序章 かなしみに満ちた楽園で Sorrowful Shangri-La 7

・――それで、結果は? 成功ですか?――・

・――はい……いいえ。ユウリ様の魂魄及び識閾下しきいきかを走査した結果、当初の目標の内、一つは達成したと判断致しております――・

・――一つ?――・

・――ユウリ様の魂魄――『Azrael-01』の覚醒は成功しています。元型アーキタイプ変性による身体の脱色素化も発症が確認されました。しかし、仮想人格ペルソナの消滅にまでは至らなかった模様です。やはり、引瀬由美子博士の遺していったデータだけでは不完全だったと……検証が終わった後にデータをすり替えられていたようです。『Azrael-01』と『Azrael-02』のデータは50%以上が破棄されていました――・

・――それを完全なものにするのが貴方たちの仕事だったはずでは? 貴重な二週間の期間では足らなかったと? そして、その挙句に失敗ですか? 仮想人格を消さなければ、の開放は成されないわけでしょう――・

・――申し訳ございません――・

・――……引瀬博士が出奔したのは科学部のミスではありませんから、これ以上は不問に付します。現在、情報部に特別高等巡邏隊を使わせて博士の『遺作レガシー』を捜索させています。回収された博士の遺体には魂が残っていなかった。何らかの素体に、完全なデータを刻んだ魂を入力して逃げ仰せたようです。屑代――情報部に、あの引瀬の作品を見つけられるとも思えませんが、他に手もない以上、期待せずに待つことにしましょう。どちらにしろ空宮に対して強引に過ぎる手段で牽制を行ったのでこれからしばらく――事によっては数年間、こちらは表立って動けません――・

・――では、それまでのあいだ、仮想人格の処置はいかが致しますか――・

・――〝彼女〟の覚醒が成功している以上、放置してもさして害はないでしょう。むしろ下手な操作は行わぬように。現在の主人格はあくまでも仮想の方です。これ以上素体の劣化が速まれば元も子もない。くれぐれも薬物投与や洗脳は控えるように――・

・――了解致しました。使用済みの被験体マルタは例のプラント行きでよろしいでしょうか――・

・――ああ、引瀬の娘ですか。ええ、必要なデータは取れましたし構いません。引瀬博士に対する人質としてだけでなく、侍女としても役に立ってくれた子ですからね、丁重に扱ってやってください――・

・――かしこまりました、理生りお様――・


 少女が目覚めて最初に感じたのは、寂しさだった。

 自分の部屋の自分のベッドに少女は一人で寝かされており、病人用の白く清潔な肌着を纏っていた。部屋の中は薄暗く、今が昼か夜か判然としない。

 その薄暗がりを頼りに、何もかも悪い夢だったのだと思おうとしたが――無理だった。

「眞由美は、死んだ」

 少女は呟いた。

「眞由美は、死んだんだ」

 言葉が、体に染み渡る。

「う、うううう――っ!」

 凶暴な怒りに駆られて、腕を振り上げた。しかし、怒りは発生と同様に一瞬で冷め、少女は腕をだらりと下ろした。

「……ごめんなさぃ……ごめんなさい――まゆみぃっ……」

 泣かないと約束したはずなのに。後から後から、涙は溢れ出てきた。それを拭おうともせず、少女はただ中空を無為に見つめ続ける。

(わたしは、これからどうすればいいんだろう)

 それは自分の内に呼びかける問いだった。『あの子』が何かいいアドバイスをくれるのを期待して。こういう事態になったのは、確かにあの子の存在が原因かもしれない。けれどあの子は何もしていない。それにもはや少女にとって、自分の内に棲すむ〝私〟だけが頼りだった。

 ――なのに。

「あれ?」

 いつもなら即応してくれる、あの子のはすに構えた思考が。返って、こない。

「え? あれ!? うそ、うそうそうそっ!!」

 少女の背筋が冷たくなる。幾度も幾度も呼びかける。それらは幾度も幾度も虚しく空っぽの心の中でこだました。

『――奴らが欲しているは、私だけなのだから。あなたには、悪いことをした』

 すとん、と。それだけは思い出せたあの子の言葉が降ってきて。

 納得、できてしまった。あの子もいなくなった。消されてしまった。父はわたしの「機能障害を正す」と言っていた。そしてあの子は狙われているのは自分だと言っていた。具体的に、どのようなことをされたのかはわからない。だけど、これだけは絶対確実に言い切れる。

 わたしは、一人になってしまった。この家――即ちこの世界で、自分の味方は、自分の友だちは、誰一人としていなくなってしまった。

「――くくく」

 笑いが漏れた。狂気に侵された笑いではない。この後に及んでなお、狂気に身を委ねられない自分を嘲り哀れむ嗤いだ。ああ、狂えればどれほど楽だろう。だが少女の精神は残酷に正気を保っている。

「くふふふ、はは、あはははは……」

 涙を流して笑いながら立ち上がり、起動コードを唱え照明を燈す。壁のスクリーンを夜間微発光モードから外景投影モードへ。

 少女の視界いっぱいに、天宮総合技術開発公社・本社ビルの150階、地上777メートルから見た澄崎市の街並みが広がった。

 外はまだ明るかったが雨が降っていた。全てが霞かすんでいる。まるで、都市が泣いているようだ。


『何も心配しなくて結構ですから。だから、何があっても泣かないで下さい、悠理様。

 強く、生きてください』


 わかった。私はもう、泣かない――泣けない。ともに涙を流せる相手が、泣いた後に共に笑える相手が、いなくなってしまったから。たくさんのかなしみと一緒に、消えてしまったから。

 弱音を吐くのはもうやめよう。あらゆる機器も使いこなそう。誰にも頼らず生きてやる。誰よりも強く生きてやる。

 天宮の次期当主として、完璧な振る舞いをしてみせよう。

 そうすれば、不用意な言葉でよくないことを招き寄せる心配がないから。

 かなしいことは、もう起こらないだろうから。

 私は、天宮悠理は、今日これより独りで生きる。

 ――もう、眞由美には心配かけないよ。

 だから、

「あなたも、泣かないで。私の中で、ずっと笑っていて」

 涙も笑いも、自然に止まっていた。悠理は眼下に広がる風景を、近くて遠い、こことは別の世界を飽くことなく眺め続けた。

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