序章 かなしみに満ちた楽園で Sorrowful Shangri-La 6

 雨は止む気配を見せず、都市は白く烟けぶっている。

 少年はソファに腰を下ろし、ナイフを手で弄っていた。刃が手を傷付け、その度に筋繊維や血管が飛び出し不細工に傷口を塞ぐ。そのせいで少年の両手は上から肉の網で縛りつけたように、膨れ、歪んでしまっていた。

 不意に爪の隙間から飛び出した肉の帯がナイフを弾く。ナイフは重力に引かれ、きん、というあの美しい澄んだ音を、

 ぱきっ

 ――響かせなかった。かわりに、枯れ枝が折れるような乾いた音がした。

 虚ろだった少年の目が、にわかに生気を取り戻し、そして動揺の色に染まる。母さんのナイフが、どこか壊れてしまったのだろうか?

 慌てて拾い上げるが、特に異常な部分は見受けられなかった。だが、ほっとした次の瞬間、刃の部分が丸ごと滑るように流れ落ちる。

「え、あ? わう――」

 焦って意味のない呟きが漏れ――そして少年は愕然とした。自分の声がまるで老人のようにしゃがれていたことにではない。落ちたナイフの刃に対しての驚愕だった。そして、

始端オープニングフラグの認識を確認。魂魄解凍開始)

 頭の中で〝声〟が聞こえた瞬間、眼前以外の景色が吹き飛んだ。少年の中で超高密度の情報が高速で展開され、根を張り始める。それは少年の存在を根底から変え、組み直していく。

 ・――ナイフの刃は、白銀色の、比重の大きそうな流体へと変化していた。E2M3混合溶液。〝ヘルメスの水銀〟とも呼ばれる、超高性能ナノマシン群体の液体相。擬魂IG制御により刃形に成型され、抗老化処置や魂魄整型手術などに用いられる、亜生体デミバイオデバイス。形態解除されたことにより酸化が始まっているが――微弱過ぎる。一度使用された痕跡が認められる。正規の環境基準を満たしていない空間で、擬魂による超稠密ちゅうみつ制御ではなくそれより粗雑な、人の魂魄と精神接続して使われたようだ。起動ログによると、これの視認が『じぶん』の始端フラグの一つとして設定されていたらしい。ナイフに執着したのはそのためか。――目が翳む。全身の感覚器の能力を観測のために数倍に引き上げたのが原因となり、ゲシュタルト崩壊が起こっている。脳、精神、そして魂に過負荷が発生中。ハイロウ内での反魂子はんごんし生成が停止している。素体維持のための閾値が得られない。警告アラート内丹炉リアクター機構に異常を認む。トラブルシュート開始……終了。内丹炉群の半数以上が壊死している。先の素体の破損、それに伴う超再生現象モルフォスタシスフェノメナが原因と推察される。応急処置では間に合わない。引瀬由美子ひきせゆみこ博士により設定されたプロトコルに基づき、この素体の措置を決定する。素体記憶初期化中……終了。問題部位の凍結を開始……終了。外挿された魂魄と素体の残留思念に基づくクオリアの合成開始……終了。エナンチオドロミー処置開始……終了。末那識まなしき層ALICEネットとの相互リンクを切断中……終了。阿頼耶識あらやしき層ALICEネットへ接続中……終了。新規素体名称を設定中……終了――・

(――『Azraelアズライール〉-02』、起動……成功)

 我に返った。

 ――ぼくは今、なにを考えていた?

 ……思い出せない。大丈夫、混乱しているだけだ。一つ一つ確認していけば問題ない。

 ここは、澄崎市北東ブロック第1都市再整備区域50番街E14号通り。

 本当に? ああ、本当だとも。こうやって番地まできちんと覚え――

(何百とある再整備区の番地を、ぼくは覚えていたのか?)

 心臓が大きく跳ねた。――落ち着こう。落ち着け。外堀から埋めていけばいずれ全てがはっきりする。

 そう、まず、今一番必要なものからだ。自己の存在を最も強く定義づける言葉。自分の、名前は? 簡単だ。すぐに思い出せる。ぼくの名前は、

 ……『引瀬護留ひきせまもる』。

 ――違う!

 強烈な違和感。違う。その名前は自分の名ではない。その名はぼくをすり抜けていく。ああ、しかし――いったいどうやって確かめればよいと言うのだろう? ぼくの本当の名前を呼んでくれたのは、母さんだけだ。だけだった。母さんは、いない。連れ去られた。

 誰に?

天宮あまのみや

 ふ、と。その名は脈絡もなく――だがそれが必然だとでも言うように浮かんできた。

「天宮――悠理……」

 錆びた声音で呟きつつ、少年はソファから立ち上がり視線を南の空に飛ばす。その先には雨のベールで覆われ翳みつつもなお圧倒的な、天をする超高層建築がそびえていた。

 天宮総合技術開発公社・本社ビル。

「あそこに、いるのか」

 母さんが。そして〝天宮悠理〟という名の人物が。天宮悠理。誰なのだろう。だが、まあいい。いずれやつらの仲間なのだろうから。ならば誰であろうと構わない。

 ……僕は、どうやってこの名前を思いついたのだろう?

 ――ああ、そうか。きっと、母さんが教えてくれたんだ。

 記憶の欠如、認識の齟齬、思考の撞着。

 だけど不思議と不安はない。意識はむしろクリアで、これから何を成せばいいのかも分かっている。

 少年は――引瀬護留は、E2M3混合溶液を拾い上げる。護留が手を触れた瞬間、青白い輝きと共に液体金属は再びナイフの刃を形成した。

 強く握り締める。刃が肉を裂き骨に半ばまで食い込むが、その傷は先ほどまでとは比べ物にならない速度と精密さで滑らかに塞がった。

 これが武器だ。これから天宮と戦うための、僕の最初の武器だ。

 護留は決然と歩き出す。なにかを欠いた表情で、なにかを得た情動で。

 擦れ切った声で、雨音に掻き消されまいと、

「待っていろよ!!」

 叫ぶ。なにも分からぬままに。

「絶対に! 僕は、全て取り返してみせるからな……!」

 護留の姿は、雨の中に消えて行った。

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