第16話:感情の正体


 

 朝の教室。あと10分ほどで始業の時間だった。

 わたしは頬杖をつき、窓の外を眺めながらサリオンとのやりとりを思い出していた。



(聞かなきゃ、よかったかな)



 長い前髪から覗く金色の瞳。普段は隠されたその目を、いつの間にか、もっと見たいと思うようになった。


「前髪、切らないの?」と気軽に聞いたのは、世間話の延長線上だった。「切るのが面倒なんだよね」と笑いながら返ってくるものだと思っていた。まさかあんな事情があるとは知らなかった。


 誰に対しても柔らかい態度を崩さないサリオンが、あれほどの憎悪を見せる父親。自分の軽率な質問で、彼を不快な気持ちにさせてしまったかと思うと、心臓あたりがずきりと痛んだ。


 ふと教室がざわりと色めきだった。


 雰囲気が変化した教室を見渡すと、クラスの女子の視線が一点に注がれている。

 その視線を辿った先の人物を見て、大きく目を見開く。


 そこには雰囲気が一変したサリオンがいた。


 肩あたりまで伸びた髪がばっさり切られていた。中性的な印象だったのが、一気に男らしくなっている。そして一番驚いたのは、長い前髪も切られていたことだ。形のいい眉や額はもちろん、エレオノーラ様とよく似た形の、星を閉じこめたような金色の瞳もあらわになっている。


 女子たちのざわめきが広がる。「やばっ」「かっこいい!」と黄色い声と、うっとりとした視線。

 呼吸が浅くなる。苦しい。やめて、そんな風に見ないで。子どもみたいに癇癪を起こしそうになってしまう。

 心の痛みをごまかすように、腕を握りしめる。彼の方が直視できず、うつむいて目を閉じた。そんな自分を、サリオンが不可解な顔で見つめていたことに、わたしは気づかなかった。



 *



 放課後のテラス席。

 目の前にはサリオンが座っているが、わたしはまだ、顔をあげることができない。授業と授業の合間にも、彼は何度か話しかけてこようとしていたが、あからさまに避けてしまった。

 しびれを切らしたのだろう。放課後、さっさと帰ろうとするわたしの腕を掴んだ。「来て」と低い声で言われ、このテラス席まで連れてこられた。


 彼に対する申し訳なさは痛いほど感じていた。しかし今朝のクラスメイトたちの声を思い出すたび、どうしても彼を直視できなくなってしまう。



「アナベル、何か怒ってる?」

「……ううん」

「じゃあ何で、避けるの」



 怒りと困惑を混ぜたような声だった。


 ──言えない



(聞かなきゃよかった、なんて)



 前髪の話なんてしなければよかった。彼を嫌な気持ちにさせたあげく、わたしの望み通りに前髪を切った貴方を見たら、モヤモヤしてしまうなんて。

 あまりにも身勝手で、子供じみてて、とてもじゃないが言えなかった。


 拳をテーブルの上でぎゅっと握りしめていると、手が重なった。

 顔をあげれば、金色の瞳を辛そうにゆがめたサリオンがいた。



「……似合わなかった?」

「そ、そんなことないわ。似合ってる、とても、似合ってるわ」



 何度も繰り返し、最後にぽつりと言った。



「あなたの瞳をいろんな人に見られたのが、嫌だったの」



「私が切ったら?と言ったのに」「ごめんなさい」

 言葉を連ねる。前髪で隠れたままだったら、わたしだけのものだったのに。幼稚な独占欲を持つ自分が恥ずかしかった。


 わたしの言葉にサリオンは一瞬だけ押し黙り、ふっと安心したように息を吐いて、笑った。予想外の反応にわたしは目を三角にし、声を荒げる。



「どうして笑うの!」

「ふふ……ううん、ごめん」



 肘をつき、片手で口元をおさえる。隠しているが、ゆるむ口角は丸見えだ。

 ひとしきり笑ったあと、優しい光をたたえて、サリオンは言った。



「ねぇ、アナベル」

「……なに?」

「もうすぐ『星降りの祭り』の季節だね」

「そう、ね」

「あのさ、」



 言いづらそうに言葉を一瞬詰まらせたあと、金色の瞳を輝かせながら言った。



「僕と一緒に行ってほしいんだ」



 目を見開いた。

 金色の瞳は夕日に照らされて、不思議な光彩を放っていた。その光に見惚れ、言葉を理解したときには、こくりと頷いていた。


 そして先ほどまで体の中をぐるぐると巡っていた──クラスメイトの黄色い声や幼稚な独占欲、薄暗いモヤモヤとしたものがなくなっていることに気づく。まるで曇天の空から、抜けるような青空に変わるように。



(わたしって、すごく単純だわ)



 貴方の一挙一動で、胸が締め付けられるように切なくなったり、世界で一番幸せなのは自分だと喜んでしまったりする。この感情の正体は──。導き出された答えに、わたしは顔を真っ赤にさせることしかできなかった。






<星降りの祭り 当日>




「また『星降りの祭り』へ行きませんか?」とクライドに誘われたときは驚いた。もう一年も経つのかと時の早さを実感してしまう。


「ぜひ」と快諾して、紅茶専門店の前で待ち合わせをすることにした。

 太陽が容赦なく照りつけているが、人混みの中では日傘は差せないため持ってこなかった。薄手の長袖ワンピースと、ツバの広い帽子をかぶり、待ち合わせ場所へ向かう。


 すでに到着場所で待っていた彼の姿を見て、駆け寄る。「お待たせしてすみません」と謝れば、「いま来たところですから」とほがらかに言った。

 馬車からここまで付いてきてくれた従者が、頭を下げて踵を返す。治安がいい王都でもさすがに貴族の女性が一人歩き回るのはリスクが高いため、ここまで付いてきてもらったのだ。



