壊される日常<1>
精神的に疲れた美咲はなんとかいつもの様に自宅の玄関にたどり着いた。スマホでスマートロックを解除しようとアプリを開くが、画面には「解錠済み」という表示が出ている。
「あれ・・・?」
彼女は眉をひそめた。朝、家を出る時に鍵をかけ忘れるなんてあり得ない。いつもスマートロックが自動で施錠される設定になっているのだから。
ゆっくりとドアノブに手をかけ、静かに押し開けると玄関の奥から聞き慣れた声が響いた。
「オカエリ、ミサキ、オカエリ」
リリィだった。いつも通り猫型ペットロボットがぎこちない動きで玄関までお迎えしてきた。
玄関に入った瞬間、美咲は思わず肌をさすった。中から吹き出す冷気が外の気温との差を際立たせていた。部屋の中はまるで冷蔵庫の様に冷え冷えとしていて、不快な寒ささえ感じるほどだった。
「冷房・・・?」
彼女はリモコンを探しながらつぶやいた。スマート家電に連動したエアコンは彼女の帰宅を感知して快適な温度に調整される仕組みだったはず。しかし、この温度設定は明らかに異常だ。テーブルの上に置かれたリモコンを見ると、冷房の設定温度は「18度」に固定されていた。
「こんなに低くなるはずないのに・・・」
いくらスマート家電といえど、勝手に下限の18度まで下がる事はあり得ない。美咲は部屋の中の不安定な冷気をどうにかしようとエアコンの電源を切り、全ての窓とドアを確認した。だが気のせいか、切ったはずの冷房の風がまだわずかに肌を撫でている様な感覚が残っていた。
冷房のリモコンを操作して電源を切ると、室内は急に静寂に包まれた。美咲は肩の力を抜き、ようやく寒さから解放されたと感じた。
その瞬間、照明がちらつき始めた。
「パチッ・・・パチッ・・・」
天井の照明が突然、不規則に点滅を繰り返し始めた。最初は小さな明滅だったが次第にリズムが狂い、まるで何かを訴えるかの様に激しく点滅を続ける。美咲は思わず部屋の中央で立ち尽くした。照明の不具合はこれまで一度も経験した事がない。スマート家電が連動しているこの家で全てのシステムが突然異常をきたしている様だった。
彼女は焦りながらスマートホームアプリを開き、リモートで照明の電源をオフにしようと試みる。しかし、アプリには「エラー」というメッセージが表示され、照明は消えるどころか、さらに点滅を激しくし始めた。
「何で・・・こんなはずない・・・」
不規則に点滅する光が部屋中に影を作り出し、その影が壁や家具の上を揺れ動く。普段見慣れたはずの空間が異様な不気味さを帯びていく。
突然、照明が完全に消えた。室内は真っ暗になり、美咲の呼吸音だけが静寂の中で響く。
暗闇の中で冷蔵庫から奇妙な音が聞こえてきた。最初は小さな音だったが、次第に明確な「開く」「閉じる」という音に変わっていく。
「何なの一体・・・?」
美咲は恐る恐る冷蔵庫の方を振り向いた。スマホのライトを冷蔵庫に向けると、扉がゆっくりと開き、そして強い勢いで閉まるのを繰り返しているのが見えた。その動きは、まるで誰かがそこにいるかのように不気味に規則的だった。
冷蔵庫の動きが続く中、冷気が漏れ出し、周囲の空気がさらに冷たくなっていく。その時、冷蔵庫の衝撃でキッチンカウンターの端に置いていたグラスがバランスを崩し、床に落ちた。
グラスが割れる鋭い音が部屋中に響き、美咲は思わず後ずさった。破片が床一面に散らばり、スマホのライトで反射して光る。
「何が起きてるの・・・?」
胸の鼓動が激しくなる。冷蔵庫、割れたグラス、そしてその後の不気味な静寂が彼女の心を締めつけた。
さらに、突然別の音が響き渡った。リビングの壁にかけていたスマートミラーが何かに引き寄せられるようにして壁から落ち、床に叩きつけられた。鏡の割れる音が響き、破片が飛び散る。
そのスマートミラーはいつも美咲の朝の準備を手助けしてくれる便利な存在だった。だが今はその割れた破片が不気味に床に散らばり、美咲の恐怖をさらに掻き立てていた。
美咲が部屋の異常に圧倒されて立ち尽くしていると、不意にリビングの隅に置かれたスマートスピーカーが低い音で起動音を鳴らした。
ピッ・・・
その後、スピーカーから聞き覚えのある声が流れ始めた。それは美咲自身の声だった。
「何なの一体・・・?」
先ほど自分が口にした言葉がそのまま再現されていた。声は低く、どこかねじ曲がった響きで部屋全体に不気味に広がった。
美咲は慌ててスピーカーに駆け寄り、停止ボタンを押したが、音は止まるどころかさらに続いた。
【何が起きてるの・・・?】
スピーカーはまるで美咲の頭の中の思考を読み取っているかの様に彼女の内心を代弁する様な言葉を次々とささやき始めた。
