第二章 天の御使いの住まう宮 Angel's Cage 1
西暦2199年6月1日午後6時30分澄崎市極東ブロック特別経済区域、公社占有第三小ブロック
澄崎市。
当局が把握する人口だけでも800万人を超すこの大都市を遥か上空から見下ろすと、海に浮かぶ一片のタイルのように見える。一辺の長さが18㎞もあるが、周囲に比べる物のない灰色の大洋の上にぽつんとある様はその巨大さを全く感じさせない。
かつて、この街は陸にあったという。過剰な技術開発競争とそれに伴う『
そのためのある特殊な技術――魂魄制御技術の開発を行う場所として澄崎市は選定され、そしてその影響が他にできるだけ及ばないよう海上の超浮体構造テラフロートに都市機能の全てを移転し、更に漏れないように念入りに蓋をされた。
以来100年。擬似魂魄やALICEネットなどのテクノロジーによりほぼ完全な自給自足が達成され、空宮の教条と天宮の技術による支配構造が固定された社会。人々は魂の質により
都市を構成するタイルはよく見ると、一辺が6㎞の小タイル9個に分割されている。中央のタイルの真東にあるのが特別経済区域だ。大企業の本社やその社宅が拡がる、澄崎の経済と資本の中枢部。
その中心に建つのは、周囲に並ぶ積層建築物群をなお圧して聳える、全高999メートルの有機建材製の巨大構造物。細長い塔とそれを囲うヒト遺伝子を模した滑らかな二重螺旋構造。
魂魄と肉体を象徴したその見た目の通り、それは刻々と代謝し、常に自らを最適化することによって半恒久的に機能し在り続ける生きた城だ。有機水晶体の窓が、久々に射した陽光を計算された角度に反射し、気流が塔にぶつかって出来た雲に色なき虹を投げ掛ける。
天宮総合技術開発公社・本社ビル。
擬似魂魄、
その規模と複雑性たるや、一つの〝世界〟として喩えることが可能かもしれない。
彼女を規定し、束縛し。
彼女が基底に置き、自縛している。
主観時間にしてもう5322秒も前から、悠理は欠伸を堪える努力を強いられていた。
会議は始まった時点で既に踊っていた。
開発室と研究室のいつもの小競り合い。発端は確か、研究室がALICEネットの割り当て領域を増やして欲しいと運営部に嘆願したことだったと思う。それが却下されるのもいつもの通り。そして研究室が却下された原因を開発室の不合理性にあると転嫁して攻撃してくるのも、いつもの通りだ。
ALICEネットを介した圧縮会議は、各部署の主任だけでなく、その副たる地位の者も出席せねばならない。不合理な悪弊だといつも思う。今度制度の見直しについて稟議書でも提出しようか。
結果の報告の確認だけなら実時間だと秒単位で済むようなやり取りでも、ネットに接続された主観時間に直すと数時間を越えることもざらだ。なんのために時間圧縮しているのか分かっているのだろうか。長引く会議のことを悠理は密かに〝学級会〟と呼んでいる。最も、本物の学級会を悠理は知らないのだけれど。
・――天宮開発副室長、君の意見はどうなのかね。会議に参加したまえ――・
思考をシールドしてだんまりを決め込んでいたら、こちらに矛先を向けられた。正直話をまともに聞いてすらいなかったので、慌ててログを確認する。
・――重要な会議の席で居眠りとは、さすがお姫様は格が違いますなあ――・
ここぞとばかりに厭味を言ってくるのは、立場的には味方であるはずの開発室室長だ。神経質そうな細面の
・――夫婦喧嘩に子供が出しゃばるのも悪いかと思いまして――・
挑発に挑発で返してしまった。悪い癖だ。だが口にしてしまったものは仕方ない。
・――親の七光りが……コネで……お飾りの小娘が偉そうに……――・
悠理のものとは違い性能の低いシールドから漏れ出てきた思考を平然と受け流して、なお言を重ねる。こっちだって不満は溜まっているのだ。一度吐き出したら止まらない。
・――室長、研究室の意見には一理あるのでは? 最近のあなたの予算の追加申請及び、ネットの使用頻度・時間は少し目に余るものがあります。ALICEネットは全市民の共有財産です。公社による研究の結果、無尽蔵と思われていたネットの帯域が有限であることが判明し、しかもそれが5年前から加速度的に枯渇していっているのはご存知でしょう。再開発区域の整備もそれが原因で遅滞しているというのに。いくら
当主。その単語が出た瞬間、全ての魂たちが脅えるように静まり返った。社内に於ける絶対者の名はどんな薬や毒よりも効果的だった。
・――わ、わざわざ閣下の手を煩わせる程の案件でもあるまい。それとも君は身内の特権を利用して我々を脅迫すると言うのかね?――・
やや上擦った思念を送ってきたのは、先ほどまで調子よく声高にこちらを弾劾していた研究室主査だった。
・――ではなぜこれほどまでに熱心に討論を行っていたのですか? 私はてっきり当主へ意見を具申するためだと思っていのですが……――・
・――活発な意見のやり取りは、開明的かつ開放的な我が社の是とするところである。常日頃から討論を繰り返せば組織の腐敗を防ぎ、活性化を促すというものだ――・
おためごかしにすらなってい無いその言葉を、悠理は一笑に付した。
・――怨……殺……憎……呪……涜……恐……怒……畏……辱……――・
主査からだけでなく、周囲の全てから怒りと憎悪、恐れの感情スペクトルが痛いほどに放射されてくる。悠理のアバターに、タールのようにべったりとこびりつき汚すそれらを払おうともせず、なお言い募ろうとすると、会議の進行を担っていた運営部の人間が遮った。
・――時間が押していますので、これにて第196回臨時報告会を終了とさせて頂きます――・
その言葉を潮に、有象無象はこれ幸いと挨拶もなしに次々と会議領域から切断し、その姿を消した。悠理もそれに倣って魄体投射を切り、執務室唯一の調度であるエルゴノミクスチェアの上でようやくあくびを一つした。
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