失踪者<2>

弘也と真帆はまず佐藤美咲が住むというマンションの管理会社を訪れた。事務所の窓口で、担当者と思われる男性が応対に出てくる。


「佐藤美咲さんですね。確かにフォレストヒルズ新都405号室に住んでいますが」


「何か変わった事はありませんでしたか?」


「いえ、特には・・・。家賃も普通に支払われていますし、他の住人から苦情が出た事もありません」


「家賃は支払われている?半年も前から?住んでるわけでもないのに不自然だ。失踪した人間が支払う理由が思い付かない」


弘也は考え込むように腕を組んだ。


「405号室の部屋の中を確認する必要がありそうだな。佐藤美咲がそこにいるのか、あるいは何か手がかりが残されているのか」


管理人は一瞬ためらった後、言葉を継いだ。


「入室には許可が必要ですが、警察の要請があれば対応します」


「お願いします」


「ではこちらのアプリをダウンロードしてください。このマンションはスマートロックを採用しています。アプリを通じて一時的なアクセス権を付与しますので、それで部屋に入れます」


弘也はスマホを取り出し、指示されたアプリをダウンロードし始める。管理人は簡単な手順を説明しながら、端末を操作していた。


「篠原さん、彼女のSNSや他のオンライン活動の追跡も並行して進めてくれ」


「了解です」


真帆はうなずきながらノートPCで素早く追加の情報を調べ始めた。画面には@misaのアカウントが表示されていて、過去の投稿内容をさらに詳しく掘り下げていく。


「鍵の設定が完了しました」


管理人が短くそう告げ、弘也のスマホに通知が届いた。


「これで405号室に入れるようになりました。何かありましたらすぐに連絡してください」


「助かります」


弘也はその言葉に軽く頭を下げ、真帆を促すように出口に向かった。彼女は端末を手に持ちながら、すでに次の手がかりを探る準備を整えていた。




−−新都区南桜町13番地「フォレストヒルズ新都」


二人は佐藤美咲が住んでいるとされる405号室の前に立っていた。スマホを操作するとカチャリという音とともにドアロックが解錠された。


「篠原さん、白手つけろ」


「白手・・・?」


サイバー課が現場に入る事はまずないか。弘也は予備の白手を渡して、自分もはめた。


「入ってみよう」


弘也は扉を開けると無意識に一瞬だけ息を止めた。こもった空気が鼻をかすめ、長い間放置されていた部屋特有の匂いが彼の感覚を刺激する。


「変だな・・・」


家賃が支払われているとはいえ、生活感がまるで感じられない。半年前に捜索届が出されているが、本当に失踪したと考えた方がしっくりくる。


汚れた床が気にならないほど、彼はこの部屋に漂う異様な静けさに意識を奪われていた。


思考を巡らせながら、弘也は廊下の奥へと足を進めた。無人のはずの部屋。しかし、払拭できない不気味な違和感が彼をこの場から離れさせようとはしなかった。


ドアノブに触れると微かに軋む音が静寂の中に響き渡る。その音が、まるでこの空間全体の意識を呼び覚ますかの様だった。


リビングの中央に進むと、薄暗いカーテン越しにわずかに差し込む光が部屋の全貌をぼんやりと浮かび上がらせる。家具の配置は整然としていたが、床には厚く積もったホコリがここでの生活が突然途切れた事を示していた。


ふと見ると、壁に何かをぶつけた様なへこみがある。ソファがある位置から何か硬い物を投げたのだろうか。物がないので、何を投げつけたのかは分からないが。


弘也は部屋の奥に目をやる。寝室の扉が半開きになっているのが見えた。靴下越しに床のざらつきを感じながら、ゆっくりとその扉へ近づいた。


寝室に入るとシングルベッドが端に寄せられ、その上に無造作に投げられた毛布が目に入った。しかし、そこにも生活感は感じられない。むしろ、それを意図的に消し去った様な冷たい空気が漂っていた。


