第二章 天の御使いの住まう宮 Angel's Cage 2

 ALICEネットに接続する際には空中のナノマシンを用いるので、一切の器具は必要が無い。だから、執務室と言ってもただのがらんとした無駄に広い空間が広がっているだけだったりする。精神波以外、雑音や電磁波は遮断されているから、居眠りにももってこいで、悠理はこの環境を社内で二番目に気に入っていた。

 だけど今はなんとなく、この静寂が嫌だった。

 執務室から逃げるようにして、悠理は自分の部屋――150階全てがプライベートフロアなのだが、その中で寝室としている場所――に戻り、深い溜息を吐く。ここにはいつも耳を澄ませば聴こえる程度の音楽が流れている。それは過去存在した宗教の賛美歌だったり、あるいはこれまた古いジャズやポップスだったり。色々だ。この街で音楽が新たに創られることがなくなって、もう半世紀以上が経つ。

 壁の発光素子たちは主の帰りに気づいて、蓄えた光を柔らかに放出する。悠理はシャンデリアの灯りは点けずに、スクリーンをオンにした。

 外は珍しく快晴だった。澄崎市は雨の街である。空中に常に大量に浮遊するナノマシンを核にして、雲が育つからだ。霧も多い。

 広がる景色は灰色の空、灰色の海、灰色の街。見渡す限り雲一つないはずなのに、そこには彩りという物が存在しなかった。

 停滞した街、停滞した技術、停滞した事象。これが澄崎市に施された〝蓋〟だ。それでも悠理はしばらくその光景を眺めていた。

 遠く、幽かな影がビルの隙間を縫って飛んだ。鳥だろうか。悠理はあえてそれを確かめようとせずに映像を消す。

 副脳から有機量子コンピュータを操作。市内のニュース、社内公報、新規の論文、個人向け通知等がALICEネットを通じ悠理の論理網膜上で目まぐるしくスクロールする。重大な懸念事項は無し。必要なメッセージにいくつか返信をするとスタンバイモードに落とす。

 白衣とその下に着ている白尽くめの公社の制服。会議前に着替えたばかりだから実際には5分と身に着けていないのだが、先ほどの会議上で投げつけられたタールが染み付いている気がして、脱ぎ捨てた。

 タイトな機能性アンダーウェアに包まれた華奢な肢体が露わになる。慎ましやかな胸に、肉の薄い尻。未成熟な蕾めいた危うさ。手足はすらりと長く、染み一つない肌の色は白い。薄暗い室内ではまるで燐光を放っているかのようにも見える。腰まである髪の毛は肌の色よりもなお白く、朝日を浴びた処女雪のよう。悠理の身体のうち唯一色彩が存在するのが瞳だった。ルビーのような、真紅。

 五年前のあの日から、何もかもが変わった。眞由美と同じ髪と眼の色となったのは、その象徴だと悠理は捉えていた。あの日を忘れないための、自らに刻まれたスティグマしるしだと。

 しかし科学者としての悠理は、そのような感傷的な考えを否定する。そして推論する。自らにあの日施された行為を。父と母が、この世界が、自分に対して行った仕打ちを。

 だが思考は逸れ上手く纏まらない。さっきの会議の光景や昨夜遅くまで行っていた実験の内容が副脳の処理もそこそこに、脳内でバラバラに展開される。

 ――疲れてるなあ。

 自覚し、苦笑する。疲れている、などと考えられるうちはまだまだ余裕があると経験的に知っているからだ。髪の毛を手で梳く。かつて眞由美がそうしてくれたように。そのままベッドに転がりこもうとしたが思い直し、アンダーウェアも脱ぎ捨て浴室へ向かう。

 疲れなら機械や薬物でいくらでも分解できるし、ストレスすらも消し去れる。が、やはり頭のもやもやを振り払うには熱いお湯が一番だと思う。

 寝室に備え付けの浴室は一般的な水準からすれば上等な部類だが、同フロアにある、プ―ルかあるいは小さな湖みたいに広大な大浴場に比べれば慎ましいものだ。今浴槽に浸かればそのまま眠り落ちてしまいそうなのでシャワーで済ますことにする。

