第18話:ミランダとの邂逅


 ミランダ・グレイの家は領地から馬車で20分ほどの街にあった。ずっと目を逸らし続けていた存在が、案外近くにいたことに驚く。


 馬車から降りると、ゆるやかな坂道の両脇にレンガ造りの家が建ち並んでいた。のんびりとした空気が流れる、こぢんまりとした街だ。

 坂道を上りながら、私は心臓がバクバクと激しく動いているのを感じていた。喉が渇き、舌が上顎に張り付く。


 石畳を踏む音を聞きながら、何度引き返そうと思ったか分からない。住民とすれ違うたびに、体が小さく震えた。足が一歩進むたびに、心は一歩後退しているようだ。虚ろな目でただ歩を進める。まるで死者の行進だ。

 過去と決別するためにここまで来たはずなのに、民たちの手紙に勇気をもらったはずなのに、私はみっともなく意志がゆらいでしまっていた。ミランダを訪ねたことで、酷い結末が待っていたら……と、ネガティブな未来ばかりを想像してしまう。


 よどんだ沼の中を進むように歩き、はっと顔を上げた。

 目の前には麦藁色の壁と栗色の屋根を持つレンガ造りの家があった。紙に書かれた住所によると、ここが目的地である。


 門の外から家を眺める。

 子どもがいるのだろうか。ドア近くのレンガには、石灰で書かれた子どもの落書きが描かれている。落書き近くの花壇には色とりどりのパンジーが咲き、ちょうちょがのんびりと飛んでいた。

 穏やかな時間をそのまま閉じこめたような家だ。こんな場所へ自分が踏み入れていいのかと一瞬だけ躊躇する。


 従者にここで待っていてと声をかける。黒い鉄の門を開き、扉の前に立った。

 やけに扉が大きく見える。ごくりと唾を飲み込み、一度深呼吸をした。ドアをノックすれば、少しの間のあと、開かれる。


 17年ぶりに会う彼女の大きな丸い瞳がこちらを見ていた。過去の記憶がいっぺんに蘇り、足下がふらつきそうになる。彼女は驚くほど穏やかにこちらを見つめながら、言った。



「ようこそ」




 *



 部屋に案内され、ソファーに腰掛ける。

 彼女はメイドに紅茶の配膳を依頼した。メイドが部屋から出たのを見計らい、私の方へと向き合った。


 肩あたりまで伸びたくせっ毛の赤茶色の髪。丸くて大きなオリーブグリーンの瞳と、人の良さそうな笑み。頬と額は健康的に日焼けしており、前髪は邪魔にならないようにピンで留めていた。

 17年前とそれほど印象は変わっていないように思えた。学園での彼女を私は正面からまじまじと見たことがないので自信がない。



「……訪問依頼の手紙をいただいたときは、驚きました」

「急にごめんなさい」



 ミランダの顔を見れず、まぶたを伏せながら謝る。

 沈黙が部屋を包んだ。するとノックの音が響き、メイドが入室する。そして陶器のティーポットと、小花とツルが描かれたティーカップをテーブルに置き、紅茶を注いだ。


 アールグレイの香りが鼻腔をくすぐる。



「どうぞ」



 ミランダの勧めに、ティーカップに口づける。家で飲んでいるものより口当たりが軽く、レモンの香りがした。

 その香りで思い出したのは、休憩するときにクライドが入れてくれた水だった。レモンのさわやかな香りと、彼のさりげない気遣いに癒やされた。


 先ほどまで過去の罪に縛られ、唇が動かなくなっていた。いばらの形をした罪の意識が、私の足に絡みついていた。

 それでは駄目だと叱責する。自分は過去と向き合うために、ここに来たのだから。


 ティーカップを置き、膝の上でこぶしを握りしめる。そして目の前の、大きな瞳を見つめながら、口を開いた。



「……17年前のことを、謝罪しにきました」

「……」

「貴方をひどく傷つけてしまって、本当に、ごめんなさい」



 私は頭を下げながら、忸怩たる思いを抱えていた。


 言葉はなんて軽いのだろう。葉っぱのように軽く薄っぺらい。風がふいたら、簡単に飛ばされていってしまいそうだ。

 彼女の傷はこんなものではなかったはずだ。それを、こんな言葉だけで許されようとしている。


 彼女は髪を留めていたピンを外した。前髪が額に落ちる。そっとテーブルの上にピンを置き、口を開いた。



「……この街は木の装飾品が有名で」

「?」

「『星降りの祭り』で見たことがありますか?」



 突然の話題に困惑しながらも、祭りへ行ったときのことを思い出す。

 屋台の中には、星をモチーフにしたアクセサリーが多く売られていた。中には木細工の、繊細なデザインのものもあった。クライドと「すごいですね」と目を見張った記憶がある。

