竜の娘に常識は通じない

五月 和月

第1話 森の小屋にて

 走る、走る、走る。


 樹齢千年を超える巨木が立ち並ぶ森。昼間なのに薄暗く、地面には巨木から落ちた葉が堆積している。その葉と土が走る少女によって高く蹴り上げられ、噎せ返るような濃い緑の匂いが立ち昇る。


 少女の少し先を走るのは百剣鹿。頭部から生えた角は何本も枝分かれして大きく広がり、その先端は全て剣の鋭さを持つ。時に進路上の巨木を角で切り飛ばして進む程の膂力と巨躯を持つ魔獣である。


 その巨大な鹿の魔獣が必死の形相で逃げていた。少女から。


「お肉、待てっ」


 そんなご無体な、と百剣鹿が思ったかどうかは定かではないが、止まれば殺され、食われるのは必至。狼や熊の魔獣と戦っても一歩も引けを取らない百剣鹿だが、この少女はヤバい、と本能が絶叫している。なんせ自分が死に物狂いで逃走を図っているのに、少女は徐々に距離を詰めているのだ。


 フッ、フッ、フッ、という少女の息遣いが背後に迫る。駄目だ、追い付かれる。百剣鹿は闘争を選択した。逃げている途中に殺されるくらいなら、真正面から迎え撃って潔い死を。それは魔獣の誇りだったのかも知れない。


 百剣鹿は急停止して振り返る。だがそこに少女の姿はなかった。


 一瞬の安堵の後、首の後ろに生じた衝撃と熱。痛みを感じる間もなく、百剣鹿の首は地面に落ちた。

 獲物が停止する素振りを見せた瞬間、少女は高く跳躍したのだ。そして短剣に落下速度を乗せて一振りした。それだけで終わり。


 少女は短剣を血振して鞘に納め、腰に括り付けていた縄を使って近くの木の枝に百剣鹿を吊り上げた。血抜きと内臓処理のためだ。本来なら冷たい水に浸けて冷やしたい所だが、近くに水場がないので諦めた。

 首の断面からドバドバと血が流れ、地面と落葉を黒く染める。内臓を傷付けないよう慎重に腹を裂き、胃や腸といった食用に適さない内臓を取り出す。それらは浅く掘った土に埋めた。


 十代前半に見える少女は、その全てに手慣れているようだ。臆する様子は微塵もない。それら必要な作業をしている間も、周囲への警戒を怠らない。


 蜂蜜色の髪は男の子のように短く刈られている。細い腕を躊躇なく肘の辺りまで腹の中に突っ込む様は、知らない者が見たら女の子だとは思わないだろう。

 着ている服にも少女を女性と示すようなものは一切ない。動きやすいように袖が切り取られたチュニックは焦げ茶色、深緑色のショートパンツ、足首まで覆う革製のブーツ。


 明るい緑色の瞳が印象的な目、髪と同じ色の長い睫毛。桜色の唇。可愛らしい顔の少年と言っても十分通用する。そして少女本人も、自分が女性として見られないことを全く気にしていない。


 何故なら、この森には少女以外のが一人も住んでいないのだから。





「お父さん、お肉獲ってきた」


 落ちている枝で簡易な橇を作り、自分の何倍もある巨大な百剣鹿を乗せて引っ張ってきた少女は、見えてきた小屋に向かって呟くように告げた。まだ結構な距離があるにも関わらず、小屋の中からドタバタと派手な音が聞こえ、間を置かずに玄関扉が勢いよく開かれる。


「プルクラ! 無事に帰ったか!!」


 無事に帰ったかも何も、プルクラ一人で狩りに行かせた張本人はこの声の主である。


 艶やかな黒髪を頭の後ろで一つに結んだ中年の男。少女――プルクラが父と呼んだ男が、彼女の帰還を出迎えた。いや、出迎えたという言い方は生温い。まるで生き別れた娘と再会したかの如く、その目に薄っすらと涙さえ浮かべてプルクラに駆け寄った。彼女が狩りに出掛けて一刻半(三時間)しか経っていないのに。


 男と呼んでいるが、そんな見た目をしているだけで実際には人ではない。だからプルクラの本当の父ではなく育ての父である。ただ、それは彼女と男の二人にとって些細なことだった。


「身体強化だけで仕留めた」

「そうか! よくやった!」


 男は、自分の胸より低い位置にあるプルクラの頭をわしゃわしゃと撫でた。

 撫でられた少女はむふーっと薄い胸を張る。父に褒められ、嬉しさと誇らしさで満たされる。因みに今日の狩りにおいて身体強化と剣以外の使用を禁じたのも父である。


 父娘がそんなやり取りをしていると、小屋から老人が顔を出した。


「レンダル。来てたんだ」

「プルクラ、息災そうで何よりじゃ」


 長く伸ばした頭髪と髭は真っ白で、黒いローブを纏い木の杖をついている。歳の割には背筋が伸び、足取りもしっかりしていた。

 そしてレンダル翁の後ろから、プルクラより少し年上の少女が現れた。


「アウリ!」

「お久しぶりです、プルクラ様」


 アウリと呼ばれた少女はプルクラに向かってぺこりと頭を下げた。

 顎の高さで切り揃えた青い髪、それより明るい青の瞳。男性執事のような恰好をしたアウリはにっこりと笑顔を浮かべた。


(何でアウリの名は嬉しそうに呼ぶのに、儂には『来てたんだ』なんじゃろ?)