 適温より少し熱めのお湯を頭から被ると、疲れだけでなくこの五年間溜め込み続けてきた思考の澱も解れるような気がしてくる。

 ――五年、か。

 それは長いようでいて酷く短く、悪意があるかの如くのろくさと素早く、確実さと等分のあやふやさを伴って過ぎ去って行った。

 ……時間のことを考えると、悠理の頭は痛む。あの日から積み重ねてきた膨大な日々の中、自分が何を成せたのかを自問してしまうから。

「〝プロジェクト・アズライール〟……」

 五年前のあの日、自分たちが何をされたのか調べようとすると、全てはその計画名に行き着き――そしてそこから先に進めない。さながら、終着の浜辺のように。

 アズライールとは、かつて人が陸で暮らしていた頃に存在した大宗教の神話に出てくる天使の名だ。命を操る術に長けていたため、死を告げる役割を神から与えられた異形の存在。

 その名の意味するところは『神を助く者』。秘密の計画には仰々しすぎるようにも思えるし、ある意味とても相応しいとも思える。

 表向きにされているだけでも――最も決算報告書などには決して載っていないが――悠理が所属している開発室の年間予算に等しい資金が毎年投入されているくせに、この五年間、誰の口からも直接プロジェクト・アズライールなる言葉を聞いた試しがない。巧妙に擬装された裏の予算も含めると、概算で実に公社全体の28%もの物的、知的、魂魄的資産がこの計画のために徴発され運用されている、らしい。そこまではある程度の技術や知識があれば誰でも調べられる、公然の秘密だった。

 だがその裏を調べようとすると途端に機密の壁は分厚くなる。それでも当主の娘という身分と開発室副室長という地位をも駆使して悠理は調査を続けた。

 そうして幾つかの事実が判明した。まず、このプロジェクトが始まったのは悠理の誕生と同時だということ。このプロジェクトは〝都市救済計画〟という大それた別称で呼ばれていること――都市救済。何も知らない人間ならばあまりのスケールの大きさに笑ってしまうだろう。

 だが市警軍や市議会、更には空宮までがこのプロジェクトに関わっていると知れば笑いは吹き飛ぶか凍りつく。悠理も空宮の名を引き当てた時には驚愕したものだ。

「空宮……空宮ね。なんであいつらが出てくるんだろう……」

 空宮文明維持財団。その起源は天宮と同じく、洋上閉鎖都市である澄崎の設計に関わった者達だという。『技術的発散』の再発生を防ぐことを建前に、澄崎市全ての企業や教育機関を監視する。高度な人工知能、不死の研究、戦略兵器の開発、量子コンピュータの性能アップ、その他諸々。彼らは数え切れないほどの技術や研究を失効テクノロジーに認定してきた。だがその基準は非常に曖昧で恣意的だ。

 例えば澄崎市では当たり前に使われ、今や生活の基盤となっているナノマシン。記録は隠匿されており今や市民の知るところではないが、澄崎市孤立の黎明期、およそ90年前に暴走事故を起こしており、テラフロートの地下居住区は汚染され誰も住めなくなってしまった。除染作業も事故後すぐに取りやめになっており、地下に収められていた様々な機器や技術は空宮の記念すべき失効テクノロジー認定第一号となっている。そしてそれだけの危険な事故を起こした方の技術に関しては、おざなりな審議を繰り返し、結局ただの経過観察処分に収まった。

 そもそも技術的発散自体、一切の記録が残っておらずただ傍証――つまり今現在澄崎市がこうやって海の上を漂っていることなど――によってのみ〝あったらしい〟と確認されているような代物なのだ。そして科学者たちによる技術的発散の研究は、市議会と空宮によって禁じられている。〝発散〟を起こさないためとされているが、ようするに奴らは自分の都合の悪い物を〝なかったこと〟としてこの閉鎖都市を操作し、君臨してきた。

 公社内であの教条主義者共を嫌っていない人間など存在しない。天宮家当主、悠理の父親、理生ですらもだ。

 ――父。そして母。

 あの日以来変わってしまったものに、当然彼らも含まれている。

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