 私が頷くと、ミランダは満足気に笑った。



「職人は集まるのですが、その方たちを支える、販売や仕入れの帳簿をつけられる人が少なくて。別の領地からも働き手を募集していたんですよ……ターンカール領からも来ています」



 ミランダは紅茶を一口含み、テーブルに置いた。



「ターンカール領から来る人たちはみな真面目で、仕事も正確。ほかの領の平民と比べて高い教育を受けていると感じました。彼らに話を聞くと──いつも貴方の名前がありました」



 彼女は穏やかな笑みを浮かべた。



「『エレオノーラ様のおかげ』って、うれしそうに語るんですよ、みんな」



 ネルゲイから渡された手紙の束が記憶から蘇る。まさかターンカール領の民たちと、ミランダが繋がっているとは思わなかった。



「17年前のことは何も気にしていません。貴方からはもう、たくさんのものをもらっていますから」



 目を大きく見開いた。

 望んでいた言葉をもらったはずなのに、喜びよりも戸惑いが先に来てしまう。どうして自分がそのような感情を抱くのか分からなかった。


 ずっと許されたいと思っていたのに。自分は許されてはいけない存在だと言われているような感覚。夢の中で見た白いワンピースの私が、ニタニタと笑いながら踊っている。


 混乱する私の表情を見たのだろう。ミランダは顔を少し歪ませた。まるで苦痛でうめく人を見て、心を痛めるような表情だった。



「……つらかったでしょう。罪を背負いながら生きていくのは」



 ミランダの気遣うような言葉に、あぁそうかと納得した。

 人を思いやり、人に寄り添い、手を差し伸べてくれる。そんなところに、元婚約者のアーサーは惹かれたのだと。


 権力に固執していた私は、なんて馬鹿だったのだろう。


 学園を去った後も、あの出来事は大きな傷となって、彼女を苦しめただろう。しかし彼女は今、聖母のように慈しみをもって微笑み、私の罪を抱きしめ、赦してくれた。


 はじめから敵うわけがなかったのだ。容姿や権力など表面的なものではない。人間の本質の、魂の清らかさみたいなもの。誰にも奪えない、限りなく尊いもの。私より高い視座で、彼女は世界を見つめていたのだ。


 私はテーブルの上に載った金色のピンを見つめながら、頭を下げる。



(私も、)


(貴方みたいに、なれるかしら)



 *



 昼過ぎに訪問したが、帰る頃には夕方になってしまっていた。オレンジ色に染まった街を見つめる。門まで見送ってくれた彼女の方に頭を下げれば、ミランダは穏やかに言った。



「今日は、」

「?」

「お会いできてよかった」

「……私も」



 従者と私の2人分の足音を鳴らしながら、帰路につく。石畳を踏みながら歩き、坂道の途中で振り返る。ミランダはこちらを見て、微笑んで手を振ってくれていた。夕日の光が痛いほど、まぶしかった。

 花壇に揺れた色とりどりのパンジーの姿を思い出す。風に吹かれて気持ちよさそうに揺れていた、あの花たちを。


 恨まれていると思っていた。憎まれていると思っていた。

 躙られることを覚悟で、この家へ赴いた。されても仕方ないくらいのことを自分はしてしまった。


 しかし待っていたのは、赦しだった。

 自分が大切にしていた民たちが、まさかこんな形で返ってくるとは思ってもいなかった。

 目の前にはレンガ造りの家が建ち並んでいる。夕飯時だからだろう、シチューの匂いが鼻をかすめた。この家の一軒一軒に、人が住み、笑い合って、時に泣いて生きている。



『貴方からはもう、たくさんのものをもらっていますから』



 ミランダの声が蘇り、胸に手をあてた。


 きっと人は、周りに少しずつ影響を与えて、遠くの誰かに少しずつ許されながら生きている。ターンカール領の民たちが、私に向かって大きく手を振っている姿が浮かんだ。


 歩を止めて橙色の空を眺める。私の周りにいる大切な人たちの顔が浮かび、最後に思い出したのは、愛しい彼の姿だった。早く彼に会いたかった。どうしようもなく、彼に会いたかった。


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