第13話:サリオンの嘘
「エレオノーラ様、どうぞ」
「ありがとう」
テーブルの上に紅茶を用意してくれたメイドに礼を言う。
彼女が部屋を出たのを見て、チェストの引き出しにしまった箱を取り出した。蓋を開けばデイジーをモチーフにした砂糖菓子が並んでいる。細部まで職人技が光っており、食べてしまうのがもったいないほどだった。
左上の砂糖菓子をつまみ、サイドテーブルに載った紅茶に落とす。
沈んでいく白いデイジー。ゆっくりと小さくなっていく様子を見ながら、昼間の出来事を思い出していた。
(まさかクライド様が来てくれるなんて)
思いがけない来客に驚いてしまった。
着古した綿のネグリジェ姿で迎えてしまい、さらに不健康でやつれた姿を見られてしまった。恥ずかしい気持ちもあったが、彼と会えた喜びの方が勝った。
彼と話していると、あたたかい気持ちになる。春の陽射しを浴びながら、お気に入りの具材を挟んだパンを頬張り、抜けるような青空を見上げたときのような──何でもないけれど、かけがえのない幸福のようなもの。
『……私が隣にいれば』
ふっと彼の言葉が浮かび、両手で思わず顔を包んだ。ほてった頬に手の冷たさが気持ちよい。
どんな意味で言ってくれたのだろうか。
考えがぐるぐると巡り、頭が沸騰しそうだった。
(もし今、クライド様が隣にいたら──)
ちらりと横を見る。空っぽの空間に彼が寝転び、微笑んでくれている。いつもは隠されている首筋から胸板までが少しはだけ、彼をまとう雰囲気がゆるむ。あのたくましい腕を広げて、「どうぞ」と悪戯めいた笑みを浮かべて誘ってくれたら──
想像してしまい、かぶりを振った。恥ずかしさでどうにかなりそうだった。こんな風にベッドの上で異性を思案した経験がなく、なんだかとても恥ずかしいことをしているような気持ちになる。
気を取り直し、テーブルに載せた紅茶を見つめた。
砂糖菓子はすっかり小さくなってしまっていた。ティースプーンで混ぜると、完全になくなってしまい、少しだけさびしさがよぎる。アールグレイを口に含めば、ほのかな甘みが口に広がり、安らかな気持ちになる。私を思って買ってくれたクライドの心遣いが、何よりも嬉しかった。
時間をかけて紅茶を飲み干す。カップを置き、チェストの上に置いた新品の鈴を手に取った。
この鈴に真剣に祈ってくれたクライドの姿を思い出しながら、手のひらでぎゅっと握りしめる。彼のぬくもりはもうないはずなのに、どこか温かさを感じた。
*
私は暗闇の中に立っていた。いつもと同じ、悪夢のはじまり。
駄目だったかと落胆する。せっかくクライドが見舞いまで来てくれたのに。
目の前に、ふわりと白いワンピースの自分が現れる。
今日はどの過去を見せてくるのだろう。身構えていると、彼女はいつものようにくすくすと笑った。あの笑い声を聞き過ぎて、昼間にも幻聴がするようになった。耳にこびりついてしまったかのようだ。
『学園の過去がいい? それともゴーシュに嫁いだ時のこと?』
「……何も見たくないわ」
絞り出すように言えば、彼女の笑みが深くなった。
『自分勝手ね』『あなたが犯した罪でしょう』と楽しそうに言葉を紡ぐ。ひゅっと息が詰まる。周りだけ酸素がなくなったかのようだ。
『じゃあ今日はゴーシュに抱かれた時のことを見せてあげるわ』
死刑宣告のようだった。それだけは嫌だ。見せないでくれ。懇願したいのに声が出ない。ひゅーひゅーと息だけが口からこぼれでる。惨めな姿を見て、夢の自分は愉快そうに笑った。
両手を伸ばしてきた。あの手に触れられると、強制的に過去に連れて行かれることを自分は知っている。手から逃れるように、後ろへ下がれば、体勢を崩して尻餅をついた。じりじりと追い詰めてくる。
指先が迫ってくる。もう駄目だと覚悟を決めたとき、一陣の風が吹いた。
