第15話:クライドの葛藤



「い、いつから」

「7ヶ月ほど、前でしょうか」



 顔面蒼白になる。自分の醜い過去をそんな前から知っていたのか。先ほどまで浮かんでいた宝物のような思い出たちが、ヒビ割れていく。

 ゴーシュに嫁いですぐ、使用人部屋の鏡で見た自身の顔がフラッシュバックする。額には青筋が浮き、眉根には皺が寄っている。白目が剥きでて、鼻の穴は膨らんでいた。奥歯を強く噛み締めたせいで、口元がひん曲がっている。顔全体が怒りで歪んでいた。焼きゴテで刻まれたかのような、醜く歪んだ顔。


 ──見ないで


 強烈で本能的な願いだった。吐き気が襲ってくる。クライドに、こんな汚い自分を見てほしくなかった。

 体全体が絞り上げられるようにきりきりと痛んだ。筋肉が裂け、骨が悲鳴をあげているようだ。見ないで、見ないで。私の叫びが体を激しく駆け巡り、血の気が引いていく。


 私の顔色を見て、彼は慌てたように謝罪した。



「黙っていて申し訳ありません……。パーティへ行った日の後、第一騎士団の知人が来て……」



 クライドはことの顛末を話す。


 パーティ会場でクライドの知人が私の顔を見て、どこかで見覚えがあると思ったらしい。そして「エレオノーラ」という名前を聞いた瞬間、17年前に学園で問題を起こした令嬢だと気づいた。

 そして後日、第二騎士団の宿舎までやってきた知人は、「貴族の派閥争いに巻き込まれた令嬢だ」と切り出し、クライドに一部始終を話した。

 それを聞いた私は、絞り出すように声を出す。



「巻き込まれたわけでは、ありません。すべて私が招いた結果です」

「……過去を聞いたとき、エレオノーラ様とどう付き合っていくか、正直悩みました」



 クライドの告白に、目を強くつむる。全ての音が消えてしまえばいいのにと祈るように。自分勝手な願いだと分かっている。それでも彼の口から、自分を拒否する言葉をどうしても聞きたくなかった。



「仕事を理由に、会うことを拒否することもできました。だけど……」



 そこで言葉を切って、「エレオノーラ様」と名を呼ばれた。

 祈るような気持ちで、まぶたをゆっくりと持ち上げ、彼と目線を合わせた。

 逆光で彼の表情は見えづらい。



「あなたは過去に、誰かを傷つけたのかもしれません」

「……」

「だけど私は、貴方に何度も救われています」



 雲が流れたのだろう。太陽が隠れた。



「……どんなことがあっても、私は、エレオノーラ様の味方ですよ」



 彼の穏やかで困ったような笑みが見えた。予想外の表情に目を見開く。また太陽が出てきて、痛いほどの光が差し込んだ。


 私の右目から、ぽろりと涙がこぼれた。

「あぁ」と慌てたようにクライドは言い、胸ポケットをさぐったが、目的のものは見つからなかったらしい。服の袖で「すみません」と言いながら、私の目元を押さえた。



「ハンカチを忘れてしまいました……」

「す みません」



 宿舎の裏手で、私のすすり泣く音だけが、静かに響いていた。






<約7ヶ月前 クライドの執務室>




『来週、話がある』



 要件と名前だけが書かれた手紙が届いたのは、パーティの数日後だった。

 相手は第一騎士団の知人で、会えば世間話をするくらいの仲である。悪い奴ではないが、噂好きで口が軽いのが玉に瑕だった。


 そんな奴が急に話?と首を傾げる。しかし短い文面に胸騒ぎを覚え、了解の旨と日時と場所を指定して手紙を送り返した。


 長居されると迷惑なので、宿舎へ来てもらうことにした。知人は挨拶もそこそこに、早く案内しろと急かしてくる。ため息を隠しながら開いている会議室を案内すれば、早足で椅子に座った。どうしても早く喋りたいらしい。


 自分が座るやいなや、知人は口を開いた。



「こないだのパーティで連れていた女、『エレオノーラ』って名前だよな?」

「……そうだが」



 彼の口調に彼女を軽々しく扱うようなニュアンスを感じ、思わず眉をひそめる。

「やっぱり」と言い、知人は声を潜めた。



「17年前、貴族の派閥争いに巻き込まれた令嬢じゃねえか」

「派閥争い?」

「まぁ巻き込まれたっていっても、自業自得なんだが」



 話の全体像が見えなくてイライラする。

 目つきが鋭くなるのを自覚しながら、「何の話だ?」とだけ聞いた。


 知人は一部始終を話し始めた。声色は深刻めいていたが、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。自分の知っている情報を話せるのが喜ばしいとでも言うように。