 亡国の筆頭魔術師だったレンダルは今更ながら首を傾げた。そもそもアウリは二年ほど前からレンダルがここへ連れて来るようになった少女で、プルクラとの付き合いはレンダルの方がずっと長い。おじいちゃん、と呼んでくれたっていいのに。


 レンダルとアウリがこの山小屋を訪れたのは四か月ぶりだった。普段、父以外に言葉が通じる相手のいないプルクラは、二人の来訪に気分が高揚する。

 しかし表情はほとんど変化しない。人間との付き合いに乏しいプルクラは、感情を表に出す術を知らず言葉数も少ない。レンダルとアウリ以外の人間のことは物語の中でしか知らないのだ。


 最も身近な育ての父ニーグラムは、人ではない故に感情表現を知らない。彼が表す感情とは、プルクラに対する過剰な愛情に基づくもののみである。

 絶対的強者にして世界の守護者であるニーグラム・ドラコニスは何かに対して怒りを抱くこともない。少々鬱陶しいと思う程度だ。人間が近くを飛び回る小さな羽虫を鬱陶しいと思うのと同じである。羽虫に対して本気で怒る人間はそうそういないだろう。


 閑話休題。

 プルクラは客観的に見て美しく可愛らしい容姿であるにも関わらず、無表情で恰好も男の子。そしてそれを一切気にしていない。育ての父も同じく気にかける様子がない。そんな状態を危惧したのがレンダル翁であった。


 実際のところ、レンダルがプルクラの素行を心配し始めたのは五年も前のことである。素行の他にも憂慮すべき点があったため、レンダルは数年かけてニーグラムを説得した。

 他者の進言など聞く耳を持たず、プルクラのことを心底可愛がっていたニーグラムの説得は非常に骨が折れた。物理的に骨が折れたことも一度や二度ではない。


 それでも最後にはニーグラムも理解した。今のままではプルクラが危ういという事実を。

 だから、プルクラが十五歳になったら、彼女を人間の世界に送り出すことを渋々了承したのだった。


 そして来月、プルクラは十五歳になる。





「旅立ちの時に来れるか分からんからの。今日顔を見に来たんじゃ」


 小屋の内部は簡素だが快適な造りになっている。食事を終え、居間で茶を飲みながらレンダル翁が今日来た理由を告げた。


「これを渡しておこう。旅の役に立つじゃろう」


 レンダルがアウリに合図すると、彼女は小振りな背嚢を袋から取り出した。赤銅色の革で出来たそれは、白や黄色の小さな花が刺繍された可愛らしい意匠だ。


「拡張袋じゃ。容量は二千トリール(リットル)。多くはないが十分じゃろ」


 拡張袋とは空間魔術を付与した袋全般を指す。簡単に言えば見た目以上に物が入る袋のことだ。内容物の重量は計上されず、作り出す亜空間の特性によって時間経過が非常に遅くなる。目に見える大きさの生きている生物は入れることが出来ないが、死骸や植物、微生物は収納可能。


 因みに非常にお高い。プルクラが受け取った容量の拡張袋で、平民四人家族が四~五月暮らしていけるくらいの価値がある。話には聞いていたが実物を初めて見るプルクラは、その価値があまり分からない。


「まぁ儂が作ったんじゃが。あまり大きな容量だと袋を狙う不埒な輩を呼び寄せかねんからの。もっとデカいのが欲しくなったら、儂が生きているうちだったら作ってやる」

「ん。ありがと、レンダル」

「中に服を入れてある。選んだのはアウリじゃ」

「プルクラ様のご要望通り、動きやすいものを中心に選んでおります」

「ありがと、アウリ」


 アウリはプルクラの従者兼教育係として旅に随伴する。彼女がプルクラに「様」を付けるのは従者という立場を意識したものだが、ニーグラムの娘であることも大きな理由である。ニーグラムの機嫌を損ねる訳にはいかないので。


「以前決めた通り、この森を真西に抜けたファルサ村が最初の目的地じゃ。アウリはその村で待機しておるから、落ち合ったらリーデンシア王国を好きに回れば良いじゃろう」

「ん、分かった。アウリ、よろしく」

「はい、よろしくお願いします」


 娘とレンダルたちのやり取りを黙って見ていたニーグラムが口を開いた。


「プルクラ、やはり至竜石しりゅうせきを探すつもりか?」

「ん。それが一番の目的」

「そうか」


 真の竜に至るために神が齎した石。それが至竜石である。


「どこにあるか分からんぞ?」

「ん」

「見つかってもお前には取り込めぬかもしれん」

「ん、分かってる」


 至竜石は、その身に取り込むことが出来れば、真の竜に相応しい“格”を得られるのだと言う。

 プルクラが至竜石の存在を知ったのは、レンダルから贈られた本に書かれた物語からであった。勇者が悪い竜を倒して世界を救う物語である。その勇者が至竜石を取り込むことで竜を倒す力を得たのだ。


 幼い頃のプルクラに現実と創作の区別などつく筈もなく、父に無邪気な笑顔で言ったのだ。『私も至竜石が欲しい』と。強くなって父の役に立ちたいと願うプルクラの純粋な気持ちだった。

 そして、父ニーグラムは至竜石が現実に存在すること、自分も一度取り込んだことがあることを娘に語ったのである。


 以来、プルクラが口にしなくなったので、至竜石については忘れたものだと思っていた。だが森を出ることが決まってから、『なら至竜石を探す』と旅の目的に据えてしまったのだ。


「危険もあるぞ?」

「だいじょぶ。無理はしない」

「うむ。ならこれ以上言わん」


 初めて森を出るのだ。旅の目的は多くあった方が良いだろう。それが例え叶うかどうか分からない目的でも。


 隣に座る娘を慈愛の篭る目で見つめながら、ニーグラム・ドラコニス――黒竜は娘と初めて出会った日と、その後の日々に思いを馳せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

竜の娘に常識は通じない 五月 和月 @satsuki_watsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画