約を捩じ込めないんだ……」

「あのぅ……」

 出入口で声を潜めて言い合っていると、背後から男が不安げに声を掛けた。ドアを塞いでいた獏は振り返り、言い合っている場合ではないと切り替える。

 獏は罪を犯した獣であり、人ならざる能力を持つ獣の棲む宵街よいまちの科刑所で待機を命じられていた。人間では無い生物に獣が人の姿を与えて作り出した『変転人』を獏の監視役として置くつもりだったが、誰も牢の中で監視をしたくないのだ。毎日罪人と顔を突き合わせて身動きが取れなくなるのだから、進んで遣りたがる者などいない。だが宵街を統治する狴犴がいつまでも罪人を傍に置いておくこともできない。獏の牢はここに小さな街として完成したので、追い出すことにしたのだ。

 他の罪人は皆地下牢に放り込まれ、獏だけがこうして特別扱いを受けているのだが、特別には特別な面倒がある。獏にだけ、善行をするという刑が科されているのだ。人間の願い事を叶えること、それが罪人の獏に与えられた唯一にしてとても面倒な仕事だった。何せ獏は人間が嫌いだ。人間の願い事を叶えて喜ばせるなど、反吐が出るほど嫌なのである。

「……とりあえず転送してよ。適当に人間の心の中を覗くから」

「ああ。僕も言い返したい所だが、心を無にしよう」

 黒フードは獏の襟の釦を外し、露わになった首の罪人の烙印を覆うように重く冷たい首輪を嵌める。首輪に付いている短い鎖が擦れ、無機質な音を立てた。

 この街から出る時はこの首輪を装着することが義務付けられている。烙印により獣の力は制限されているが、牢の外へ出す時は首輪で更に制限を掛けるのだ。

 獏の背後で俯く男を一瞥し、黒フードはくるりと杖を回した。直後に視界が切り替わる。

 一瞬の内に暗い夜を背に、陰から燃えるマンションが見える路地へと三人を転送した。どんなに離れた場所でも一瞬で移動することができる便利な杖だ。

 瞬きをする間に見える景色が一変し、男はふらりと蹌踉めいた。あの小さな街は夢だったのではないかと考えてしまうほど日常と景色が違う。野次馬がおらず炎の熱も届かない距離から見る現実のマンションは未だ無慈悲に黒煙を上げ、黒い空が赤く染まっていた。

「あれも夢だったらいいのにな……」

「そんな状態で心の中を覗いて大丈夫なの?」

「……?」

「君は本当に他人の心がわからないみたいだね。他人の心を覗くのって、あんまり気分のいいものじゃないんだよ。今の君には追い討ちを掛けそうなんだけど、いいの?」

「ああそうか……確かに隣人なんかは怒りそうだな。まあでも仕方無いだろ。燃えたもんは戻らない……」

「何の仕方無いなんだか……。とりあえず隣人だね? 覗いてきてあげるから、ここで待ってて」

 家が燃えたショックで思考が浅くなっているのだろう。怒りの声の一つでも届ければ目を覚ますかもしれない。獏は地面を蹴って屋根の上へ跳び、夜空に黒衣を翻す。獏一人で大丈夫だろう、黒フードは付いて行かない。

 男は壁を背に座り込み、気味の悪い黒フードを見上げた。こいつが手紙を出した男を迎えに来たのだ。

 黒フードは軽くフードを抓んで引き下ろす。男は顔を覗き込もうとしたわけではないのだが、この黒フードは余程顔を見られたくないらしい。

「……お前は獏じゃないんだよな? 只者じゃなさそうだけど……」

 黒フードは男を一瞥し、少しの沈黙の後、仕方無く口を開いた。

「答える義務は無い」

「冷たいな……」

 会話が続くはずもなく、獏が戻って来るまで男には居心地の悪い沈黙が続いた。

 十分ほど経ってから獏は屋根を跳んで戻って来たが、マンションに向かって行った時の威勢は萎んでいた。黒い動物面に顔は隠れているが、疲労が窺える。あまり良いものは見られなかったようだ。

「見てきたよ。どっちもマンションを見上げてたからすぐに見つかった。良かったのはこれだけだね。まずは右隣の住人の女性から」

 獏は座り込む男の前に立ち、大きく息を吸った。

「××××××××××××××××××××××××××××」

 息継ぎをせずに一気に聞くに堪えない罵詈雑言が並べられ、男はぽかんと口を開けながら獏を見上げた。右隣の女性とはあまり話したことはないが、大人しそうな女性だと思っていた。何を聞かされたのかもう一度聞かねば理解できないほど、男はその言葉がすぐには呑み込めなかった。