目を見張れば、広い背中が見えた。精悍な横顔と、白髪混じりのキャラメルブラウンの髪、手に持った剣の刀身がきらりと光った。
はっはっと荒く息を吐く自分の目の前で、夢の自分が蜃気楼のようにゆらりと消えていく。
彼はマントをひるがえした。
そしてこちらに手を差しだし、口に弧を描く。深海のようなネイビーの瞳に、泣きそうな自分が映っている。大きな手に重ねれば、チリリと鈍い鈴の音が鼓膜に届いた。
「あなたがもう、悪い夢を見ませんように」
やわらかな声が聞こえた。
先ほどまでの恐怖が溶けていく。さまざまな感情がぐちゃぐちゃに絡み合い、私は目の前の騎士をただ見つめることしかできなかった。
<第10回 エクレア同盟会議>
「だいぶいい感じだと思わない?!」
「思う!」
僕は大きく頷いて、即答した。
本格的な冬がはじまろうとしていた。
一年中バラが楽しめるのが魅力のバラ園だが、さすがにこの時期は数が少なくなってしまっている。今は光沢のある白いバラが数えるほどしか咲いていない。見頃の時期と比べると殺風景で寂しい印象だった。
僕たちは寒くなっても『エクレア同盟』の本拠地をテラスから移動することはなかった。マフラーやコート、手袋など完全防備して話し合いを続けている。
着込みすぎて雪だるまみたいになっているアナベルは黄色い声をあげた。
「2ヶ月ぶりにエレオノーラ様にお会いできた時のオジさまの顔ったら! 嬉しそうにしちゃって!」
母の容体が悪くなってから1ヶ月は、生きた心地がしなかった。
日に日にやつれていく頬や濃くなっていくクマ。医者に診せても首を横に振られ、自分がどんな言葉をかけても、容体がよくなることはなかった。やっとあのクソ親父が死んで自由になれたのにと悔しい思いで見つめることしかできなかった。
しかしクライドが見舞いに来たときから、目に見えて回復した。
ほっと安心したのも束の間、溜まった仕事が大量にあり、すぐに宿舎へ行くことができなかった。母も自分もネルゲイも、目が回るような忙しさの中で、必死に仕事を終わらせた。
そして先日、やっと仕事の目処がつき、宿舎へ行くことができたのだ。
2ヶ月ぶりに会った2人は、明らかに前とは雰囲気が違っていた。
自分たちの前で素直に喜んだりはしなかったが、自然とゆるむ頬や相手に向けるまなざしが、互いに好意的に思い合っているのを物語っていた。
さらに宿舎へ行く前に母が、着ていくワンピースで悩んでいたのも知っている。服など着れればいいと言いきり、品はあるがシンプルな装いしか着なかった母がである。
興奮していたアナベルは落ち着かせるように深呼吸をした。
「それにしてもエレオノーラ様、容体が回復してよかったわ」
「心配かけてごめん。医者にも診てもらったんだけどさ」
「オジさまも元気がなくなっていくし、見てて辛かったわ」
「なのに中々お見舞いにいこうとしないし!」と愚痴るアナベルに、ことの顛末を聞かされる。クライドとアナベルが急に見舞いへ来たことに驚いたが、彼女の案だったのかと納得する。
アナベルは急に言いづらそうに声を低めた。
「前もエレオノーラ様、悪夢で悩まれていたのよね?」
「……うん」
「その、何があったのかしら」
「気を悪くしたらごめんなさい」と付け加える。彼女が好奇心ではなく、母を本気で案じているのが伝わってきたので、嫌な気持ちにはならなかった。
僕は体をふるりと震わせた。
寒さのせいではなかった。彼女と同盟を組んだ時から、ずっと隠していることがあった。
話さなくてはと、このテラスに来るたびに言い聞かせていた。しかしアナベルの天真爛漫な笑い声を聞くたびに、もう少しだけこの時間が続いてほしいと卑しく願ってしまった。
次の機会に話そうと先延ばして、先延ばして──今日まで来てしまった。
僕は拳を握りしめ、ぽつりと切り出す。
「あくまで自分が調べた限りの情報だけど、」
「うん」
