終:とあるメイドの17年間

 



 窓を拭き、ふうと額の汗を拭います。きれいになった窓から眺める空を見ました。



(ヴィリアント家に仕えて、もう17年か)



 そんなに経ったのかと感慨深くなります。


 ここに勤めたきっかけは街中に貼ってあった『メイド募集』の貼り紙を見たことです。相場の1.5倍ほどの給金がもらえると知り、すぐに屋敷の扉を叩きました。


 屋敷の秘書をしているネルゲイさん、厳しそうだけど面倒見のよさそうなメイド長に迎えられ、良い職場にきたぞと内心にんまりしていました。人間関係がよければ、仕事が多少キツくても頑張れます。さらに給金がいいとなれば、もっともっと頑張れます。


 私の夢を達成するためには、お金が必要なのです。

 そう、王国内にあるロマンス小説をすべて読むという夢のために!


 平民ですが商人の娘だった私は、幼い頃から本に触れる機会がありました。なんとなく読んだある一冊のロマンス小説に、雷に打たれたような衝撃を受けたのです。なんだこれはとページをめくる手が止まりませんでした。


 契約結婚をした男女が、過ごす日々の中で本当の愛を見つける物語でした。おそらく100回は読んだと思います。

 読み過ぎてボロボロになった本を抱え、私はある決意をしたのです。国内のロマンス小説をすべて読むぞと……!


 私の家は7人兄弟で、私は下から2番目の子どもでした。跡を継ぐ必要も、誰かに嫁いで家の繋がりをつくることも求められませんでした。放っておかれて寂しいと感じる人もいるかもしれません。しかしロマンス小説で頭がいっぱいになっている自分にとっては大変ありがたかったです。恋愛をしたり、育児をするくらいなら、ロマンス小説を一冊でも読んでいたいと本気で思っていたからです。


 しかし本は高い。給金が高いヴィリアント家の応募に飛びついたのはそのためです。

 ネルゲイさんとメイド長に会ったところまでは、「最高の環境にきたぞ」と心の中でガッツポーズをしました。しかし屋敷の主人にお会いしたとき「うまい話には裏があるのだ」と頭を抱えます。


 私が仕える、ゴーシュ様にお会いしたときの感想は『クサい』でした。

 見た目の感想よりも、嗅覚の方が先に反応しました。タバコやらアルコールやらの匂いが、ご自身の体臭と混じり合い、思わず塞ぎたくなるような匂いをしています。


 そしてもう1人、屋敷の女主人であるエレオノーラ様にお会いしたときの感想は『ロマンス小説の登場人物だわ!』というものでした。

 物語に出てくる登場人物は美形ばかりで、「現実にはいないわ」と今までは割り切って読んでいたのです。が、それは間違いだったのだと気づきました。


 漆黒の艶のある髪、宝石みたいにきれいな紫の瞳、すっと伸びた鼻筋や色づく潤んだ唇。どのパーツを見ても美しい以外の言葉が見つかりません。それらがすべて透き通った小さな顔に、完璧な位置で収まっているのです。たぶん神様は彼女の顔を1週間くらいかけて作ったのでしょう。え、私? 私はたぶん3秒くらいです。



 しかし性格は最悪でした。



 何かにつけて怒鳴り散らしてきます。ゴーシュ様が体に触れてきて怒るのはまだ分かります。しかしベルを鳴らして何秒以内に来なかったやら、ティーカップの色合いが気に入らなかったとやらで怒鳴り散らすのです。日によって言っていることがころころ変わるので、対応もできません。


 横暴で身勝手なゴーシュ様とエレオノーラ様。

「悪魔が住む屋敷だ」と吐き捨てて、メイドが何人も辞めました。私も辞めようか本気で悩みました。しかしロマンス小説と過酷な職場環境の天秤は、ギリギリ前者に傾いていたのです。