「何て……?」

「二回も言うのは嫌だよ! こんな口汚い言葉、譬え狴犴相手にも……と言うか僕の口から汚物を捻り出すみたいなこんなこと、よく二回もさせようと思ったね!」

 獏は動物面の下で視界が滲みそうだったが、それに気付いたのは黒フードだけだった。黒フードも口元に手を遣りつつ、想像以上の罵倒にさすがに困惑した。獣は口よりも手を出してしまう方が多いのだが、手を出さず溜め込むと耳を疑う罵詈雑言が生まれるのかもしれない。

「……左隣は」

「左の男性はね、××××××××××××××××××××××××××××」

 こちらも罵詈雑言が並べられ、男はまたもぽかんとした。そんな言葉を今まで隣人の口どころか人生で一度も言われたことがなかった。

「本当に……?」

「想像以上の罵倒だよ……僕がこんな知能の低い言葉を並べられると思う?」

「それは知らないけど……」

「僕も別に自分の知能が高いと思ってるわけじゃないよ。でも平均的だとは思ってる」

「そうか……」

「心の声っていうのはね、殆どが『言えない言葉』じゃなくて『言わない言葉』なんだよ。偶に言っちゃう人もいるけどね。言わない方が円満でいられるから。つまり気遣ってくれてるの。君が汲み取るべきは『言えない言葉』の方だよ。で、それがわからない君は、普段から余計なことを言ってるんでしょ。隣人は相当鬱憤が溜まってるんだね」

 一息に言い、獏は男の前から離れて壁に手を突いた。黒フードは同情し、その肩をぽんと叩く。罪人と言えど心の闇を覗くのは堪えるようだ。悪夢を美味しそうに食べると言うのに。

