第一章 不正な生、負債な死 Working For Death 3

(阿頼耶識層ALICEネットからの切断処理を確認……承認)

 ――気づけば、護留は少年の死体の手を握り締めていた。反射的に振り解く。頬を、雨とは違う温かいものが伝い落ちる。全身が嫌な熱を持ち、びっしりと脂汗をかいていた。

 最近、この白昼夢とも他人の記憶ともつかない幻覚を見る回数が増えつつある。今回のものは特に長かった。普段は数秒程度で、大抵は研究室で端末に向かっていたり、人と会話したりといった他愛のない物ばかりだったのに。

 今見た場面は何かの――実験の失敗の直後だろうか。内容を反芻する。いくつかの重要な単語を脳裏に刻む。

 プロジェクト・アズライール。

 護留の裡に潜む存在、『Azrael-02』と関連があるのだろうか。

 天宮。

 幻覚の中のあの男には見覚えがあった。天宮家現当主、理生。

 奴は〝じぶん〟のことを『引瀬由美子』と呼んだ。引瀬。自分と同じ姓。だがこの名はお仕着せられたように未だ馴染まない。この幻覚の視点の主が――本来の名の持ち主なのだろうか。

 そして――悠理。天宮家現当主、理生の一人娘。天宮家次期当主継承権序列第壱位。この街で最も貴い少女。

 天宮悠理あまのみやゆうり

 彼女が、消失? 馬鹿な。確かに市民の前には姿を見せたことはないが、護留がこの5年間集めた情報では公社内で研究部の役職に就いていることになっている。だが護留はある理由から市のデータベースにアクセスすら出来ない。可能性は否定出来ない。

 更にこの幻覚を見ていけば答えは見つかるのだろうか? だが幻覚の原因は不明だ。医療機関で診てもらうことは憚られた。澄崎市で、天宮の息が掛かっていない診療所など存在しない。金さえ積めば口は固い闇医者たちの値段は正規のそれよりも桁が二つばかり高く、とても護留個人で賄いきれる額ではなかった。

 ――僕は誰だ? 引瀬護留という名を持つこの身体、精神、魂は、何者なのだ?

 結局、疑問はそこに行き着いてしまう。5年前のあの日、自分の身にいったい何が起こったのか。『Azrael-02』が、自分にこの幻を見せているのか。それとも、本当に自分が、過去を思い出しているだけなのか。

 護留は死体を見下ろす。過剰に酷使された人工筋肉が放つ高熱と、澄崎市に常時空中散布されているナノマシンにより既に分解が始まっていた。グリムリーパーが強制救済を行った後では、取り出された魂から飛び散った外魄がいはく層により周囲で騒霊現象ポルターガイストが起こることが多い。生者の魂と死者の思念が共鳴し、死人と会話することも一時的にではあるが可能だとも言われる。

 あるいは、この子供が僕に幻覚を見せたのだろうか。

「まさか、な」

 老人のようにしわがれた声で呟くと、護留は追い立てられるようにその場から去った。

 後に残された少年の残骸からは、まるで天に昇り逝く魂のように、湯気が立ち上っていた。


      †


「止まりな」

 120番街大通りへと抜ける、どこにでもある灰色の路地裏で、そいつは声をかけてきた。

 路地の出口。そこに禿頭の巨漢が立ちはだかっている。護留は素直に従い立ち止まった。すると、ビルの隙間や廃材の陰から、まるで虫のように男と似た雰囲気の連中が涌き出てくる。否――虫ではなく、いぬだ。全員が護留の目の前に立つ男に対して、暴力による卑屈な忠誠を誓っているのだろう。全部で5人。普段の護留はこのような輩に囲まれないよう気を配っているのだが――今日はよほど疲れていたらしい。

「見てたぜえ、引瀬。ハイエナ稼業のカス野郎が。今日も死体漁りに精出してたようだなあ、ええ、おい?」

 禿頭は恐らく自身が凄みを与えられると信じている声音と表情で、挑発的な文言を投げつけてくる。護留が黙っていると周囲の狗たちも、っらあ、っかしてんじゃねえぞ、等と不必要なまでに大声で吠え立てる。

 ――こちらの名前を知っているようだ。護留の名前は不本意な形で巷間に流布しているので、それ自体は警戒すべきことではない。問題は、この手合いは主に売名行為を目的としてこちらに絡んでくるので、極めてしつこいということだった。

「……見ていたなら分かるだろうけど、今日は何の成果もなかったんだ。あんたたちに渡せる物は何もない」

 護留は俯いて、ぼそぼそと掠れた声で答える。五年前のあの日から、護留の声は変声期の子供とも老爺とも付かない物になっていた。禿頭が嘲りの表情を浮かべる。

「はああ? どこかでジジイが繰言述べてやがるせいでよく聞こえねえなあ。もう一度言ってみろよ、オラ」

 男たちが追従の下卑た笑いを上げた。

 正直、今日は疲れている。もう、何もかも終わりにしてしまいたい。だから護留は息を吸い、禿頭を真正面から睨みつけてこう言った。

「煩いな、黙れよ。禿猿はさっさと猿山に帰って雌と交尾しサカってから寝てろ。――いや、ごめん。野良狗だったね」

 雨以外の全ての音が消えた。手下どもは呆気に取られた顔をして護留を見つめ、そして禿頭はにやけ面のままだった。だがそれは度量が広いというわけではなく、単に護留の言葉がまだ脳に届いていないか、届いても意味を解するまでに時間がかかっているだけだろう。

 その証拠に、にやけ面のこめかみ辺りがびくびくと引き攣り、

「――っがああああああっ!! 引瀬えええっ! 『負死者ふししゃ』風情が人間様になめた口叩いてんじゃねえぇっ!!」

 咆哮を上げ、禿頭が巨体を振るわせ驀進ばくしんしてきた。速い。恐らく違法な身体改造か後天的遺伝子操作を施しているのだろう。まともにぶつかったら無事では済まない。禿頭は無手だが、その拳は護留の頭の半分ほどもあり、人間を殴り殺すには何ら不都合ない代物だった。

 叫びに触発され、一拍遅れてから、禿頭の手下たちも護留へと殺到した。こちらは手にナイフやスタンロッド等の武器を構えている。

 護留は、禿頭を睨みつけたまま、ただ立っていた。一歩たりとも動かなかった。男たちはそんな護留を見て、ひょっとしてこいつにはなにか策があるのではないかと怯むが、動きは止まらない。そして、護留は最後まで動かなかった。

 だが、拳が、刃が、鉄棒が、護留の体を肉塊に変える瞬間――まさに生死を分ける刹那、護留はようやく己を動かした。

 その、口元だけを。

 感情の宿らない眼はそのままに、唇を無理矢理上へと曲げて、言葉を紡いだ。

「さようなら」

 語尾が宙に拡散せぬうちに、あらゆる方向から様々な種類の暴力が護留を襲う。

 血飛沫が舞い、護留の意識は途絶えた。


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