【私は悪くないのに】
【どうして誰も信じてくれないの?】
【誰かが私を見ている】
声のトーンが次第に不気味さを増し、囁きの内容もどんどん不安を煽るものになっていった。
【あなたはひとりぼっち】
美咲は何度もスピーカーを操作しようと試みたが、停止ボタンも音量調整も全く効かない。スピーカーのパイロットランプが青白く点滅し続け、その光が部屋の暗闇を不気味に照らした。
美咲はその声が間違いなく自分の声である事に気付き、恐怖がさらに募った。だが、それは彼女が話した事のない言葉まで含まれており、まるで誰かが彼女の存在を完璧に模倣しているかの様に感じられた。
美咲が震えたまま床に座り込んでいると、今度はテレビが突然勝手に電源を入れた。画面が明るく点灯し、ノイズ混じりの音声が部屋に響き渡る。
ザザー・・・ザッ・・・
画面は次々にチャンネルを切り替え、普通なら見られない様な不明瞭な映像が映し出されている。ニュース番組、バラエティ、CMが一瞬だけ映り、そのたびに音声がとぎれとぎれに流れる。
美咲は恐る恐るテレビに近付き、何かを訴えかけている様な音声に耳を傾けた。最初は無意味な断片の様に聞こえたが、次第にその言葉が繋がり始める。
【遊ぼう・・・遊ぼうよ・・・ミサキ】
その音声は誰かが直接語りかけているかの様に鮮明に聞こえる。美咲は震えながらリモコンを手に取って電源を切ろうとした。しかし、電源ボタンを押してもテレビは消えない。
美咲は震える手でスマホを握りしめた。
「奈々美・・・奈々美なら・・・!」
頼りの綱を掴むように、彼女はメッセージアプリに登録している奈々美のアカウントを押した。しかし・・・画面は何の反応せず、全く操作も受け付けない。
「なんで・・・なんで動かないの・・・?」
美咲は何度もタップし、スライドし、再起動を試みたが、スマホはまるで彼女の焦燥感をあざ笑うかのように沈黙を保っていた。
強く押しすぎた指が痛み始めた頃、画面が一瞬明るくなったかと思うと、次の瞬間、暗転した。
「何かが・・・邪魔してる?」
そんな考えが頭をよぎると、さらに不安が押し寄せた。スマホの不調が偶然だと信じたい気持ちと、部屋全体が自分を閉じ込めようとしているという確信が彼女の中でせめぎ合っていた。
手の中にあるはずの救いの道具がまるで無用の長物に変わった瞬間、美咲の胸に孤独感が押し寄せた。
「奈々美・・・助けてよ・・・!」
美咲は恐怖と混乱の中でこれ以上部屋にいる事は耐えられないと感じた。スマホを手に玄関に駆け寄り、スマートロックを解除しようとアプリを開く。
「ドアを開けなきゃ・・・こんなところ、もういられない!」
しかしアプリの画面には見慣れない警告が表示されていた。
【エラー: ロック解除できません】
「なんで・・・?なんで開かないの?」
彼女は震える手で何度も解除ボタンをタップしたが、画面には何度も同じエラーが表示されるだけだった。冷たい汗が頬を伝い、心臓が早鐘の様に鳴る。
美咲はスマホをポケットに突っ込んでドアノブに手をかけた。だがドアはビクともせず、電子ロックの作動音が小さく響くだけだった。
「開けて!開けてよ!」
焦りと恐怖がピークに達し、彼女は力任せにドアを引っ張ったり押したりしたが、ロックが解除される気配は全くない。通常であれば物理キーで解除する事も可能なはずだったが、その鍵を取りに行けるほど冷静でもない。冷房の風が再び微かに流れ始め、照明がかすかに点滅を繰り返す。冷蔵庫の音も先ほどより大きく響いている様に感じた。
美咲はドアを何度も叩きながら叫び声を上げた。
「開けて!お願い、開けて!」
だが返事はなく、部屋は彼女を完全に閉じ込めたまま動かない。絶望の中で彼女は壁に背を預け、膝を抱え込む様にして座り込んだ。冷房の風が再び微かに流れ始めた。肌に触れる冷気が不快で、全身がさらに震え出す。
天井の照明がかすかに点滅を繰り返し、薄暗い部屋に不安定な光を落とす。そのちらつきは、まるで美咲の精神を揺さぶるかの様だった。
キッチンの方から聞こえる冷蔵庫の作動音がやけに大きく耳に響く。普段は気にもしない家電の音が、今では脅威に感じられる。
美咲は耳を塞ぎ、目をぎゅっと閉じた。
「これ以上・・・もう無理・・・!」
冷たい風、点滅する光、大きなノイズ・・・それらがまるで彼女を追い詰める為に一斉に襲いかかっていた。
自分の部屋が自分自身を閉じ込める檻に変わった・・・そう確信せざるを得なかった。
彼女はドアの前で崩れ落ち、肩を震わせながら涙をこぼした。
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