序章 かなしみに満ちた楽園で Sorrowful Shangri-La 4

 少年は再び目覚めた。

 足がふらつくのを堪えて立ち上がる。一体どうなっているのか、何が起こったのか、少年には全く理解できなかった。

 ざっと体を点検する――無傷だ。ただ、つぎはぎだらけの服の胸の部分には穴が開き、泥水で汚れきっていた。撃たれたのは確かだ。なのになぜ、ぼくは、生きている?

 そこで、気づく。

 体が濡れている――雨で。服が汚れている――泥で。

 血は? ぼくの体から流れた血はどこへ消えた? 雨で流された? 全部?

 地面に目を落とす。そこにあったのは、期待していたような血染めの水溜りではなく、銀の煌きを放つナイフだった。拾い上げる。疑問だけが頭を占めていた。だから、その行為は考えてのものではなかった――或いは何が起こっていたのか無意識では知っていたのかもしれない。

 ナイフを逆手に持ち換えて、己の胸に、勢いよく突き立てた。

 さっきあれだけ胸から流れたのに、血はまた驚くほど高く噴き出した。雨に流される紅い飛沫。下がりゆく体温。目の前が段々と暗くなって、

「――ぐっ? かふ、?」

 せり上がってくる嘔吐感と激痛の中、ナイフを持つ手に、それを感じた。

 押し戻されている。

 ナイフが。肉に。

 薄紅色の肉芽にくがが、黄色い脂肪が、ナイフに絡みついて体内から刃を排除する。雨に流されたはずの血液が泥水と分離して肌をざわざわと登ってくる。血は傷口の近くで一瞬探るように蠢くと、一斉に流れ込んできた。死人の色になっていた肌に、赤味が戻る。揺らめいていた肉芽の群れが瞬時に収縮し、最後にひときわ湿った音を立てて体内に引き込まれた。痕から、薄らと湯気が立つ。

 酷い眩暈がしたが――今度は気を失いすらしなかった。

 先ほど調べた時には無意識に見ないようにしていた胸を、たった今異常な現象が起こった自分の体を、少年は意を決し今度こそ、

 見た。

 10発の銃弾に打ち抜かれ、今ナイフで貫かれたそこは、

 直径、深さ共に一センチ程度の窪みがあちこちにあり、重なり合って広い面積で凹んでいる。それらが、周囲の筋肉や組織を巻き込んで、溶けたガラス越しに見る風景のように歪んでいた。視線は自動的に左手に向かう。そこも――やはり子供が戯れに捏ねた泥のように肉がよじえぐれていた。

 精神が決定的に狂ってしまう前に、とっくに狂っていたらしい体が反応した。

「ぐぇうっ……、っ、ぇぇぇぇぇぇ」

 激しい嘔吐。血も混じっている。それが予想通り吐寫物と分離して口内に戻ってくる。胃酸の刺激と血液の鉄臭に耐えきれず、また吐く。

 涙は溢れ、喉が傷つき、再度血が混ざり、それが口腔内に戻り、声帯が不自然に蠢動しゅんどうし、ぎちぎちと傷口を不細工に塞ぎ、

「あ、あああ、ぁぁああああぁぁぁっ!」

 少年は、いた。恐怖のせいではなかった。嫌悪でもなく、痛みでもなく、母の後を追えない悔しさでもなかった。ただ、悲しくて。

 ただただ、悲しくて。少年は慟き続けた。

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