 ある日、エレオノーラ様に仕えていたメイドが辞めたので、私が朝の支度をすることになりました。


 気が重かったのですが、「これもロマンス小説のため……」と励ましながら部屋へ向かいます。

 しかしノックをしても返事がありません。こういうときはどうすれば……と困惑しましたが、他のメイドたちが忙しそうに働いている姿を思い出し、戻って聞くのもなぁとため息をつきました。

 意を決して扉をあけたら、とんでもない光景が広がっていました。


 ドレッサーの鏡が割れています。粉々に。

 床に散らばったガラスの上には、陶器の小物入れが転がっていました。



「え、エレオノーラ様」



 何が起きたのかと戸惑い息を飲む私。女主人の名を呼べば、「……何よ」とベッドから低い返答が飛んできました。彼女の姿を見て、「ひっ」と思わず悲鳴をあげてしまいます。


 美しい女主人は、亡霊のようでした。

 髪はボサボサで、瞳の下にはクマができていました。生気を失った顔で、ベッドに座り込んでいます。


 何が起きているのか全く分かりません。とりあえず謝らなくてはと「申し訳、ございません」と謝罪しました。頭を下げて見えた、自分の手のひらは震えていました。



「……いいから、それ、片付けて」

「は、はい! 今すぐ!」



 返事をして、全速力で走って、ちりとりと箒を持ってきました。

 急いで戻って、ガラスの破片を集めます。カチャカチャと気まずく重々しい沈黙に、ガラスが触れあう音だけが響きます。


 掃除をしていると、背中に視線が突き刺さります。お願いだから叱らないでと、箒を持つ手が震えます。ここで難癖つけられて怒られたらーー粉々になったガラスに向かって、顔を押さえつけられるかもしれない。血だらけになる自分を想像してぞっとしました。


 視線は感じましたが、最後まで怒られることも、話しかけられることもなく、ガラスを掃除することができました。ひとまずほっと息を吐きます。そして頭を下げ、「ガラスを片付けて、参ります」とだけ言って、部屋をあとにしました。



 このときの私は、エレオノーラ様が悪魔にしか見えていませんでした。

 あれほどの美貌をもちながら、顔を醜く歪ませて当たり散らす悪魔。

 やっぱりこの屋敷で働いていくのは無理かもしれないと、思い始めてきました。


 そんな悪魔みたいな彼女に変化があったのは、あの夜からでしょうか。


 夜中、ゴーシュ様がひどく酔っ払いながら帰ってきました。

 ネルゲイさんもメイド長も対応していましたが、怒鳴り声をあげて突き飛ばします。そのままエレオノーラ様の部屋に向かってドスドスと歩いて行きます。私はぞっとしました。今のまま入室すれば、ゴーシュ様は彼女を手荒く抱くことでしょう。エレオノーラ様は苦手ですが、性的な暴行を受けてほしいわけではありません。


 ドアを激しく叩くゴーシュ様に、私は駆け寄ります。



「エレオノーラ! いるんだろう?!」

「ご主人様、おやめください……!」

「うるせえ!」



 腕を振りかざされ、私の体は床に叩きつけられました。鈍い痛みが背中に走ります。


 すると鍵の開く音がして、エレオノーラ様が出てきました。駄目です、今出てきては、絶対に駄目!叫びたいのですが、声が出ません。すると彼女は、驚くべき行動に出ました。


 なんとゴーシュ様の手を両手で包み、「こちらへ」と招き入れたのです。2人は部屋に入り、扉がしまる音が廊下に響きました。私の脳内には、苦痛で歪みながらもゴーシュ様を招き入れるエレオノーラ様の表情がこびりついていました。



