襲い来る悪夢<1>

朝一番の呼び出しに胸の中に嫌な予感を抱きながら美咲は上司の元に向かった。会議室に入ると上司が無言で提案書を差し出してきた。


「佐藤さん、これ君が作った提案書だよね?」


机の上に置かれた資料を見た瞬間、美咲は言葉を失った。確かにそれは自分が作成したはずの提案書だった。だが、中身はまるで別物のように変わり果てていた。ひらがな、かたかな、漢字のランダムな文章に始まり、プレゼンの意図が全く伝わらない内容、フォーマットが崩れていて資料としての体裁すら保たれていない。


美咲は目の前の資料を信じられない思いで眺めた。確かに自分が作成した提案書のレイアウトではあるが、その中身は見覚えのない物だった。


「いえ、私はこんな物作っていません!」


必死に否定したが、その言い訳は上司には通じなかった。


「でも、君のアカウントから提出されているんだよ」


その一言が、美咲の中に得体の知れない恐怖を植え付けた。自分は作っていないはずの提案書がなぜ自分の名義で提出されたのか。それが説明できない以上、誰にも訴える事はできない。


「最近ミスが多いよね。集中力を欠いているんじゃないの?」


上司の視線には明らかな失望が込められていた。その態度に反論したい気持ちはあったが、確たる証拠がない以上、ただ黙るしかなかった。


「次回のクライアント向けのプレゼン、君は外れるから」


その一言が美咲にとっては致命的だった。自分が積み重ねてきた努力が一瞬で無意味な物に変化したと感じられた。




会議室を出た後、美咲は席に戻るが足取りは重かった。同僚達の視線が気になり、肩が自然と縮こまる。


いつもなら声をかけてくれる人達も今日はまるで気配を消したかの様に彼女を避けていた。美咲は唇を噛みながら、職場の空気を感じ取っていた。周囲の人達が彼女に向ける視線はどこか冷たく、避ける様な雰囲気を帯びていた。


「またミスしたんだって」


「最近、調子悪いみたいだね」


「あの仕事、誰がフォローするの?」


その声はまるで彼女が職場に不和をもたらしているかの様な印象を受けて心が締め付けられる様だった。


美咲は自分が誰かに陥れられていると確信し始めた。しかしそれが誰なのか、なぜそんな事をするのか、全く分からなかった。


「一体、誰が、何の為に・・・?」


目の前に広がる霧のような状況が彼女の思考を鈍らせていく。信じられる人も、頼れる手段も見当たらない中、美咲はますます深い孤独と無力感に囚われていった。




不安が完全に拭い去れる事はなかった。どうにか気持ちを落ち着けようと外の空気を吸いに美咲はエレベーターに乗り込んだ。静かなエレベーターの中、彼女は自分の胸に手を当てて深呼吸を繰り返した。


「ドアがしまります」


エレベーターは下へ降りていく。しかし一階に付くその途中でエレベーターは止まってしまった。不安そうにドアの前に近付いたその時、エレベーターの音声案内が流れた。


「ドアがしまります」


その声は通常の案内音声と同じトーンではあったがどこか不気味に響き、美咲の背筋を凍らせた。それも同じフレーズが不自然に繰り返されるだけでエレベーターは動き出す様子もなく、ドアも開かない。


その音声が続くにつれて美咲は言葉では説明できない恐怖に襲われた。音声のトーンは機械的で一定のテンポで話しているかに見えたが、どこか抑揚が増し、まるで彼女を嘲笑っている様にも聞こえた。


「ドアがしまります・・・ドアがしまります・・・ドアがしまります・・・」


美咲は慌ててボタンを押した。開ボタンを何度も押した。しかし何の反応もない。他の階のボタンも試してみたがどれも光らない。


「なんで・・・なんで動かないの・・・?」


パニックに陥りながら非常用インターホンに手を伸ばしたが、それも反応がなかった。


「ドアがしまります・・・ドアがしまります・・・ドアがしまります・・・ドアがしまります・・・ドアがしまります・・・ドアがしまります・・・」


エレベーターの音声は何度も繰り返される。その単調さが美咲の恐怖をさらにあおった。息を飲むたびに耳鳴りの様な音が頭に響き、全身に汗がにじむ。


「ドアがしまります」


その声がもう一度響いた後、音声は突然途絶えた。耳をつんざくような静寂の中、美咲はドアをじっと見つめた。


エレベーターの不気味な動きに恐怖が頂点に達していた美咲だったが次の瞬間、何事もなかったかの様に一階に付くとドアが静かに開き、見慣れた一階のロビーが目の前に広がった。美咲は一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。いつものロビーが目の前にあるにもかかわらず、それが現実だと感じられない。あの異様な体験がほんの数秒前に起こっていたはずなのに、それを裏付けるものは何も残されていなかった。


ロビーでは同僚が何人か行き交い、警備員が受付カウンターに座っている。普段と変わらない、何の異常もない風景だ。


心臓の鼓動がまだ速いままの美咲は、後ろを振り返ることなくエレベーターを離れた。誰にも話しかけられる事なく、ロビーを抜けて建物の外に出る。


外の空気が彼女を包み込んだ瞬間、ようやく少しだけ呼吸が楽になった。それでも身体は震え、汗が背中を伝っている。


「何だったの・・・?本当に・・・起きた事なの?」


周囲を見渡すと、街はいつも通りの喧騒に満ちている。通行人の誰もが普通に日常を過ごしており、自分だけが異質な体験をしている様に感じた。


そのギャップが美咲の中でさらなる不安をかき立てた。あのエレベーター内での出来事を誰かに説明する事はできるのだろうか。そして誰かがそれを信じてくれるのだろうか・・・。


「私・・・どうかしちゃったのかな・・・」


深い恐怖と疑念が、彼女の胸を締め付けて離さなかった。

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