第2話 黒竜と赤子
十四年と八カ月前。黒竜ニーグラム・ドラコニスは自らが治める領域、人間が「黒竜の森」と呼ぶ森の上空を巡回していた。
黒竜の森は、ここルドシア大陸のほぼ中央に位置する広大な森林地帯である。中心に黒尖峰と呼ばれる急峻な山、その南には一帯の水源である巨大なシドル湖。その周囲は樹齢千年を超える巨樹が立ち並ぶ森だ。正確に測量された訳ではないが、南北約八百ケーメル(キロメートル)、東西約九百ケーメルと小国程度の面積に及んでいる。
人々は知らぬことであるが、黒尖峰はこの世界に数か所存在する
高濃度の魔力が充満する黒尖峰周辺は特定の生物や順応した動植物のみが生息する。具体的には、人間にとっては遭遇自体が悪夢となる強大な魔獣や、常識を超えて成長した植物、魔力の影響を極小に留める進化を果たした動物などである。
あまりにも魔力濃度が高いため、人間だと数日で命を落とすと言われている。それが黒竜の森中心部である。
その中心部から北へ約三百ケーメルの地点で、黒竜は異変を感じた。
黒竜の森は中心へ近付く程強大な魔獣が生息する。魔獣の生息域は同心円を描き、森の外側へ行く程魔獣の脅威度は低下する。とは言え、同心円の辺縁であっても森の外に生息する魔獣とは段違いの脅威。黒竜の森で生きながらえた魔獣は、高濃度の魔力に晒された上に生存競争に打ち勝っているから、森の外と同種の魔獣でも強さが三段階程上がっているのだ。
つまり、こんな危険な場所に足を踏み入れる物好きな人間は殆ど居ないし、居たとしても森の奥へ十ケーメルも進む前に魔獣の餌食となるのが常だ。
それなのに、森の端から百ケーメルの奥地に人間の気配がする。たった一つしかないその気配は、人間にしては魔力がかなり大きいが、生命力が非常に小さい。
迷い子か。黒竜にとって人間一人がどうなろうと知ったことではない。その辺の魔獣に喰われるのも時間の問題、弱肉強食は自然の摂理である。
だから最初は通り過ぎようとした。だが何故か気になった。いつもなら数秒後には記憶の彼方へと消え去る筈が、その人間のことが気になって仕方がない。その不思議な感覚に首を傾げながら、黒竜は森に着地した。
(なんと。赤子であったか)
籐籠の中に、柔らかく上質な布で包まれた赤子がいた。黒竜が、人間なら一飲みにする巨大な咢を近付けて籐籠を覗き込むと、赤子は「きゃっきゃ!」と可愛らしい笑顔で手をバタバタと振った。
(何と愛想のよい赤子。……ふむ、結界で守られておるな)
状況から考えるに、何者かが魔術を使ってこの場所に赤子を転移し、結界を張って守ろうとしているようだ。それなら、その何者かに任せるのが常道であろう。
などと考えながら、黒竜は前足の爪で結界をちょんちょんと突いた。生半可な結界では、この辺りの魔獣に破られてしまう。だから強度を確かめるつもりだったのだ。
果たして、結界は卵の殻の如く簡単に割れてしまった。
(何と脆弱な結界……いや、こうなると赤子を捨て置けんな)
実のところ結界は非常に強固だった。この辺りの魔獣では破れないくらいには。
黒竜がちょっと意地になって力を込めただけである。そして、既にこの赤子を保護する気満々であった。結界が脆弱だったから保護してやったのだ、と転移を使った何者かへの言い訳にする気であった。
出会ったばかりの黒竜が、何故これ程までにこの赤子に庇護欲をそそられるのか。それは黒竜自身にも分からなかった。
蜂蜜色の髪と明るい緑色の瞳はとても可愛らしいが、黒竜は人間の美醜を判断する基準を持たない。
人間から恐れられる自分に向けて、ふくふくとした手を振って笑顔を振りまく様子が気に入ったのだろうか。何とも弱々しく儚げで、それでいて希望に満ちている。見ていると胸の内に温かいものが広がる気がする。
それは八千年生きる黒竜にとって初めての感覚であった。この赤子を守らなければと自然に思えた。
一方の赤子は、黒竜が放つキラキラした魔力が面白くて上機嫌であった。生まれつき魔力を目視出来るという特異な力を持っていたのである。黒竜から自分に降り注ぐキラキラを掴もうと、赤子は手を一生懸命に伸ばした。それが、黒竜にとっては自分に庇護を求めるかのように見えたのだった。
黒竜は、その鋼鉄さえ易々と切り裂く鉤爪で、赤子の入った籐籠を掴もうとして……止めた。力加減を少しでも間違えば、次の瞬間に赤子は血煙となって命を散らしてしまう。
(むぅ、仕方ない。久しぶりだが、人間の姿になるか)