 エレオノーラが元々公爵令嬢だったこと

 学園で男爵令嬢を陥れ、退学するまで追い詰めたこと

 元王子に婚約破棄されたこと

 貴族の派閥争いに利用され、公爵家の家紋に傷がついたこと

 罰として男爵家に嫁がされたこと



「……有名な話なのか?」

「どうだろうなぁ。もう15年以上も前の話だし、覚えている奴は少ないんじゃないか? ただ当時の革新派には、結構痛いダメージになったって聞いてるぜ。特に王子の婚約破棄の件がな」



 知人はぼやく。そして自分の顔色を見て、慌てたように言った。



「おい、大丈夫か?」

「……あぁ」

「もしあの女といい感じになってるならやめとけ。改心したとしても、根っこの部分は変わんねえよ」



 うるさいと怒鳴りたくなってしまう衝動を抑える。

 自分の反応が予想外だったのだろう。もしかしたらエレオノーラの噂話で盛り上がるかも、くらいの気持ちで来たのかもしれない。

 今にも倒れそうになっている自分に、男は気まずそうな顔をしながら、そそくさと帰って行った。


 1人になった会議室で、深く息を吐く。片手で目元あたりをこすった。


 祭りで一緒に回ったエレオノーラの姿を思い出す。

 屋台を見てははしゃぎ、かわいらしく祭りを楽しんでいた。


 パーティ会場で見たエレオノーラの姿を思い出す。

 美しく、凜として、重厚なオーラをまとっていた。


 宿舎で一緒に仕事をするエレオノーラの姿を思い出す。

 優しく聡明な彼女は、民のことを一番に考えていた。


 ──すべて、嘘だったのだろうか。


 そんなわけがない。きっと改心したのだと言い聞かせても、知人の噂話が蘇る。

 男爵令嬢を蔑み、鋭い目つきで見下すエレオノーラを想像し、泥を飲み込んだような気持ちになる。



「私は、どうすれば……」



 絞り出した声は、会議室の中でむなしく響き、そして消えた。


 知人の話を聞いてから、彼女が来なくなったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。せわしなく手を動かしながら、頭の片隅でずっと彼女のことを考えていた。


 次にエレオノーラと会ったらどんな顔をすればいいのだろうか。彼女と顔を合わすのがひどく怖い。仕事を理由に断れば、思慮深い彼女は来なくなるだろう。直接言わなくたっていい。手紙で伝えれば、この先ずっと顔を合わせないことだって可能だ。


 だけど自分は書けずにいた。灰色の重たい扉を見つめる。あの扉が開いて、「クライド様」と嬉しそうに微笑む彼女を想像する。見慣れたその扉が、やけに冷え冷えと見えた。


 エレオノーラとサリオンが来なくなって半月以上が経とうとしていた。たまにアナベルがやってきて、言いたげな視線を時折寄越した。自分は素知らぬフリをして、手を動かし続けた。何かを感じ取ったのだろう、アナベルは意味深な視線を送りながらも、エレオノーラの話をすることは一切なかった。


 知人の話を聞いた当初は、学園でのエレオノーラについてよく想像をしていた。下位貴族を見下して陥れる彼女を想像しては、もう会わない方がいいかもしれないと便箋を手に取った。

 しかし考えれば考えるほど、彼女と会ったときの思い出たちが、想像の大部分を占めてくるようになった。星降りの祭りでランタンを大切そうに抱えていたこと。サリオンとアナベルに対して慈愛に満ちた目を向けていたこと。ジュリエッタに暴言を吐かれても凜として見据えていたこと。

 私の心の痛みに気づいては、「味方ですよ」と微笑んでくれたこと。



『改心したとしても、根っこの部分は変わんねえよ』



 エレオノーラの話をしてきた知人の言葉が浮かぶ。


 ──本当にそうなのだろうか


 学園で罪を犯した彼女は、罰として男爵家に嫁がされたと聞いた。『頭も顔も悪くて、親の脛をかじることくらいしか脳にない男』と相手の男爵家について、知人はそう言っていた。そんな男のもとで、15年以上、彼女は生きていたのだ。長い長い日々を、長い夜を生き抜いていて、試練にじっと耐えていたのだ。


「どんなことがあっても、私は、クライド様の味方です」


 馬車の中で、私の手に添えながら、微笑む彼女を思い出す。


 もし知人の言うとおり、彼女が17年前と根っこの部分が変わっていなかったら、あの言葉は空しく響いただろう。ただ空気を震わす音となって、通り過ぎるだけだっただろう。


 だけどそうではなかった。彼女の言葉は、私の痛みに寄り添い、抱きしめてくれた。

 きっと長い間もがき苦しんできた彼女だからこそ、共鳴し、苦しみを分かち合ってくれた。


 ひと月前までは「会うのが怖い」と考えていた。しかし今、気持ちが明らかに変化していた。


 ──会いたかった。彼女にどうしても会いたかった。



 課題をすることに飽きたのか、部屋を物色しているアナベルに、私は言う。



「……エレオノーラ様、何かあったのだろうか」


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