「今日は定休日みたいですね」



 クライドの目線の先には、紅茶専門店の扉と『定休日』を知らせる看板があった。



「店主が紅茶の買い付けに行っているそうですよ」

「……詳しいですね?」

「あっ」



 私の反応に、彼は声を出して笑った。

 去年、この店の雰囲気や茶葉のおいしさにすっかり虜になってしまった私。何度か一人で足を運んでいたのだ。今では店主とも顔なじみになり、世間話をする仲である。



「とりあえず大通りの方へ行きましょうか」



 クライドに促され、よく整備された路地を歩いて行く。薄暗かった路地を抜けると、目の前に景色が広がった。まぶしくて一瞬だけ目を細める。



「一年ぶりですね」



 クライドの言葉に笑って頷く。


 一年前と変わらず賑わいを見せる王都。

 肉や香辛料、新鮮なくだもの、様々な食料の発する匂い。星をモチーフにしたガーランドの下に、たくさんの人がひしめき合い、祭りを楽しんでいた。


 人々の熱気がこちらにまで伝わってきて、心が躍る。

 そういえば去年は、と記憶を探っていると、視線を感じて見上げる。ネイビーの瞳が何か言いたげである。首をかしげれば、去年の記憶がはっきりと蘇った。



(クライド様にエスコートしてもらった……)



 私の考えを見透かすように、「もしよろしければ」と腕を寄せられる。



「あ、ありがとうございます」



 赤くなる顔を隠すように伏せ、腕に手を回す。

 シャツの上からでも分かる太く、張り詰めた筋肉。去年この腕に手を回したときは、ただ驚いただけだった。


 しかし今は、余計な想像が巡ってしまう。

 この太い腕で背中に手を回されたら。服の上からではなく、直接なぞることができたら──


 すべての血液が顔中にのぼっていくようだった。想像を霧散させるように頭を振る私に、クライドは首をかしげた。


 歩き出してすぐ、屋台のフルーツが目に入って思わず足を止める。

 すると50代くらいの女店主が声を張り上げた。


「新鮮なオレンジを使ったジュースだ! どうだい?」

「おいしそうだ。どうされますか?」

「私も飲みたいです」

「では、2つ」


 クライドが小銭を渡せば、女店主は「まいど!」と元気よく言った。オレンジを器で絞り、布で濾していく。小瓶の中にオレンジの果汁が入っていき、柑橘系のさわやかな匂いが鼻腔をくすぐった。



「ほい!」

「ありがとうございます」



 受け取って口にすれば、みずみずしい甘みが広がる。

 思わず感嘆の声をあげれば、クライドも嬉しそうに同意した。


 興味があるもの、目についたもの、お互いに指をさし、屋台を回っていく。


 スパイスの香りが漂うソーセージ。

 チョコレートが練られた焼きたてのパン。

 星の細工が施された銅のネックレス。


 食べ物を分け合っては感想を言い合う。他愛のない話をしながら、人混みを縫うように歩いて行く。時々、肩をそっと抱かれるたび、ドキドキと心臓が大きく跳ねた。見上げて感謝を伝えるたび、深い紺色の瞳と交錯する。太陽の下で見る彼の瞳は一年前と同じ、夏の海の色だった。


 長い大通りを抜け、運良く空いたベンチに座る。


 クライドは「休んでいてください」と言って、飲み物を買いにいってくれていた。

 後ろで流れる噴水の音を聞き、ベンチの背もたれに寄りかかる。空を見上げれば祭りを楽しむ人々を祝福するように、燦々と太陽が照らしていた。


 そのあとも私たちは屋台を物色し、祭りを楽しんだ。ずっと続けばいいと思った時間は、あっという間に過ぎてしまった。

 夕暮れがすべての光をあいまいにし、遠くの人影と空の境界をぼやけさせていく。

「そろそろ行きましょうか」という彼の言葉を皮切りに、私たちは大橋へ向かった。


 大橋に到着すると、去年と全く同じ光景が広がっていた。橋の上にたくさんの人がひしめきあっている。私たちは無言で見つめ合い、同時に吹き出した。



「川沿いを散歩しましょうか」

「賛成です」



 頷いて、ランタンとろうそくを購入した。

 人々の喧噪から少し離れた場所でしゃがみこむ。日中の熱が嘘かと思うくらい、気温が下がりかけていた。

 ちらりとクライドを見て、マッチで火をつける。


『国の平和と、大切な方たちへの幸せを』


 去年の彼の願いがゆらめいていた。きっと彼は、今年も同じ願いを抱きながら火をつけたのだろう。


「大切な方たち」の中に、私はいるのだろうか。


 答えを知るのが怖くて、臆病な私は静かに燃え続けるろうそくを見つめることしかできない。ぼんやりと発光するランタンを持ちながら、川沿いを歩いて行く。そして去年と同じように、喧噪が遠ざかったところで振り向き、大橋を渡る人々を見つめた。


 川には星のようにランタンの灯りが浮かんでいた。

 あの灯り一つ一つに、誰かの願いが込められている。


 不意に夏を感じさせる風が吹いた。青々しい草原の香りがただよった。


 ふと、視線を感じて、私はクライドの方を見た。

 彼は大橋の人々を見ていなかった。あの深海のような紺色の瞳で、私をまっすぐに見据えていた。ゆっくりと口を開く。



「エレオノーラ様」

「は、い」



 彼は唇に微笑みを象った。



「あなたを、お慕いしております」


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