 その次の日から、エレオノーラ様のまとう雰囲気が変わりました。

 正確には「変わろうとしていた」と言った方が正しいでしょうか。


 まず怒鳴り散らすことがなくなりました。何か言いたげに口をつぐむことはあっても、言葉にすることはなくなりました。


 また領地経営について学ぶようになりました。あのエレオノーラ様が、ネルゲイさんに頭を下げて知識と技術を教えてほしいと頼んだと聞いたときは驚きました。


 また荒れ狂うゴーシュ様が現れたときは、エレオノーラ様が対応してくれるようになりました。ゴーシュ様の吐く暴言に対して凜として立ち向かい、彼が望めば部屋に招き入れました。そのときのエレオノーラ様の絶望した顔は、今思い出しても胸がきゅっとなります。


 少しだけ穏やかさを取り戻したヴィリアント家。

 メイドたちが次々とやめる現象もなくなり、メイド長やネルゲイさんも前より元気を取り戻したように見えます。



 ある日のことでした。

 私はエレオノーラ様の朝の身支度を手伝っていたところ、彼女が何か言いたげにしていました。そして髪のセットが終わった瞬間、



「ありがとう」



 そう感謝されたのです。

 ヴィリアント家に勤めて初めて言われました。鏡に映るエレオノーラ様はなんだか居心地の悪そうな顔を浮かべています。自分の言った言葉が合っているのか分からない、そんな表情です。


 彼女に感謝されたことに驚いていましたが、同時に嬉しくなって、「い、いえ!」と照れ笑いで返します。するとエレオノーラ様は目を大きく見開いて、ぼそりと呟きました。



「なんだ、こんな簡単なことだったのね」

「え?」

「……なんでもないわ」



 切なそうにまぶたを伏せるエレオノーラ様の顔は、もう悪魔の顔ではありませんでした。



 それから17年。


 ターンカール領はずいぶんと発展しました。元々有名だった刺繍技術にくわえ、エレオノーラ様が教育に力をいれた功績が大きいそうです。

 エレオノーラ様は今では、民たちに愛される淑女です。いえ、民たちだけではありません。屋敷に仕える者からも敬愛と尊敬のまなざしを向けられています。


 人が変化したときに、「人が生まれ変わったよう」と表現しますが、エレオノーラ様は違います。長い時間をかけて、自分を見つめ直し、少しずつ変わろうと努力されていました。最初はぎこちなかった感謝の言葉が、今では息をするように自然と発し、私たちに感謝を伝えてくれます。



 ゴーシュ様は最期まで相変わらずでしたが。

 サリオン様が生まれてからゴーシュ様は、エレオノーラ様に興味を無くしてしまったそうです。彼女の部屋に入ることはなくなり、代わりに娼館への出入りが増えました。

 子を産んだ女性への扱いに腹立たしいものを覚えますが、エレオノーラ様は「サリオンが守り神になってくれたわ」と嬉しそうに笑っていました。


 穏やかで優しく、美しいエレオノーラ様。どうか貴方が幸せになりますように。


 ゴーシュ様の葬儀が終わり、私は窓の外の空を見て祈りました。


 そして1年後。まさかの展開です。

 エレオノーラ様の横には、ガタイのいいオジサマが立っていました。彼は誰だろう?と首を傾げていると、なんと2人が結婚すると報告されました。叫び声が屋敷に響き渡ります。



「ごめんなさい、前の主人が亡くなってこんなすぐ……」

「いえ、それは全然構わないのですが……」



 ゴーシュ様と仮面夫婦だったのは屋敷の全員が知っています。なんなら領地の民たちも知っています。ゴーシュ様が亡くなって「エレオノーラ様、新しい恋が早くできたらいいね」とメイドのみんなで話していたほどです。


 私はちらりと新しい旦那様を見ました。

 エレオノーラ様より20センチほど高い身長、広い肩幅や厚い胸板、精悍で理知的な顔立ちと、逞しく長い足。威圧感はあるけれど、かなりのイケオジです。正直に申し上げて、ゴーシュ様とは真反対です。