「大丈夫か?」

「負の感情は美味だけど、言葉と感情は別なんだよ……。紙に描かれた食べ物と実物の食べ物くらい違うんだ……」

「言葉に感情は無い、と?」

「そう!」

「確かに感情を有するのは生物の方であり、言葉は表現するための道具と言えるな。故に捉え方も千差万別だ」

「あのぅ……」

 また二人で盛り上がっているので男は声を掛けた。

 罵詈雑言を浴びせられてもあまり落ち込む顔が見えない男に、一日経てば燃えた家のことも忘れてしまいそうだと二人は思った。

 獏は気持ちを落ち着けて男に向き直り、腕を組む。獏がショックを受けている場合ではない。

「他に心を覗きたい人はいる? 同じマンションの住人だと、同じような感じだと思うけど」

 燃えた直後のこのタイミングだと誰でも似たようなものだろう。男の普段の行いが余程良ければ話は別だが、隣人があの様子では望みは薄い。

「あー……じゃあカノジョの心を」

「恋人がいるの?」

「いるいる。プロポーズのタイミングを窺ってたんだけどな、丁度いいから心を見てタイミングを見極めたい」

「へえ、プロポーズするんだ。確か人間の求婚には指輪が必要だとか聞いたことがあるけど、燃えてないの?」

「まだ買ってない」

「それは不幸中の幸いだったね」

「まあ買えないけどな。買う所じゃないと言うか……。でもカノジョならわかってくれるはずだ。大事なのは気持ち、気持ちだよな!」

「確かに買う所じゃないね。だったら求婚するタイミングじゃないんじゃない? 人間にとっては一大イベントなんでしょ?」

「思い立ったが吉日って言うだろ? 思い立ったがタイミングなんだよ。ほら行った行った」

 追い払うように手を振る男を見て獏は腰に手を当て溜息を吐くが、これも善行の内だ。黒フードに目配せした後、再び屋根の上へ跳んだ。

 家が燃えて家財も失い、もう残るのは恋人だけといった様子だ。黒フードは壁に背を預け、腕を組んで獏を待つ。どれだけ男が悲惨でも同情はしない。

 居心地の悪い時間が再び経過してマンションも漸く鎮火した頃、獏は戻って来た。

「どうだ? どうだった?」

 男は急かしながら立ち上がり、焦げ臭い腕を振る。

「はいはい。じゃあ大人しく聞いてね」

 男は大きく頷き、言われた通り大人しくした。目だけは期待に輝かせている。先刻まで家が燃えていたとは思えない。

「猫でも飼おうかなぁ」

「?」

「だから、『猫でも飼おうかなぁ』って」

「オレのことは……?」

「幾ら恋人でも、四六時中相手のことを考えてるわけじゃないってことじゃない?」

「…………」

 男は透明な街に遣って来た時のように力無く項垂れた。

「それもそうだな……」

 だが納得はしたようだ。

「他に心を覗きたい人はいる?」

「いや……何かどうでも良くなった。何て言うか、独り言を盗み見てるって感じだからな」

「漸く気付いたみたいだね」

 口に出さない言葉は本来は内に秘められ続けるものだ。そんなものを覗いても気分は良くならない。

「じゃあ、一つ目の願い事は叶ったね。代価を戴くよ」

「そうだな。どうやって渡せばいいんだ?」

「大丈夫。全部僕に任せて」

 代価を差し出すことに然程興味が無いのか理解できていないのか、男はあっけらかんとしている。その目を片手で塞いで隠し、獏は動物面を剥がした。


「――代価は『否定』にするね」


 男はその意味を理解できなかったが、黒フードは思わず壁から背を浮かせた。獏は止めようとする黒フードを一瞥して口元に不敵な笑みを浮かべ、男の口に口付ける。途端に男はびくりと体を震わせたが、足掻くことはできなかった。

 獏が口を離し動物面を被り直して目から手を離すと、黒フードは額に手を当てた。

「何てことを……」

「善行しろって言われてるけど、遣り方までは指示されてないから」

 獏はふふと笑いながら口元に人差し指を立て、代価を喰われて惚けている男の腕を掴んだ。

「さっき心を覗きに行った時に、君の家を用意したんだ。緑が豊かでのんびりできるんじゃないかなぁ」

 返事の無い男を抱え、獏は屋根の上へ跳び上がる。黒フードもそれに続くが、こんなに早くに用意できるものだろうかと首を傾ぐ。罪の無い住人を殺して手に入れた家なら御仕置きをせねばならない。罪人に殺しの自由は与えていない。黒フードは杖を握り、食事をして御機嫌な獏の後を追った。

 少し進んだ所で木々が見えたので、本当に緑が豊かな場所を用意したのだと黒フードは感心と安堵を浮かべた。夜なので現在は暗いが、朝が来れば視界に緑が飛び込むだろう。

 木々の間に着地して、公園だと気付く。広さもそれなりにある公園で、その周辺の家なら立地としては申し分無い。

「さ、こっちこっち。ここが君の新しい家だよ」

 木々を潜りぽつんと現れたのは犬小屋だった。黒フードは言葉に詰まった。

「君の希望通りのワンルーム。どう? 気に入ったでしょ」

 男もさすがにぽかんと口を開けていたが、「いいな! 気に入った!」すぐに大きく頷いた。『否定』を喰われた男は何を差し出されてももう否定ができない。このために獏はその代価を選んだのだ。

「成程……ワンと犬を掛けたのか……」

 男は『ワンルーム』としか求めなかった。人間が住むマンションとは言っていない。

「ちょっと! 成程じゃないよ! 僕が駄洒落を言ったみたいにしないでくれる!? ちゃんと一部屋の家って意味で拾っ……用意したんだから!」

「すまない。早合点だった」

 黒フードは苦笑し、機嫌良く尻を犬小屋に突っ込んでいる哀れな男を見た。頭は小屋の中に収まらないだろう。

「二つ目の願い事も叶ったね。代価は――『恋人に関する記憶』にするね」

 男はそれを拒絶しない。そんなことは望んでいないと否定できない。獏は先程と同じく顔を見られないように男の両目を手で覆い、動物面を外して口付けた。今度は黒フードも冷静に見守った。男にはもう散々だろうが、口出しはしない。得体の知れない獏を信じ、細かく要望を定めなかったのは彼だ。

「一気に二つも代価を差し出すなんて、心がかなり疲弊すると思うけど、すぐに順応するから大丈夫だよ。――それじゃあね、愚かな人間」

 軽やかに小さく跳んで男から離れ、獏は黒フードの前に立つ。満足そうに笑う獏を前に、黒フードは苦笑いしか出ない。そのまま黒フードは逃げるようにくるりと杖を回した。

 今し方までそこにいた二人の姿が忽然と消えるが、男は惚けていて現状を理解できない。翌朝には意識が鮮明になり、理解できることだろう。

 小さな街に戻った二人は明かりの灯る家へ入り、奥にある階段から二階へ上がった。三つあるドアの内、手前の一つを開けて中に居る者に微笑む。

 あまり物の入っていない棚と机と椅子、そしてベッド。それだけの殺風景な部屋に、人間の女は一人で椅子に座っていた。俯いていた顔を上げ、小さく頭を下げる。

「待たせちゃったね。恋人から君の記憶を消してほしい、って言う君の願い事は叶えたよ」

「ありがとうございます。……これでもう、振り回されることもないんですね」

「うん。晴れて君は自由だよ」

 獏は微笑み、彼女に男の現住所を教えた。本当に記憶が無くなったか確認に行くも良し、近付かないも良しだ。

 記憶を消したいほど関係を解消したかった彼女の願いは切実なものだった。先に手紙を投函したのは彼女であり、獏は感情を覗く指の輪で男を見た時から、まともに願い事を叶える気など無かった。

