第17話:エレオノーラの決意
時が止まったような気がした。
言葉の意味が分かり、そしてその言葉が自分に向けられていると理解した瞬間、泣きそうなくらいの幸せが全身に巡っていくのが分かった。細胞の一つ一つが弾けそうなくらい、体が歓喜していた。
返事をしようと口を開こうとしたとき、頭に浮かんだのは、ターンカール領の小高い丘だった。名もない花の匂い、ゆったりとした春の風、ゴーシュの遺体が眠る古びた教会。過去の私は言う。
『私にそんな資格は、ないもの』
「新しい恋でもしてみたら?」というサリオンの言葉に対する返事。
拳を強く握りしめる。そうだ自分は恋をする資格がない。婚約者に色目を使ったと根も葉もない噂をでっちあげて、金と権力を使って令嬢を孤立させた。すべて自身の嫉妬から生まれた、醜い行為。
人の尊厳をひどく傷つけた自分が、恋をし、幸せになること。そんなことは、許されない。
口が鉛のように重くなり、開けなくなってしまう。夏なのに体がひどく寒い。私は何も答えられず、呼吸を繰り返すことしかできなかった。
ふと、クライドは私の手をとった。驚いて見れば、指先にそっと唇を落とされた。
「罪を犯した過去も貴方の一部なら、」
「……」
「私はその過去ごと、貴方をお慕いします」
手のひらにこめる力が強くなった。
「領地の民のために尽力している姿も、
サリオンくんに見せる穏やかな母親としての顔も、
紅茶について語る愛らしい姿も、
……誰かの弱さに寄り添える、優しい貴方に惹かれたんです」
唇をかみしめた。頬に伝う涙が止まらなかった。
悪夢に現れる白いワンピースを着た自分を思い出す。
鈴のおかげか、彼女とはあれ以来遭遇していない。しかし悪夢をまた見るのではないかという恐怖は、未だに私を縛り上げている。鈴のおまじないは、ただの応急処置だと私はとっくに気づいていた。
──このままでいいのだろうか。
過去の罪が鋭いトゲを生やしたいばらとなり、地面から何本も生え、逃がさないように足に巻き付いている。そのいばらを見て見ぬフリをしていても何も変わらない。トゲに傷つき、血が流れ、痛みに耐えるだけでは、前に進めない。罪をまっすぐに見つめ、いばらを切り落とさなければ、彼の隣に立つことは永遠にできないのだ。
私は決意して、ネイビーの瞳をまっすぐに見据えた。
「……お返事、少しだけお待ちいただけますか」
私の言葉に、クライドは力強く頷いた。
*
「ネルゲイ、お願いがあるんだけど」
祭りの翌日、ネルゲイが働く部屋へと赴いた。
彼はメガネの向こうから緊張した面持ちの私を見て、引き出しを探った。そして「こちらですね」と手紙を取り出す。
「ミランダ・グレイ男爵令嬢の居場所でしょう」
「な、なぜそれを」
驚きすぎて声がうわずってしまう。
まだ何も言っていないのに、こちらの要求が見透かされている。しかも私は「ミランダ・グレイの居場所を調べてほしい」と言おうとしたのだ。彼の手元にすでに用意されているとは何事だろう。
「してやったり」といった顔をしているネルゲイが少し気に食わない。私の顔に出ていたのだろう。彼は笑いながら立ち上がる。
「少し休憩しましょう」
お互い向き合いながら座り、メイドが淹れてくれた紅茶を口に含む。テーブルの上にはミランダ・グレイの居場所が書かれた手紙が置かれていた。
「エレオノーラ様がヴィリアント家に嫁いできた日のことを、今でも思い出します」
「……」
「見た目は美しいのに、横暴で、身勝手で……あぁ悪魔が屋敷に2人も住み着いてしまったと思いました」
虚空を見つめるような目で、口だけの笑みを浮かべながら話す。
いたたまれなくなり、思わず椅子に座り直した。
「なので突然、『領主としての知識を授けてほしい』と頭を下げられたときは驚きました。また何か企んでいるのではないかと、最初は正直疑っていました」
「……そう思うのも、仕方ないわ」
「だけど想像以上に勤勉に民のことを考え、働いてくれた。今ではもうエレオノーラ様は、領地の民にとっていなくてはならない存在です」
そう言ってネルゲイは立ち上がり、棚の引き出しから取り出したものを私に差し出した。
それは色褪せた手紙たちだった。手紙に視線を落とす。
「文字を教えてくれたおかげで、新しい仕事に就けました」と短いが、心のこもった感謝が書かれていた。次の手紙を見る。子どもが書いたのだろう。背の高い女性と小さな子どもの絵が描かれていた。女性の近くには拙い字で「エレオノーラ様」と書かれている。次の手紙を見る。親と文字が書けない子どもの合作だろうか。名もない花たちの押し花と、きれいな字で「エレオノーラ様に感謝を」と書かれていた。
領地経営に携わりはじめた頃、領主と民の関係は情などない割り切ったものだと思っていた。あらゆる教育を、あらゆる法律を、あらゆる未来の可能性を、領主は民に与える。すべては領地の発展のために。代わりに民からは税を受け取る。領主と民はそれだけの関係だと思っていた。
今なら分かる。民から受け取ったものは税だけではないと。
手紙に書かれた感謝の言葉が、ゴーシュが亡くなり駆け寄ってくれた孤児院の子どもたちの優しさが、私に答えを教えてくれていた。
手紙を読み続ける私に、ネルゲイは言う。
「貴方が頭を下げたあの日から、今日が来ることを予感していました」
「そんな前から」という言葉は出なかった。グレーがかった黒の瞳が細くなる。
そしてテーブルに載ったミランダ・グレイの居場所を記した手紙をすべらせるように、私の方に寄せた。
「過去とけじめをつけ、貴方が、前を向けることを祈っています」
ネルゲイの言葉に、私は一度だけ頷いた。
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