「……母さんって、元々公爵家の人間でさ」
「へっ?! 公爵家?!」
目を白黒させながら叫ぶ。
彼女がそう叫ぶのも無理はない。国内でも4つしかない名誉ある貴族。現在の学園内では1人も存在していない。
そんな高貴な方がなぜ男爵家に?と首をひねる彼女に、口を開く。
「罰として、親父の家に嫁がされたんだ」
「……罰?」
「噂でしか知らないけれど、男爵家の令嬢をいじめたらしい」
「あの、エレオノーラ様が?」
「うん」
腑に落ちない顔をしているが、詳しくは後で聞こうと思ったのだろう。次の疑問を口にした。
「公爵家の方の罰で廃嫡は重すぎるわ。こんなこと言いたくはないけど、相手は男爵家だったのでしょう……?」
ためらうような口調だった。
子爵家のグループが、男爵家の自分の陰口を叩いたところで誰も止めることはない。カーストが下なら見下されても仕方ないという暗黙の了解が、この国にはある。
「ちょうど貴族同士の派閥争いが激しくなってたんだ。母さんの家が邪魔だと思っていた貴族が、ちょうど学園での噂を耳にして──利用したんだ。
噂に尾ひれがつき、社交界でささやかれ、家紋に傷がついた。さらにアーサー元王子が母さんと婚約破棄されたのも決定打になった」
「!」
アナベルは目を大きく見開く。
母の元婚約者だったというアーサー元王子。母と婚約破棄したあと、学園を卒業し、正式に王子に任命された。しかし心の病で倒れ、今は弟にその座を受け渡した。心の病を抱えたのは、激化する貴族同士の派閥争いが原因だと噂されている。「人の上に立つには、人の心に寄り添いすぎる」というのが大半の貴族たちが抱く、アーサー元王子の印象だ。
「親父に嫁がされた母さんは自分の罪を悔やんで、改心して、それから10年以上、領地の民のためにと尽力した。だけどまだ、学園での後悔が悪夢になって現れているんだと思う」
重い沈黙が2人を包んだ。
罪悪感で呼吸が浅くなる。僕のところだけ真空で音がない。
やっとの思いで、「ごめん」とだけ呟く。
「最初にこのことを話すべきだった」
「隠してて、ごめん……」頭を下げる。
母親に幸せになってほしいから、彼女の過去を隠した。話してしまえば、アナベルが慕っている叔父には会わせてもらえないだろうと分かっていた。そのあとだって話す機会は何度でもあった。だけどこの楽しいひとときに終止符を打ちたくなくて、僕は隠し続けた。
母親の姿が浮かんだ。民たちの言葉に、頷きながら耳を傾けていた。怒鳴る親父の前に立ちはだかり、自分を守ろうとしてくれた。「だいすきよ」と頭を何度も撫でては愛情を教えてくれた。
次に浮かんだのは、焼き串をおいしそうに頬張ったり、叔父のために心を砕いて怒ったり、僕の顔を見て笑ってくれるアナベルの姿だった。ずっ、と鼻をすする。幸せな光景が、ちぎれては散っていくようだ。
どのくらいの時間が経ったのだろう。アナベルの独り言のような声が聞こえた。
「……オジさまのね、」
「……?」
「あんな幸せそうな顔を、初めて見たの。私なんて10年以上も傍にいたのに」
顔をあげれば、無理して笑顔をつくっているアナベルがいた。彼女にそんな表情をさせてしまったのが申し訳なくて、再び罪悪感が刺す。
「その過去を聞いても、私はどうしてもエレオノーラ様を嫌いになれないの……きっと、オジさまも」
「だから、怒らないでおくわ」と言った瞬間、僕の瞳から涙が落ちた。
「ごめん」と嗚咽混じりで呟く。ずるい奴でごめん、隠していてごめん。僕を嫌わないでいてくれて。続きの言葉は、涙で濡れて出なかった。
バラ園に自分が懺悔する声が響く。アナベルは立ち上がり、僕の傍でしゃがんだ。「そんなに泣かないでよ」と寒さで鼻の頭を真っ赤にさせながら、彼女は笑った。
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