黒竜は純然たる高密度の魔力そのものである。その体表は結晶化した魔力で、戦闘に有利だからこの姿を取っているに過ぎない。八千年も生きた黒竜にとって、人間の姿になることなど造作もないことだ。
人間は弱いが、手先の器用さは認めざるを得ない。今はその器用さが求められる。
『
黒竜の喉が、人間には聞き分けられない聲を発した。巨躯が一瞬眩い光に包まれ、直後に人間の男が現れた。
艶やかな黒髪、程よく日に焼けた肌、引き締まった筋肉質の体。精悍な顔付きの中で、金色の瞳が異彩を放っている。人間が彼を見たら、三十代半ばくらいだと思うだろう。
「あー、あー。ふむ。声を出すのも問題ないな」
彼――黒竜ニーグラム・ドラコニスは、地面からそっと籐籠を抱き上げた。赤子は姿を変えたニーグラムを真ん丸になった目で見つめている。その明るい緑色の瞳には、驚きと好奇心がありありと浮かんでいた。
ニーグラムは赤子の柔らかい頬をそっと指で撫でた。すると、赤子がその指をぎゅっと掴む。予想以上の力強さに、ニーグラムは舌を巻いた。こんなに小さいのに、この子は俺を驚かせるのか。
ニーグラムは籐籠から赤子を抱き上げる。
「ふむ……付いてない、ということは
「ぁぅあー!」
ニーグラムによってプルクラと名付けられた女の赤子は、彼に問いに元気よく返事した。
「そうかそうか、気に入ったか! さて……お前を育てる場所を探さねばな」
柔らかい布に包まれたプルクラを、まるで宝物のように優しく抱きながら歩き出すニーグラム。一糸纏わぬ全裸の男性が赤子を抱いて森を歩くのは異様な光景である。八千年も生きた黒竜にとって人間の姿になることなど造作もないが、人間は服を着る生き物だということはうっかり忘れていたのだった。
*****
クレイリア王国筆頭魔術師、レンダル・グリーガンは焦慮していた。
今日、クレイリア王国王都レミアシアはツベンデル帝国の侵攻を撃攘出来ず陥落。王宮にいた王妃から「せめてこの子だけでも逃がして」と託されたのが生後三か月になったばかりのマリーネール・クレイリア第二王女殿下である。
レンダルは王女殿下と共に黒竜の森深部へと転移した。かつて一度だけ、王国調査団の護衛としてそこに同行したことがあった。その場所なら帝国も王女殿下を追うのは不可能と判断した。
レンダルは王女殿下の周りに強固な結界を張り、転移で王宮へと戻った。一人でも多くの王族を逃したかったからだ。だが、戻った王宮には既に帝国兵が多数なだれ込んでいた。近衛騎士団が決死の抵抗を見せるも、数の暴力には抗えない。
転移魔術を二度行使して残存魔力が心許ないレンダルだが、一発だけなら極大攻撃魔術を撃てる。しかし、ここでそれを放つと多くの同胞を巻き添えにするし、王宮自体が崩壊しかねない。
仲間が次々と倒されていく姿に断腸の念を抱えながら、レンダルは再度黒竜の森へと転移した。
王妃の最後の願い。王妃殿下を無事逃がすことが王国筆頭魔術師である自分の使命。この命を対価に帝国へ一泡吹かせ、仲間と共に散るよりも重要な任務。そう自分に言い聞かせなければ、今すぐ王宮に取って返しそうであった。
ところが、である。
(どういうことじゃ……姫殿下の姿が見当たらん。確かにこの辺りだったはずじゃが)
レンダルがマリーネール第二王女から目を離した時間は十分の一刻(十二分)にも満たないのに、籐籠がある筈の場所に何もない。当然王女も見当たらない。
半ば同胞を見捨てるような形で、最後の務めを全うする為にここへ戻ってきたのだ。守るべき王女殿下の姿が消えたことで、一瞬のうちに心の支えが崩れて行くような感覚に陥った。
(いや、まだじゃ)
レンダルは自分に残された魔力を振り絞り探知魔術を使った。王女殿下の魔力量は赤子にしては規格外だ。見知った魔力でもあるし、探知範囲内で生きていらっしゃるならきっと――
「いたっ!」
南へ六百メトルほどの場所で、人が歩くくらいの速度で移動している王女殿下の魔力を探知した。五十五歳と決して若くないレンダルだが、即座に南へ走り出した。
これほど真剣に走ったのは三十年ぶりではないか。肺が焼け、いくら息を吸っても十分な空気を取り込めない。頭がクラクラして足が縺れ、これ以上走ったら死んでしまうと思った時、それを見付けた。
一糸纏わぬ全裸の男が赤子を抱えてゆったりと歩いている姿を。
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