「はは……でもまだ実感が無くて、今日も眠れなさそうです」

 疲れたように笑うが、目は全く笑っていない。余程あの男に苦しめられたのだろう。詳しい事情は獏にはどうでも良いことなので聞かないが。

「君から貰う代価も、彼に関する記憶にする?」

「それはちょっと……確かに嫌な記憶ですが、記憶が無いとまた関係を持ってしまうかもしれないので……回避するために残しておいてください」

「うん、わかったよ。じゃあ、君の心の痛みを取ってあげる」

「! それは私が得するだけじゃ……」

「まあ……うん。そうなんだけど、正直に言うとあの男から二つも代価を貰ったから……お腹がもうね……」

 どうやら満腹らしいと察する。二人の交際期間は思いの外長く、記憶の量が多かったのだ。女は自力で関係を切ることができず長期間悩まされ、獏に縋った。

 男から奪ったもう一つの代価『否定』も生物に深く絡み付く重要なものだ。つまり質量がずしりと重い。これ以上重いものはもう獏の腹に入りそうにない。交際中の痛み程度なら、軽い食事になるはずだ。

「わかりました。それなら願ってもないことです。食べてください」

 男にしたように彼女にも口付け、獏は背後に控える黒フードに目を遣る。『痛み』も重かった。もう腹が一杯だ。苦しい。

 代価を差し出し少し惚ける女を連れて、黒フードは部屋を出る。それに付いて階段を下りながら獏はふと思い出し、一階の奥にある棚の大きな瓶を手に取った。

 店を出て黒フードが杖を回す前に獏は呼び止め、小さな紙袋に入れた物を女に差し出す。

「これ、あげるね」

「何ですか……?」

 小袋を覗くと、親指の先ほどの白い結晶が一つ入っている。少し透けているが石だろうかと女は首を傾いだ。石にしては軽い。

「これは安眠氷砂糖だよ。飴みたいな物なんだけど、舐め終えて寝るとよく眠れる。味は普通の氷砂糖と大差ないよ。薬じゃないから副作用も無いし、安心して」

「飴……。わかりました。舐めてみます。ありがとうございます」

 獏は微笑んで手を振り、黒フードが杖を回すと、頭を下げる女の姿は瞬きの間にその場から消えた。

 獏もくるりと踵を返し、建物の中へ入る。氷砂糖の入った瓶を棚へ戻し、古い革張りの椅子に座って腹を摩りながら黒フードの帰りを待った。

 机上に放置していたティーカップを思い出し、口を付けられなかったミルクを覗き込む。折角出したのに、このまま捨ててしまうのは勿体無い。

 カップを台所に運んで片手鍋に流して温めるが、これだと量が少ないのでミルクを足す。台所を使う機会は無いが、火くらい点けられる。

 棚の中を物色していると、黒フードが帰って来て台所を覗いた。杖を消し、獏の手元を見て黒フードは目を丸くする。獏はホットミルクに紅茶の茶葉を放り込んでいた。

「何をしているんだ?」

「ミルクが勿体無いから、紅茶でも淹れてみようと思って。ほら、ロイヤルミルクティーって奴?」

「あれは湯とミルクを一対一で淹れる物じゃなかったか……?」

「えっ、お湯が必要なの?」

「ん……ミルクが好きならいいんじゃないか? もう少し茶葉を入れて」

「さすが喫茶店に住んでるだけあって物知りだね、贔屓ひき

 フードを脱ぎつつ、贔屓と呼ばれた鉛色の髪の少年は苦笑した。

「住んでないよ」

 贔屓は宵街の元統治者であり、こんな牢の中で罪人の監視に就くような者では無いが、監視役が選出されず仕方無く代理をしている。人間の街で人間の振りをして暮らしている彼は、こんな所で人間に顔を見られると生活に支障が出るため、顔を隠して事に当たっている。獏がお面で顔を隠しているのは単純に顔を見られることを嫌うからだが、贔屓の方は切実だ。

「インスタント珈琲なら淹れてやれるが」

「珈琲は苦いよ」

「そうか。それは残念だ」

 棚からカップを取り出して自分の珈琲を淹れる贔屓を横目で見ながら、獏は茶葉を入れた片手鍋を少し傾ける。珈琲牛乳なんて飲み物があるのだから、紅茶牛乳も飲めるはずだ。

 砂糖も入れつつ、試しに飲んでみる。中々飲めるではないかと獏は満足そうに頷いた。面倒な善行の後の一杯は身に染みる。

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