序章 かなしみに満ちた楽園で Sorrowful Shangri-La 2

 少年は呆けたようにその場に座り込んでいた。

 左手首が真っ赤に染まっている。血だ。絶え間なく降り注ぐ雨滴は丹念にそれらを拭っていくが、また新しく赤は吹き出る。手首に沿って、ぐるりと輪を描くように。しかし、少年はそんな傷など存在しないかのように身動ぎもしない。右手にはナイフを握り締めていた。

 ぴしゃぴしゃと、何かが水たまりを歩く音がした。少年は弾かれたように反応する。溝鼠だった。安堵するが、鼠が死体に取りつくのを見て、猛然といきり立った。

「この――っ!」

 ナイフを、鼠めがけて振り下ろす。無論当たるはずもなく、鼠はきっ、と一声鳴いて走り去った。体から力が抜け、ナイフを取り零す。そして屍骸に目を落とした。

 死体の右手は、ずたずたに切り裂かれ、手首から千切り取られていた。凝固しかけた黒い血液が、ぽたりぽたりと垂れている。

 死体の手首を、切り落としたのだ。

「ぼくは――ぼくは……」

 雨に打たれ、少年の体温は著しく下がっている。それにも関わらず左手だけが、ずくずくと熱い。その熱が思考に薄い紗をかける。

『動クナ』

 唐突にかけられたその声に、少年は凝然と固まった。正面に、最前まではいなかった何かが立っていた。

『ユックリト立テ、両手ヲ壁二ツケロ』

 ざらざらとした、非人間的な声質。少年はこれと同じ声を何度か聞いたことがあった。非市民ノーバディが連行される際、暴動鎮圧の現場、そして――死体の傍らで。

 澄崎市警軍特別高等巡邏隊。市民の間では〝特邏とくら〟と呼ばれている。灰色の都市迷彩が施された半有機素材製のプロテクターは雨に濡れ爬虫類のようにてらてらと光り、ひたすらに不気味だ。顔は複雑な形状のHMDヘッドマウントディスプレイに隠されて見えない。そのことが、特邏がこちらに向けている銃口よりも少年を恐怖させた。自分は、顔のない化け物の前にいるのだ。

『従エ』

 警告に、少年はぎくしゃくと反応した。壁に向けた視界の端で、少年は化け物たちをこっそりと覗き見る。逆らって殺されるのは怖かったが、それ以上に彼らがなにをしているのか確認しない方が恐ろしかった。

 目に入る範囲に特邏は二人いた。一人は少年の傍らにいる者。そしてもう一人は、

 右手が欠落した死体を濃緑色の袋に詰めている者。

 だが死体は硬直しきっているため、上手く袋に入らない。特邏は何の躊躇いもなく手足、そして首の骨を圧し折って袋に押し込めた。作業が終わると袋を担いで、路地の入り口付近にいつのまにか横づけされていた兵員輸送車に向かって歩き出す。

「あ」

 頭が真っ白になる。反射で特邏の足にすがりつく。

「ま、待って」

 特邏の主任務は、市内の治安維持。そして彼らは、潜在的犯罪者を独自の判断で逮捕、もしくは処罰することが可能だ。潜在的犯罪者とはつまり、少年のような非市民ノーバディや、低級市民ロウアーのことである。少年の頼みなど、聞く耳を持つはずがない。

「――っ!」

 返事の代わりに送られたのは、銃声だった。少年の胸に熱い空隙が生じる。

「がえぜよ……」

 ゆっくりと膝を折りながら、それでも文字通り死力を尽くして少年は吠えた。だが、実際にはひゅうひゅうと掠れた声しか漏れていない。肺が傷ついたらしい。自らの血で溺れながら、なおも少年は絶叫する。

「があぁぁえぇぇぇぜえぇぇ――――っ!!」

 胸に大穴を開けている少年のどこにそんな力が残されていたのか。少年はナイフを掬うように拾い上げると、わずかに反応が遅れた目の前の特邏に向かってその切っ先を突き出した。

 暗く狭くなっていく視野。特邏は機械的な速度で銃のトリガーを引こうとする。少年のナイフはプロテクターに当たって弾かれたが、子供のものとは思えぬ膂力に特邏は体勢を崩す。

 装甲車の近くにいた奴が異常にようやく気づく。少年はナイフを逆手に持ち替え特邏のプロテクターの隙間に全力の一撃を加えんとする。寸前、無数の衝撃。

 一瞬で発射された9発の対人軟弾頭ソフトポイントは過たず全て少年の胸に命中した。夥しい量の血と肉と骨が飛散し、その場に崩れ落ちる。

『何ダコイツハ? 心臓ヲフッ飛バシタンダ、確カ二即死シタハズダゾ! ナゼ動ケタ!?』

 顔のない化け物がなにか叫んでいる。

『――回収指令ガ出テイルノハコノ女ダケダガ、コレモ確保シテオクカ? 見タトコロ、死体ヲ漁リニ来タハイエナ稼業ノ餓鬼ノヨウダガ』

『――イヤ、待テ。屑代クズシロ部長カラノ指令ダ。博士サエ確保デキレバ、後ハ捨テ置イテ構ワナイト言ッテイル。餓鬼ノ処理ハ後続ニ任セヨウ』

 言葉はわかる。でも意味はわからない。化け物の言葉など理解できなくても構わない。意識が濁り始める。特邏たちの声が遠ざかる。

 体が痛い。母さん、助けて。母さんはぼくが痛い時いつも治してくれた。お医者さんをしていたから。母さんに治してもらいたくてわざと怪我をしたこともあった。ひどく叱られたけど、結局母さんはいつも治してくれた。痛い。だから今度も大丈夫。痛い痛くて死にそうだしぬのはいやだ。つれていかないで。ひとりにしないで。叫ぼうとしても喉に溢れてくる血が邪魔をする。いきがすえない くるしいよ

 たすけて かあさん

 雨の線に分断された景色の中、特邏たちは来た時同様音も無く去って行った。

 少年は一人取り残された。雨が、体温を奪っていく。

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