第二章 天の御使いの住まう宮 Angel's Cage 5
「これは公社の社員としての仕事ではないので、休まざるを得ないのですよ。研究で忙しいでしょうが、申し訳ないですね」
「公社以外の、仕事、ですか?」
「左様。仕事です、一種の。天宮家の者としての、ね。
市政100周年祭。そこでユウリさん、市民に対し貴女のお披露目をします。
天宮家次期当主候補から、候補の文字を取り去るための儀式、手続き、宣誓ですよ」
「え……」
思わず、間の抜けた声が漏れた。それをどう受け取ったのか、理生は頷き言葉を接ぐ。
「私が父の跡を襲ったのも18の時ですから、それほど早い訳ではありません。ユウリさんの実績も十分ですしね。親族会議にはまだ諮っていませんが、異論はほぼないでしょう」
この言い草だともう周囲への根回しは済んでいるのだろう。それなら噂くらいは耳に入ってもいいものだが――悠理は心の裡で苦笑いを浮かべる。孤立している者にわざわざお節介を焼く人間など、もう悠理の周りには五年前から、いないのだ。
それよりも、
「――私が、外に?」
「貴女も15ですからね。いつまでも箱入り娘をやっているわけにもいかないでしょう? 本当なら叙勲を受けた時にするべきだったのですが、予定が延びてしまい申し訳ありません」
五年ぶりに会話らしい会話を交わした父からの言葉は――想定外のさらに外、悠理の論理フレームが一瞬判断停止に追い込まれるくらいに意外なものだった。
外に――外へ?
私が。天宮悠理が。
この世界の外に行く。可能性すら検討したことのなかった話だ。
理生の視線を感じる。温度のない視線を。笑いかけながらも、話しかけながらも、全く変わることのなかった、虚無よりさらに深い井戸の如き目。こちらを見ていないくせに、魂の底を探られるような。
この天宮家当主には悠理に対する期待も失望もないのだ。ここで従おうが逆らおうが、彼の計画には些細な影響もないのだろう。
「大勢の前に出るのは気後れするかも知れませんが……政り事とは即ち祭り事、暗い世情を明るくさせるのも上に立つものの務めです。あまり堅苦しく考えなくて大丈夫ですよ」
当主継承の儀ならば別にわざわざ市民の前でやる必要はない。理生が当主の座についたのは悠理の誕生以前なので知識でしか知らないが、社内と市議会の承認があれば書類上の手続きだけでも済むはずだ。
理生は年齢にも健康にも不安はなく、このタイミングで悠理に後を継がせる意味を図りかねる。先の会話でも話題に上ったが、空宮の台頭を許したためにいささか苦しい立場に置かれてはいるかもしれない――が、社員の理生に対する忠誠と畏怖は相当なものだ。
そもそも悠理をこの籠の中の世界に閉じ込めてきたのは、他ならぬこの父なのだ。
幼い頃はなんの疑問も抱かなかった。数少ない友達と一緒に、この巨大すぎる家でそれなりに傷つき、それなりに平穏に暮らしていた。
五年前までは。
大学に通い、公社の社員となってからようやくその異常性に気がついた。この世界の外には、別の世界がある。そして私はそちらから疎外され、隔離されている――だが何の問題があろう? 幸も、不幸も……その他全てを悠理にもたらすのは〝こちら〟の世界なのだから。
ここで正しく生きていればもうかなしいことは起こらないのだから。
だけど――。
理生の提案にどう答えるべきか――逡巡は自分でも意外なほど短かった。
――後になって、悠理は自分がなぜあのような選択をしたのか、その理由を考察することになる。そうすればあのような事件に遭うことも、そしてこのような出会いもなかったのに、と。
断ることもできた。悠理が五年間で築き上げた信用と実績、そして影響力は現当主である天宮理生に対するささやかな反逆を許容する程度には充分に機能する。悠理の後のスケジュールを大幅に圧迫する、唐突すぎる提案を拒否する理由は10以上も挙げることができた。
だがしかし、悠理は外を望んだ。
自ら定め、命を賭して戦い続けてきた世界からのわずかばかりの逸脱。それはあの日の誓いを破ることになるのかもしれない。
――だからこそ、か?
五年間。私は万事に対し最善を尽くし、最上の結果を得てきた。そうすればかなしいことはなにも起こらなかった。
――だけど。
たのしいことも、なに一つとしてなかった。
「御意の儘に、お父様」
そうさ、私は天宮の飾り姫。
祭祀には偶像が用意されるもの。
だけど、もし祭りの中で、世界の、運命の外へ少しでも踏み出せたなら。
見たいものや、やりたいことがそこで見つかったのなら。
その時、私は――。
†
食事が終わり、理生は最後まで作法を違えず静かに退室していった娘を――ユウリを座ったまま見送った。
「奇妙なものだ――」
呟く。
「アレを〝造って入れる〟前に悠灯さんは消えたというのに、年々立ち振舞が似通ってくるとは――それとも〝彼女〟と混じっているのでしょうかね」
それは不愉快な想像であると同時に、朗報でもあった。五年間外界への反応を示さない〝彼女〟がまだアレ・・の中に確かにいるということなのだから。どちらにせよこの不本意な状況もあと少し――祭りの場で決着のつくことだ。
手元の呼び鈴を鳴らす。
「時臥峰」
「はい。ここに」
いつの間にか横に控えていた執事は慇懃いんぎんに身を折って主人に答える。
「屑代に連絡を。引瀬の〝
「かしこまりました、理生様」
遺作が発見されたのは今から一年前近く前だ。以前から天宮家に対して破壊工作などをしかけていたらしいが、ユウリ開放の失敗が原因で空宮の目が厳しくなったのもあり、こちらからの接触はずっと出来なかった。
だがプロジェクト・アズライールが最終段階に進んだ今、最早そういった考慮は必要がない。
計画が成就さえすれば、都市は、澄崎は救われるのだから。
「さて。今度こそ上手くいくとよいのですが」
微笑を浮かべた表情とは裏腹に、理生の口調はどこまでも冷めていた。
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