第三章 祭りの中、運命の外 Across Fates 5

 瞬間的な幻覚の再生。

(・――これをあなたに護り留めて欲しい――・)

 一瞬の偏頭痛。そして、頭の中には声。

(・――逃げ続け、天宮の手に渡らないようにして欲しい――・)

「うぐっ……」

 思わず呻く。目からは血涙が溢れてきた。

「えっ、どうしたのまもるくん!」

 少女がしゃがみ下からこちらの顔を覗きこんできた。護留は袖で血を拭う。爪を立て、掌を傷つけると血液はそこにずるずると流れ込んでいった。

「なんでもない。少し疲れてるだけだ」

「でも、血が……」

「ほら大丈夫だろ」

 目を見せる。拭った後の血痕すら残っていない。少女は不思議そうな顔でそれを見つめていたがいきなり手を伸ばしてきたので避けてしまった。

「あ……」

「痛くも苦しくもないんだよ別に」

 ややきつめの調子で言う。計画を前にして要らない面倒事を自ら抱え込んでしまった自分の甘さに腹立たしさを覚えていた。少女はビクッとして手を引っ込めるが、ぐっと唇を結ぶと、こちらの目を見据えて言った。

「傷がなくても、痛いときは、あるんだよ。こころだって血を流すの」

「……それも母親から聞いたのか?」

「ちがうよ。あたしの経験」

 出会った時こそ大泣きしていたが、それ以降少女はずっと笑顔だった。だが彼女はノーバディだ。その日常は護留の殺伐とした暮らしとそう変わりがないのかも知れない。だとしたらこれは子供の背伸びした慰めではなく――本心からの思いやりなのだろう。

「――君に奢りすぎて財布の中身が寂しくなったからな。明日の飯をどうしようかと悩んでいたんだ」

「本当? え、でもあたしそんなに頼んでないよ?」

「本気で言っているのか君は……」

「あ、まもるくんやっと笑った」

 思わず口元に手をやる。その様を見て少女はますます上機嫌になり、

「もっと元気が出るようにいいもの見せてあげる! これ一個持ってて!」

 少女はりんご飴を一つこちらに押し付けると、ポケットを探り、一本の赤い糸を取り出した。糸は輪になっていた。

「よかったあ、これはポーチに入れてなくて」

 りんご飴を器用に持ったまま少女は輪の縁に両手の指をかける。

「あやとりだよ! 今あたし練習してて、けっこうすごいんだから」

(・――ほら、見てお母さん。あたしもあやとり上手くなったでしょ? 悠理にも教えてあげようと思って練習したの。まだお母さんみたいに自分で形を考えたりはできないけどね――・)

 先ほどと同じか、それ以上の頭痛と共にまた声が聞こえてくる。今度は耐えた。少女はあやとりに夢中でこちらの異変には気づいていないようだった。

「ここをこうやると……ほら、塔だよ!」

 捻れた螺旋を描き、縦横に糸が行き交うその形はなにかと問われれば確かに塔だったが、

「下手くそだな、君」

「なっ!?」

 ずばりと言った護留の言葉に本気でショックを受けた表情をする少女。白い顔はすぐに手に持つりんご飴と同じくらいに真っ赤になり、

「じゃあまもるくんもやってみれば! むずかしいから!」

「道の真中でやることじゃないだろ……またこけて泣くぞ」

「あたしそんなにすぐに泣かないし!」

 街頭の時計は10時50分を指そうとしていた。もう天宮悠理はこの再整備区域入りをしている頃合いだろう。幹線道路を浮遊車フライヤーで回った後は元区庁舎の前で短いながらも所信表明をすることになっている。護留はそのタイミングで仕掛ける予定だった。

 ――わああああああああああああ!

 急に一区画ほど先から大きな歓呼が上がった。

「あ……」

 お姫さまが、やって来たのだ。少女は自分の一番の目的を思い出し、それと同時にチケットをなくした現実ものしかかってきた。

「そろそろ、別れるか。君は天宮の新当主を見にきたんだろ」

「うん……でもあたし、予約のチケット、なくしちゃったから」

 それで護留が見つけた時へたり込んでいたのかと、納得する。

「……よければ、余ってる観覧チケット、やるよ」

「え?」

 ばっと顔を上げる少女。その表情には先ほどまでの悲壮さは既に微塵もない。どこまでも現金な娘だ。

「ほら」

 護留が差し出したチケットを遠慮なく受け取ると少女はその場で跳ねまわった。

「やったー! まもるくんすごいね! お金持ちだね! チケット余ってるなんて!」

「いや、まあな」

 今渡したチケットは現場の下見のために大量にダフ屋から購入したもののうちの一枚だ。確かに法外な値段を請求された。ノーバディの少女にとってはまさに身を粉にして働いてようやく手に入れられるものだろう。

「お礼にりんご飴一個上げる! あと、このあやとりも!」

「あやとりはともかく、もともと僕が金を払ったやつだろ、りんご飴は!」

「オマケで貰ったからあたしのだもーん。いらないならあたしが食べちゃうよ?」

「……貰っておこう」

「まもるくんは? お姫さま見ないの? チケットあるんだったら一緒に見ようよ」

「残念だけど、僕はこれから仕事があるんだ」

 少女は驚きの顔になった後にしょぼんとした様子になる。

「お祭りの日にもお仕事しなきゃいけないなんて……。まもるくんって本当はびんぼうさんなの? たくさん食べ物頼んじゃってごめんね? このりんご飴もあげようか?」

「二個もいらないよ。とにかくこれ以上は一緒にはいられないんだ」

「そうなんだ……もっと一緒にお祭り見て回りたかったな」

「子守から開放されてこっちはせいせいするよ」

「またまたー。そんなこと言って本当はさびしいんでしょ!」

「ああ、そうだな。もうそれでいいよ。じゃあな、転けるんじゃないぞ」

「あ、待ってまもるくん!」

「なんだ。まだ食べ足りないのか?」

「あ、あたしそこまでいやしんぼさんじゃないもん!」

「どの口が言うんだ……」

「もー! そうじゃなくてー! 名前! まだ言ってなかったでしょ」

「ああ……。君が妙なこと言うから聞きそびれていたな」

「みょうなこととか言ってないよ。普通だもん」

「いいからさっさと教えてくれ」

「んもー」

 歓声は近づき、観覧チケットを持ってない民衆が予約場所に割り込もうとして辺りは混沌を極めてきた。護留も押されて少しよろめく。

「失礼」

 ぶつかってきたのは男だった。服装は違ったが、顔は覚えていた。先ほどりんご飴を一つサービスでくれた、屋台の売人だ。護留は訝しんだ後、冷水を掛けられたような感覚を味わう。

 売人は、暗灰色のスーツを着込んでいた。

 目が合ったのは一瞬のことだ。売人はするすると人混みを抜けていき、姿を消す。だがそれでも護留ははっきりと見た。

 そいつが、笑ったのを。

 ――我々は〝助力〟を惜しみませんよ。

 屑代の言葉が脳裏に浮かび、護留の直感が警鐘を鳴らした。

「あのねえ、あたしの名前は――」

「――逃げ、」

 叫ぼうとしたその時、少女と護留が手に持つりんご飴が、

 爆裂した。

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