第3話
今まで奉公人として働き詰めだったので、やることがないと困る。掃除や料理を率先したが、童子たちに断られてしまった。
蝶子は長い廊下を歩き、雪の部屋の襖を開けた。
「雪様。なにか私に」
「……」
そこには、着替え中の全裸な雪が固まっていた。
沈黙。
蝶子は頬を染めた。
「ごごごご、ごめんなさい」
勢いよく襖を閉める。
(やってしまった)
断りもなく襖を開け殿方の……。をしっかり目に焼きつけてしまった。動揺が止まらず床にしゃがみ込む。これでは痴女ではないか、と頭を抱えた。
今朝の朝餉はいつにも増して静かだった。
その様子を察してなのか、童子たちは蝶子にくっついたりしていた。
「行儀が悪い」
雪は不機嫌そうにお叱りした。
(怖い)
もしも、見目麗しい雪だけを認識していれば、こうも怖く感じることも無かったかもしれない。脳裏には数日前の白蛇姿の雪が、どうしてもチラついてしまう。
考え込みながら食事をしていると雪と目が合い、蝶子は目を逸らした。雪の嘆息が聞こえ萎縮してしまう。
雪は食事も
雪は襖を開けた。ふわりと縁側から微かに甘い芳香がする。これは、雪から香るものと同じだった。
「雪様、門の外には何があるのですか」
庭の先には立派な門扉があり蝶子は指差した。
閉ざされた強固の扉。
ずっと気になっていた。
ところが
「あれには近づくな。聞くな」
雪に怒鳴られ、蝶子は肩を竦める。
朝食後、縁側に座り言葉を交わす機会を伺う。
雪は静かに木に凭れ掛かり、眠ってしまったのか逆さまに本を読んでいて、童子に指摘されていた。
声が掛けられない。
こんなに近くにいるのに遠い。
手持ち無沙汰になり、蝶子は縁側で足を投げ出し、ぷらぷらしながら、懐から黒い巾着を出した。これは嫁ぐときに、啓太がくれたお守りだった。
『困ったら開けてごらん』
蝶子はしゅるりと巾着の紐を解いた。
雪がはっとする。
「蝶子!」
本を投げ出し、雪は木から飛び降りると、蝶子から巾着を奪い、宙に向かって投げた。
なにも捨てなくても、と、巾着の中から藁人形が飛び出してきた。
雪は蝶子を
「浅知恵ばかりつけやがって、袋を結界に呪物を仕込んで神の領域を侵しやがったな」
「えっ?」
藁人形は、黒煙を吐き大きな固まりとなって空に漂う。蠢く黒煙。真ん中には藁人形が心臓のように脈を打っていた。
「蝶子は渡さない」
口らしい穴から
雪は鼻で笑った。
「生霊か。これはもう俺のだ」
雪は蝶子を横目で見る。なぜか蝶子の心臓が跳ねた。黒煙は怒鳴りつけた。
「ほざくな。蝶子は僕が守るんだ。僕がずっと守ってきたんだ」
雪は白けた目をした。
「お前こそ、ほざくな。何が守るだ。蝶子に執着しやがって」
会話について行けず蝶子は黙り、交互を見て困惑した。
(この喋り口調……やっぱり啓太さん?)
「勘違いも甚だしい」
雪は煩わしそうに眉をつり上げた。
「お前は子供の頃から不細工で隻眼。加えて、幼少期は太っていた」
「黙れ」
「その見た目から村で虐めにあっていた」
「うるさい」
蝶子は驚く。
(なぜ、それを)
しかし、神様だからか。と納得した。
雪は続けた。
「そんなときに蝶子と出会った」
そう、啓太と出会ったのは、蝶子の両親がまだ生きている時だった。
両親は鷹匠の仕事をしていて害鳥の駆除で村に訪れていた。普段は鷹狩りで得た獲物を売って生計を立てていたが、ときどき雀や
両親に連れられ蛇神の森を通り村に着くと両親は仕事に掛かった。蝶子が大人しく待っていると虐められていた啓太を見かけ、助けた。そして介抱してやったのが啓太との出会いだった。
──雪は言い募る。
「殴られ腫れたお前の顔に躊躇いなく触れ、真っ直ぐに見つめて話す蝶子に心を奪われた。あげくに、何度も仕事で訪れて優しく接する蝶子に、自分に好意を抱いていると錯覚しやがって」
(そうだったの?)
「蝶子の両親が騙され、仕事に欠かせない鷹を売られて亡くなったあと、蝶子は村に奉公人として売られた。お前は、変わり果てた蝶子を見て、自分が守らなくてはと、馬鹿げた考えを起こした。あまつさえ、蝶子に害した奴らを呪い、殺した」
(えっ……)
「蝶子を虐めた奴、蝶子に好意を持った男。良からぬことをしようとした男に至っては何人か変死させた、呪物でな」
蝶子は驚きと供に思い当たる節があり、思わず一歩前に踏み込む。
「俺の背に隠れていなさい」
思いのほか優しく雪に声を掛けられ、蝶子は頷いた。
「蝶子は僕のだ」
「ふん。俺の嫁だ」
(綺麗)
雪は外衣を脱ぐと頭から蝶子に被せた。
銀の雨が、黒煙の生霊に降る。
「うぁぁぁ。ちょうこ。僕のちょうこ。ちょうこ」
啓太は
雪は振り返り、一瞬、手を引っ込ませるが、蝶子の首に手を回し、ぎゅっと胸に納めた。
(息苦しい)
さざ波のようにざわつく血潮。
黒い
「雪様。腕が」
「何でも無い」
雪は脂汗を掻いていた。
前回、
今回、なぜ蛇の姿にならなかったのか。
「雪様」
つい肩に触れると、雪は驚いたようにピクリと反応して、一歩下がった。
避けられている?
でも、蝶子を助けてくれた。と、はたとする。
(私、蛇の姿を見たとき、倒れるほど、怖がった)
「雪様。まさか……」
しかし、雪は青い顔をして、どさりと倒れた。
「雪様」
蝶子は膝をついて雪を呼ぶ。
(どうして)
ひらりと頭に被された外衣が宙をゆっくりと飛んだ。蝶子は冷えつく手で懸命に雪を呼び、揺すった。
(雪様、どうしてここまでしてくださるのですか)
雪は贄ではなく、蝶子を嫁だと言ってくれた。
それなのに、蝶子は害を成す。
神の嫁など分不相応でしかなかった。
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