真帆は部屋の隅に置かれた小さなクローゼットを開けた。中には数着の服がそのまま吊るされていた。SNSにアップされていたファンガイアのコートもここに吊るされている。


「どこに消えたんでしょう・・・?」


その瞬間、背後でわずかな音が聞こえた。振り返ると、寝室の窓がかすかに揺れていた。風だ、と自分に言い聞かせながらも、真帆の心には拭えない不安が広がっていった。


何かが、確実にこの部屋には潜んでいる。だが、それが何であるのかが分からない。


真帆はリビングの空間を一度見渡した。ソファ、ローテーブル、本棚といった家具はきちんと配置されている。それなのに、あるべき物が完全に欠けていた。


「春日さん、家電が一つもありません」


真帆に言われて弘也は部屋を見回した。確かにテレビ、電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機、照明、そういったものが一つもない。部屋には家電を置く為のスペースや配線口だけがぽっかりと空いている。


「家具はそのままなのに、家電だけが持ち出されている・・・?」


不意に湧き上がった違和感が背筋をじわりと這い上がる。家電だけを全て処分した理由が思い付かない。だが、この部屋の状態は生活感を絶妙に壊さないまま、何かを意図的に隠した様な印象を与えていた。何者かは知らないが、どうしてこんな手の込んだ事をしたのだろう。


弘也は静かに押し寄せる疑念に向き合いながら、キッチンへと足を進めた。冷蔵庫があったはずの空間もぽっかりと空いている。


部屋全体に漂う異様な雰囲気が、ただの失踪では済まされない予感をますます強めていた。


その瞬間、何か背後で音がしたような気がした。振り返ると部屋の片隅に置かれた薄暗い影が、どこかで自分を見ている様な錯覚に陥った。


弘也はマンションの状況を確認し終えると、短く考え込んだ後、真帆の方に向き直った。


「銀行に行ってみよう。彼女の口座記録を調べたい」


「口座記録ですか?」


「そうだ。佐藤美咲は半年前に失踪している。それなのに、無人の部屋の家賃が今も滞りなく引き落とされている」


「確かに妙ですね。もし彼女が失踪している間も口座が正常に使われているなら、何らかの操作が行われている可能性があります」


「家賃だけじゃない。公共料金や他の支払い履歴も確認すれば、誰かが彼女の名前で何かを操作しているかがわかるかもしれない」


「ご家族に口座調査の許可を取る必要がありますね。彼女の家族はすでに捜索届を出しているんですから、協力してくれる可能性は高いと思います」


「俺が連絡を取ってみる」


弘也はすぐに佐藤美咲の親族に電話をかけた。その目には鋭い光が宿っていた。


「銀行口座の動きを追えば、失踪の理由や、現在も彼女の名前を使っている誰かが浮かび上がるかもしれない」


「了解です。必要な資料を揃えておきます」


「頼む」


冷たい風が吹き抜ける中、次の目的地、銀行へと足を進めた。




弘也は銀行から提供された佐藤美咲の口座記録に目を通し、額にシワを寄せた。広告代理店を退職した後、彼女がしばらく無職だったのではないかと考えていたが、記録から浮かび上がったのは全く別の事実だった。


「・・・別の会社に転職していた?」


弘也は銀行の最新記録に目を走らせ、眉をひそめた。振込元の名義は聞き慣れない名前の企業、「スマートブレインシステムズ株式会社」と表示されている。


「スマートブレインシステムズ株式会社・・・?」


真帆が画面を覗き込みながら小声で繰り返す。


「聞いた事がない企業ですね。どういう会社なんでしょう?」


「半年間、失踪しているはずの佐藤美咲に、この企業から定期的に給与が振り込まれ続けている」


「まるで、彼女が今も仕事を続けているかの様だ」


「もし彼女が本当にこの企業で働いていたなら、失踪の事実に気付いていないのは不自然です。逆に、気付いていて黙認しているのだとすれば・・・背後に何か大きな理由があるはずです。」


「この振り込み元を調べる必要がある。スマートブレインシステムズがどんな会社で、何をしているのか。そして、佐藤美咲との関係は何なのか」


「了解です」


真帆はすぐにスマートブレインシステムズの情報収集に取りかかった。企業登録データやウェブサイト、過去の取引履歴を調べるため、手元の端末で素早く検索を始める。


失踪している事実を無視して給与が支払われ続けるなんて、まるで誰かが彼女を存在しているように見せかけているみたいだ」


「もしそうだとすれば、スマートブレインシステムズ自体が彼女の失踪に関与している可能性も考えられますね」


弘也は椅子に深く座り直し、記録をもう一度確認した。


「佐藤美咲・・・お前は一体、何に巻き込まれたんだ?」


彼の言葉は誰に向けたものでもなく、ただ部屋の静寂に吸い込まれていった。

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