第19話 初めてオムライスを作ってくれた日
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灯里さんは手の力を緩め、俺の首元に腕を回す。身体が少しだけ離れて苦しそうにしていた灯里さんの胸が、名残惜しむように俺の胸板から離れ柔らかさを取り戻した。灯里さんは困ったように眉毛をハの字にして笑う。
「ちょっと酔いが残っているみたい。ごめんね、変なことを言っちゃって……全部冗談だから忘れて……。」
灯里さんは、いつも通りの明るくて優しい声でそう話すと、温泉の脇に落ちていたバスタオルを拾い大切な部分を隠し温泉から上がる。俺は月明かりに照らされて美しく輝く灯里さんの後ろ姿を、ただただ呆然と見送った。
◆◆◆◆
「灯里さん起きてる?」
「起きているけれど、どうしたの?」
灯里さんがもぞもぞと動き、その振動がこちらにも伝わる。ダブルベッドの上部に設置された間接照明が薄っすらと灯里さんの顔を照らした。
露天風呂から上がった後、俺と灯里さんは気まずい空気のまま一言も話をせずベッドへと潜り込んだ。
「灯里さん、手を繋いで良い?」
「どうしたの急に、別にいけれど。」
俺は毛布の中で灯里さんの手を握り指を絡める。いつもよりも少し暖かい灯里さんの温もりを感じる。
「灯里さん、覚えている? 灯里さんが俺に初めてオムライスを作ってくれた日のことを。」
「あったわね~。恥ずかしいことを思い出させないでよ~。」
◆◆◆◆
僕はリュックを膝の上に置き、銀色のボディに青いラインの入った電車に揺られる。僕の隣には帽子を深くかぶり、サングラスをかけてマスクを付けた灯里さんが上を向いて座っていた。会話は全く無い。サングラスの奥の瞳は見えないが、全く動かない様子を見る限り恐らく眠っているのだろう。
駅名を告げるアナウンスが鳴り電車が停まると、灯里さんはピクリと肩を揺らし僕の手を引いて急いで電車を降りた。薄暗い改札を抜けて外へと出ると、眼の前にはバス乗り場が広がっており、白地に赤色のストライプの入ったバスが停まっていた。
「この後スーパーで買物をしてから帰るから。」
「はい。」
灯里さんは僕の手を引いて駅の脇にあるガラス張りの、大きくて綺麗な建物へと入る。ここの建物には1階にスーパーが入っており、店内も外観と同じような清潔感があり綺麗だった。
灯里さんはスマホを見ながら、玉ねぎ、人参、卵、……などを次々にカートへと入れる。僕は灯里さんの洋服の裾を引きながら、RPGのキャラクターのように彼女の後ろを歩く。
「何か欲しいものはない? お菓子とか。」
「ありません。」
「そう。」
たった一言の会話だけれど、灯里さんが僕を気にかけてくれたことが嬉しかった。灯里さんは欲しいものを全てカートに入れ終わったようで、会計を済ませスーパーを出た。
「ほら。」
彼女はスーパーで買った食材を詰めたエコバッグを肩にかけ、逆の手を僕に向けて伸ばす。
「え?」
「手、繋いであげる。迷子になられても困るし。」
そう言うと、彼女は強引に僕の手を握った。
「ありがとう……ございます。」
僕は灯里さんの手を握り返す。今は顔を隠しているから分からないが、恐らく今も人形のような表情をしているのだろう。しかし、彼女の手のひらは暖かかった。僕は彼女の温もりを手のひらに感じながら、彼女に引かれ見知らぬ街を歩いた。
◆◆◆◆
スーパーを出てから10分程度歩いた。駅前には様々なお店が立ち並んでいたが、歩く内にお店の数は徐々に減っていき、代わりに住宅が多くなる。やがて、完全に住宅ばかりが立ち並ぶ町並みとなった頃、2階建てで大きくも小さくもない一軒家の前に灯里さんは止まった。
「ここ、私の実家。今日から暫くは、ここが大地くんの家だから。」
そう話、鍵を差し込み扉を開く。灯里さんが静かに「ただいま。」と言うと奥から物音が聞こえ、30歳後半から40歳くらいの、栗色の髪をポニーテールに纏めた女性が現れた。髪型こそ違うが、顔立ちは灯里さんそっくりで人形のように整っている。
「おかえりなさい。あら、大地くんもおかえり。今日からここが貴方の家なんだから、くつろいで頂戴ね。」
灯里さんはハキハキした声で話す彼女のことを無視し、玄関でブーツを脱いで廊下の奥へと進む。
「キッチン借りるから。」
「灯里が料理なんて珍しいわね。」
「うっさい。」
僕も玄関で靴を脱ぎ「お邪魔します」と頭を下げる。灯里さんに似た女性は「そんなにかしこまらなくていいから」と言って僕の手を引き、廊下の脇の部屋に入った。
どうやらここは居間のようで、中央に背の低い大きなテーブルがあり、テーブルを囲むように4枚の座布団が敷かれていた。部屋の奥には大きなテレビが設置されている。生活感あふれる畳部屋だが綺麗に整頓されており埃一つ無い。
好きな所に座るよう促されたので一番入口に近い座布団の上に正座をした。灯里さんに似た女性は「少し待っていてね。」と話し部屋から出ると、バタバタとした音と共に、彼女よりも少し年上に見える眼鏡を掛けた男性を連れてきた。
彼の目元に薄っすらとシワが刻まれており、黒い短髪で優しそうな風貌だ。そのルックスからは若い頃は爽やかなイケメンだったであろうことがうかがえる。
2人は僕の対面の席に並んで正座をした。
「灯里の母の一ノ瀬 光(いちのせ ひかり)です。今日からよろしくね。」
「灯里の父の一ノ瀬 翼(いちのせ つばさ)です。まあ、ゆっくりして行きなさい。」
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