第19話:あなたに想いが届くまで
「母さん、少し休憩したら?」
夜、仕事部屋にサリオンがやってきた。
トレーには紅茶と焼き菓子が載っている。「そうね」と微笑み、ペンを置いた。大きく伸びをすれば、背中あたりがポキポキと鳴った。
テーブルでティーカップに紅茶を注ぐサリオンの姿を見つめる。
『星降りの祭り』へ行く数日前、息子が突然、短髪になったときは驚いた。物心ついたときから彼は瞳を隠すように、髪を伸ばし続けていたからだ。「切ったら?」と何度か提案したこともあったが、首を縦に振ることはなかった。
理由をそれとなく聞いても話すことはなかった。まさか父親と瞳の色が一緒だったからとは思ってもいなかったと、盗み聞きした日のことを思い出す。
髪を短くした息子は、ずいぶんと大人びて見えた。
サリオンが生まれるまでは、正直怖かった。日が経つにつれて大きくなるお腹を見るたびに、この子を生むべきなのか、堕ろすべきなのか、冷たい孤独の中で悩み続けていた。あのゴーシュとの子どもを愛せる自信が、全くなかったからだ。
息を絶え絶えにして出産が終わったとき、息を吸おうと必死に産声をあげるサリオンの声を聞いた。乳母の慣れた手つきと対照的に、私はあわあわと慌てて腕に抱いた。腕の温もりに安心したのか、指をしゃぶり、薄くやわらかなまぶたを開いた。愛せるか不安だった赤ん坊の指を、私は気づけば握っていた。
世界の汚いものを何も見ていない、まっさらな瞳をみたとき、ちいさな手で握り返されたとき、思わず近くにいた乳母に呟いた。
「赤ん坊って、すごいわ」
「?」
「こんな私にも、愛を示してくれる」
この子を絶対に幸せにしようと決めたあの日から、16年が経った。
サリオンが髪を切ったのは、過去との決別のためだろう。
30を超えた自分でも中々できなかったことを、周りに助けられながら、彼は行動することができた。その成長が、母親として寂しくもあり、嬉しくもあった。
サリオンの向かいに座る。穏やかな気持ちで座ったはずなのに、サリオンの言葉で紅茶を吹き出しそうになる。
「髪を切った理由、母さん盗み聞きしてたよね?」
「えっ!? ……い、いや、してないわよ」
「……嘘が下手すぎない?」
じとりとした目で言われ、観念した。ティーカップをテーブルに置き、うなだれながら「ごめんなさい……」と謝罪する。
「……まぁ僕たちも、母さんとクライド様の会話をよく盗み聞きしてたから、おあいこってことで」
「え?! 盗み聞き? しかも、僕
「ほんっとうに、気づいてなかったの?」
呆れを通り越した声で尋ねられる。
「えぇ、全く……」と答えながら、宿舎の仕事部屋での会話を思い出す。何か息子に聞かれても恥ずかしいことを喋っていないだろうか。
顔が熱くなるのを感じながら逡巡していると、サリオンはぽつりと言った。
「ごめんね、母さん。前髪のこと、ずっと言えなくて」
「私こそ、気づかなくてごめんなさい」
「ろくでもない親父だったけどさ……母さんと結婚したことだけは感謝してる」
「母さんの息子に産まれてよかった」と笑うサリオンに、目を細めて頷く。菓子をつまみながら、口内に広がる甘さを楽しんだ。きっと幸福とはこんな味をしているのだろう。
少しの沈黙の後、「あのさ、」と呼びかけられた。
「母さんも幸せになってね」
彼の言葉に目を見開き、大きく頷いた。
「幸せになる資格がない」と呟く自分は、もういなかった。
*
本格的な夏が来ようとしていた。
草木の青々とした匂いが鼻腔をつき、小さく色鮮やかな花たちが咲いている。
太陽がじりじりと容赦なく照りつけてくる。ツバの広い白い帽子を、私は深くかぶり直した
ミランダとの邂逅が終わり、2週間が経った。
ようやく休みの日が重なった私たちは、王都近くの大橋へやってきた。『星降りの祭り』の記憶をなぞるように、川沿いを歩いて行く。
クライドから思いを告げられた辺りまで歩き、私は立ち止まった。
振り向き、夏の陽射しに照らされ、熱気でゆらめいている大橋を見つめる。
「すみません、こんな暑い日に」
「いえ、夏の散歩もいいものですね」
穏やかな口調でクライドは言う。
同感だった。陽射しは照りつけてくるが、時おり吹く風はさわやかで心地よい。草木や川の水面から浮かぶ匂いは、生命の息吹を感じさせて、体中のエネルギーが満ちるようだった。
持っていた白い日傘を閉じる。
ここまで来る途中に、ミランダと会った日のことを話していた。私の懺悔に彼は時おり相づちを打ちながら、歩幅を合わせて隣を歩いてくれていた。
クライドと向き合う。紺色の瞳をまっすぐに見据えた。
「クライド様」
「はい」
一つ、深呼吸をして私は言う。
「私も、お慕いしております」
「お待たせしてすみません」と少しだけ苦笑する。彼の告白に対する返事だけではない。過去と決別するまで随分と遠回りをしてしまった。
私の言葉に、彼は苦しそうに顔を歪ませた。予想外の反応に困惑すれば、私の前に両手をやんわりとかざし、辛そうに呟いた。
「抱きしめたいのに、汗をかいてしまいました……」
ぱちくりと瞬きをする。そして言葉の意味が分かって、思わず「ふふ」と吹き出した。
確かに首筋から汗が流れ、白いシャツを湿らせている。やっぱり散歩は失敗だったかしらと思いつつ、悔しそうな顔をする彼がかわいくて、何より愛おしかった。
私は日傘を地面に置き、彼の胸元に飛び込んだ。
「……私の匂いも、気にしないでくださいね」
「気にするわけ、ないでしょう」
低い声が焦れたように耳元でささやく。
「私がどれほど貴方を抱きしめたかったか」
耳から熱が帯びて、全身に回っていった。
少し濡れたシャツの向こう側から、早鳴る心臓の音が聞こえた。鍛えられた太い腕で抱きしめられると、自分が包まれているようで胸が高鳴ってしまう。
しばらく抱擁し続けた私たちは、言葉なく少しだけ離れた。
そして見つめ合った瞬間、夏の風が強く吹いた。私の帽子が飛ばされ、クライドは「あっ」と声をあげる。しかし私は太い首に腕を回し、つま先を持ち上げ、顔を近づけた。
水面のとりどりの光はさざなみに揺れ、星のように煌めく。夏の太陽を燦々と浴び、生きる喜びを謳歌する草木たちの匂いが漂う。
夏の風を頬に感じながら、私たちはキスを重ねた。
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