 エレオノーラ様が出会いや経緯などを話し、来月から一緒にこの屋敷に住むことが発表されました。そして話が終わり、クライド様が話し始めます。



「よろしく」



 その穏やかな低い声と、紳士的なたたずまいに、ヴィリアント家のメイドたちは一瞬にして虜になりました。無理もありません。15年以上仕えていたのが、あのゴーシュ様だったのですから。




 クライド様がお屋敷に移り住み、1ヶ月が経ちました。

 屋敷は平和そのものです。エレオノーラ様とクライド様が幸せそうに過ごされていて、メイドたちも話題に出しては、「お似合いの2人だわ」と黄色い声をあげます。


 今日も一緒でした。

 他のメイドたちと昼の休憩をとりながら、お二人の話で盛り上がっていました。すると突然、クライド様がぬっと現れました。慌てて立ち上がり、彼のもとへと駆け寄ります。



「すまない、休憩中に」

「いえ! 何かご用でしょうか」

「その……」



 言いづらそうに指を口元にやったあと、休憩室にいるメイドたちを見回して質問を投げかけます。



「何か問題などなかっただろうか?」

「問題、ですか?」

「急に私が屋敷に来てしまっただろう? 働きづらくなっていないかと心配になって」



「もし要望があれば対処する」と言われ、メイドたちの目からは涙が出ました。

 ぎょっとするクライド様。当たり前の反応です。しかし涙が止まりません。



「ど、どうしたんだ」

「だ、旦那様にそんな風に、優しいおことばを、かけてもらえるなんて……」

「なにも、なにも問題などありません……」



 うぐうぐと泣き続けるメイドたちと、「あ、あぁ」と若干引いているクライド様。

 無理もありません。ゴーシュ様の横暴さにほとほと困らされていたからです。酒瓶を投げつけられ、怒鳴り声を浴びせられ続ける毎日。長年勤めているメイドはみな、エレオノーラ様への忠誠心で残っていたようなものです。「屋敷の主人は身勝手に振る舞うもの」「メイドだから仕方ない」と言い聞かせて、働いていたのです。


 そんな私たちに、気遣う言葉を声かけてくれるなんて。これを泣かずして、いつ泣けばいいのか。


 私はみなの声を代表して、クライド様に向き合います。



「どうか、どうか、一生このお屋敷に住んでいてください!」



 後ろで、うんうんと激しく頷くメイドたち。クライド様は一瞬だけ面食らったものの、微笑みを浮かべて頷いてくれました。




 ある日の休日、ターンカール領の丘でたたずむエレオノーラ様とクライド様をお見かけしました。


 春の風に揺られながら、2人は丘からターンカール領の町並みを眺めています。それは本当に絵になる光景でした。

 ふとクライド様はエレオノーラ様の腰に手をかけ、キスをしました。唇が離れると、エレオノーラ様は恥ずかしそうにうつむきました。するとクライド様が一言、何か呟きます。

 エレオノーラ様は彼を見上げ、その言葉に幸せそうに微笑みました。


 ポピーの花びらが、風に乗って二人の周りを踊ります。まるで祝福の花吹雪のようです。

 柔らかな午後の光は、二人の姿を優しく包み込んでいます。時が止まったかのような、永遠の一瞬がそこにありました。私はその幸せな光景を目に焼き付けます。ポピーが揺れる丘で、白い日傘を差した淑女と、背の高い騎士団長が見つめ合う光景を。


 きっと2人のロマンスは、これからずっと続くのでしょう。








  ***



 穏やかな日だった。雲ひとつない空を見上げながら、ゆったりとした風に目を細める。

 ふわりと名もない花の香りがくすぐった。思わず頬がゆるむ。


 隣の愛しい彼は、私の腰を引き寄せた。



「愛しています、エレオノーラ」

「えぇ、私も」



 私たちは白い日傘に隠れるように、そっとキスを重ねた。橙色のポピーが、風と共に揺れ、咲き誇っていた。


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悪役令嬢はやり直せない 〜おじさま騎士団長と改心した淑女〜 海城あおの @umishiro_aono

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