序章 かなしみに満ちた楽園で Sorrowful Shangri-La 3
ふかふかの絨毯が床一面に敷いてあり、ふわふわの大きすぎる(しかし部屋の広さに比して小さな)ベッドがどんと置かれている。ベッドの上には様々な紙媒体の古雑誌や、ベッドに合わせた巨大な枕、そしてすぐに時間が遅れる年代物の目覚し時計などが散らばっていた。
壁際には黒檀のドレッサーとキャビネット。窓はなく、かわりに全ての壁と天井が、外の景色をリアルタイムで映し続ける高精細スクリーンになっている(今はただの壁だけど)。それらには部屋の主の趣味なのか、可愛らしくデフォルメされた天使のシールがあちこちに貼ってあり、ホログラムの御使いたちが揃って喇叭を吹いていた。
部屋の端にある勉強机に偉そうに居座っているのは、いつまでたっても使いこなせない
そんな部屋の隅。黒髪、黒眼の少女が、目を真っ赤に腫らしてぐずぐず泣いていると、控え目なノックの音が響いた。
「だ、だあれ?」
少女は涙を拭き、慌てて立ち上がる。
「……お嬢様?」
扉が静かに開き、その隙間からそっと顔を覗かせたのは、侍女の
少女より五つ年上の眞由美は、暇をみては少女と一緒に遊んでくれた。あやとりを教えてくれたのも彼女だった。眞由美は少女を見ると、心底ほっとした顔をして、律儀に「失礼いたします」と言いながら部屋に入ってきた。別に失礼じゃないのに、と少女はいつも思う。続けて眞由美が起動コードを小さく唱えると、部屋の照明が燈った。
「明かりをお点けにならないと御身体に障りますよ、お嬢様」
少女は息を呑んだ。豪奢なクリスタルシャンデリアが放つ柔らかい灯の下、眞由美の目の端に、涙が浮かんでいるのを認めたからだ。
少女は年上の眞由美がなぜ泣いているのか分からなかった。別に彼女は怒られていないのに。彼女の親が喧嘩をしたわけではないのに。それとも眞由美の涙は、少女とは違う理由で流れているのだろうか。
眞由美は戸惑っているこちらに歩み寄ると、ゆっくりと抱き締めてくれた。
とても、温かかった。
「申しわけございません、お嬢様……。私が、あやとりなんてお教えしてしまったから」
「眞由美のせいじゃないよ!」
少女はできるだけ明るい声を出すよう努めた。
「眞由美のせいじゃない。ね。だから、もう泣かなくていいよ」
眞由美の方がお姉さんなのに、これでは立場が逆だ。そのことがおかしくって、少女はくすくすと笑い出した。眞由美も泣き顔を引っ込めて、一転、笑顔になる。
『ありがとう』
お互いの声が、綺麗に重なった。二人は顔を見合わせて、またころころと笑った。
それから、二人で色んなお話をした。
眞由美が職場で――つまりはこの家のあちこちでやらかした、様々な失敗談。
「ええ、お皿をまとめて20枚割ってしまった時の主任の顔! ぜひお嬢様にも見ていただきたかったです! ……まぁ、その後は例に漏れずにお説教に減給されちゃったんですけど」
しょんぼりした眞由美を、少女は満面の笑みで撫でてやった。
少女もお喋りでなら負けていない。
あやとりで〝塔〟を作れるようになったこと、この前教えてもらったお手玉も数を四個まで増やして遊べるようになったこと、そして通信授業での偏差値が最近ずいぶん上がったこと。
眞由美はとても楽しそうな表情で聞いてくれた。
「それでね! その宿題を出したのは先生なのに、わたしにこう言うの」
少女は背筋を伸ばし尊大な口調で――教師の真似だろう――喋りだした。
「『ユウリ君。失礼だが、これは本当に、君がやったのかね? いや、少し君には難しいと思っていたのでね』。……って感じでさ! 本当に失礼しちゃうよ、ちゃんと私がやったのに! ファイルの
熱が入り、ついつい子供っぽい口調が出てしまう。来月にはもう10歳になるのだから、大人らしく振舞おうとしているのだけど。
でも、眞由美は口調について茶化したりせずに、純粋に少女の話に笑ってくれた。笑いながら少女を抱き寄せて、酷いですねえ、と髪を手櫛で漉すいてくれた。
――本当は、お父様やお母様にこうしてもらいたかったのだけれど。
それは贅沢というものだ。わたしには、眞由美がいる。
「でもね――」
そんな安心感が、少女の口を、滑らせた。
「『あの子』に手伝ってもらったことがばれるちゃうかもって、少しひやひやしちゃった!」
瞬間――眞由美の顔に、言葉では表せない〝ひび〟が疾った。
「…………お嬢、様」
その声だけで、充分だった。
(よくないことだ)
――ああ、そうだ。よくないことだ。わたしが言ってしまった言葉が悪いのか。それともこれから不幸が訪れるのか。それは分からないけれど。
とにかく。よくないことなのだ。
眞由美は自分の表情と声色が少女を怯えさせているのに気づくと、ふ、と短く息を吐き、明るい調子で質問した。
「お嬢様、『あの子』って、誰なんですか?」
「だ、誰でもない。誰でもないよ!」
首をぶんぶんと振り、精一杯の否定を少女は示した。けれど少女も、こんなことで眞由美を騙し遂せることはできないと理解していた。無論、自分の中にもう一人の〝私〟がいるのが異常で異様だということも、それが周知された時の人々の反応も分かっていた。
(どうせ、ばれることだったんだ。『
あの子が、諦めの思念を伝えてくる。
駄目だよ。諦めちゃ、駄目。今までだってあなたのことは隠し通せてきたんだから。
だから――これからだって。
「ああ、そうだ、ええっとね? この前ネットのチャットルームでお友だちができたの! それで、その子にお手伝いしてもらって宿題を――」
言いわけを重ねる毎に、泥沼へ一歩一歩足を踏み入れていくのを実感する。少女が不用意な情報を得ぬようにと、少女の端末からのALICEネットへの接続はかなり制限されたものになっているのだ。母が言うところの〝平民〟とお喋りできるはずがない。
「お嬢様、」
「ほ、本当だよ? 本当だもん!」
情けない。さっき泣き止んだのに、またも涙声だ。父母からすぐに泣くのはアマノミヤのトウシュに相応しくない、といつも言われているが、悲しいことがあるとすぐに涙を堪え切れなくなる。く、と泣きに入る前のしゃくり声が喉から洩れる。
「――
少女ははっとして顔を上げた。大丈夫という言葉の頼もしさよりも、眞由美が〝悠理様〟と呼んでくれたことに驚いた。これまでいくら頼んでも、怒って命令しても少女のことをお嬢様としか呼ばなかったのに。
眞由美は少女の顔を覗き込み、力強い笑みを浮かべてこう言った。
「悠理様、私にお任せ下さい」
少女はこの言葉に戸惑った。なにを任せろというのだろう。あの子のことか。でも、あの子はいつも自分の中にいて、どうすることもできない。呼べば応えてくれるが、自分以外はその限りではないと思う。
「何も心配しなくて結構ですから」
少女の疑念を故意に無視して、眞由美は笑いながら続けた。
「だから、何があっても泣かないで下さい、悠理様」
そう言った眞由美の眼の中を過ぎった感情は、まだ子供の少女には理解できなかった。
「強く、生きてください」
ただ、少女はそれを見て何も言えなくなった。
それから四日後。
眞由美がいなくなった。
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