8.想いと約束。
「リィンの、リィンの容態はどうなんですか! 医師殿!」
「旦那様、お気持ちは分かりますがどうか冷静に……!」
「冷静になど、していられるわけがない!!」
――少女の寝室は、慌ただしい。
医師に治癒術師、その他にも揃えられるだけの精鋭が集まっていた。しかし誰も、彼女の病を治す手立てはないのか困惑している。アルディオ伯爵はいつになく取り乱し、その細い声を張り裂けんばかりに上げ続けていた。
給仕の女性も一緒になって彼を押し留め、一生懸命になだめている。
「リクさん、アタシたち……なにも、できないんですか?」
「…………カノン……」
そんな周囲の様子に、震える声を発したのはカノンだ。
聖剣は自身の服を強く握りしめて、いまにも泣き出してしまいそうな表情を浮かべている。それでも最後の一線――涙を流さないのはきっと、最も辛い気持ちであるのは伯爵に違いなかったから。
俺はそんな彼女を見て、さすがに唇を噛んだ。
そして何かまだ、いずれかの手立てがないかを考え続ける。だけど――。
「なにも、くそ……!」
千載一遇の機会はおそらく、先日のアメリアの花。
あの行動がもう少し早く取れてさえいれば、状況は僅かでも好転していたに違いなかった。いいや、あるいは――。
「……カノン、さん」
そこまで考えた時だった。
慌てふためく大人たちの喧騒の最中で、消え入りそうな声色でリィンがカノンの名を呼んだのは。それに対して、聖剣は誰よりも速く少女のもとへ駆け寄る。
そして、小さなその手を取って口元に耳を傾けた。
「……分かり、ました」
「カノン……?」
その光景に立ち尽くしていると、カノンは静かに本棚へと向かう。しばらく間を置いてから、彼女は一冊の本から小さな栞を取り出した。
小さな青い花が挟まれたそれを手に、聖剣少女はリィンのもとへと戻ってくる。そして優しく、令嬢の手に栞を握らせるのだ。
「お母様との思い出、ですよ」
「母親との……?」
堪えるように絞り出されたカノンの声。
それを耳にして、俺はその一輪の花の持つ意味を理解した。時を経ているものの、まだどこか微かな息吹を感じさせる青い花。おそらくそれはリィンと、その母親――ミラとの絆の証なのだろう。
幼い少女に遺された思い出。
俺はゆっくりと歩み寄り、それを見て――。
「こ、これって……!?」
思わず大きな声を上げてしまった。
だが、それも仕方ないだろう。だって、その花は間違いない。
「アメリアの花……!」
そう、たった一つの希望。
俺があの日、取りこぼしてしまった可能性の欠片だった。これさえあればカノンの力で、リィンの身体を蝕む毒素を消し去ることができるかもしれない。
だったらもう、迷う理由はない。
だが、そう思うより先に声を上げたのはカノンだった。
「だ、駄目です! これは、リィンさんとお母様の……大切な、絆なんです!!」
思わず栞に手を伸ばした俺。
しかし彼女はそれを阻み、悲鳴を上げるように訴えるのだ。
「アタシの力の触媒に使えば、きっと……この花は消えてしまう……!」――と。
それは、あまりに残酷だろう、と。
リィンにとっての夢と憧れ。そして何より、そんな亡き母との絆の消滅。これまでの時間を少女と過ごして、まるで妹を想う姉のように令嬢の心に寄り添い続けたカノン。そんな彼女だからこそ、きっと決断ができないのだ。
涙を流し、必死に訴えて、懇願する姿。
それを目の当たりにし、俺も思わず躊躇した。だが――。
「…………カノン、頼む」
「リク、さん……?」
「俺は思うんだ。きっと――」
そっと、彼女の手を握り返して伝えた。
曖昧にしか分からない。それでもきっと、間違いのないことを。
「大切なのは『想い』なんだ、って。形には残らなくても、ミラさんの『想い』は残り続ける。伯爵の恩人ならきっと、いや絶対に――」
俺の『憧れの方』の姿も重ねながら。
「たとえ、それで最愛の娘が悲しんだとしても。この決断をするだろう、って」
「…………リク、さん」
自分がなにを口にしているかは、分かっていた。
これは何か確証があってのことではない。ただ『そうあってほしい』という、希望的観測に他ならない。だけど、それでも、何故だろうか。
俺にはこの決断こそが、正しいのだと思えた。
「……分かり、ました」
俺の言葉を受けたカノンは、重い沈黙の後に口を開く。
そして、涙を拭って言うのだ。
「それでもし、リィンさんに恨まれても。アタシは決してリクさんだけの責任には、しませんから。アタシも、一緒に背負います……!」
カノンはそう宣言すると、深く息を吸い込む。
すると、彼女の周囲には淡く美しい青の輝きが湧き上がって――。
◆
『ん、ここ……どこ?』
幼い少女は暗闇の只中にいた。
見たこともない場所、不安で仕方のない場所。普段は気丈に振る舞っているその少女であったが、一人で見知らぬ場所に放り出される恐怖には耐えられなかった。
愛らしい顔は一気にくしゃくしゃに、その場にしゃがみ込んでしまう。
『マ、ママ……パパ、どこ? 私を、私を置いて行かないで……!』
そして、ついには大粒の涙を流し始めてしまった。
だが何もない暗闇では、誰の助けもない。
そう思われた。
その時だ。
『あらあら、リィン。どうしたのかしら?』
『…………え?』
とても温かく、懐かしく、何よりも優しく大好きな声が聞こえたのは。
少女――リィンが驚き面を上げると、そこには夢にまで見た憧れの女性がいる。その人は生前と変わらぬ笑顔で、少女の顔を覗き込むとその涙を拭うのだ。
そして、柔らかな手でリィンの頭を撫でる。
『ミラ、お母さま……?』
リィンは呆気に取られながらも、その女性の名を口にした。
それと同時に、聡い彼女は自分の身に何が起きたのかを理解する。ただそれ以上に、母と再会できたことが嬉しかった。
少女は母に抱きついて、年相応の子供らしく泣きじゃくった。
ミラはそんな娘をあやしながら、こう口にする。
『ずいぶん、大きくなったのね。……私の大切な、リィン』
『ママ、ママぁ……ああああああああああ!!』
――母と娘。
互いを強く想い合う二人。
しかし、その再会の時は長くは続かなかった。
『え、まって……ママ! からだ、が……!』
ミラの身体は、光を放って解れていく。
リィンは必死に手繰るが、それは空を切った。
やっと会えた。
やっと、また一緒にいられる。
少女の願いに反して、最愛の母の姿は溶けていく。
それにまた、リィンは膝をつき泣き出しそうになって――。
『ねぇ、リィン? お母さんと、約束してほしいの』
『え……約、束……?』
その直前に、母の声が聞こえた。
温もりに満ちたそれに少女が応えると、ミラはこう続けた。
『貴女はもっと、もっとたくさん生きて。私よりもずっと長く生きて、大切な誰かと一緒になって、いまの貴女のような子供を授かって、そして――』
どこか、涙ぐむように。
それでも間違いない願いとして。
『私よりも、もっと素敵な人になってくれるよね?』――と。
リィンはそれを聞いて、考えるよりも先に答えていた。
『も、もちろんです!』
だって、それは他でもない憧れの人からの願い。
少女は立ち上がって、消え行く光に向かって宣言した。
『私はきっと、お母さまも驚くような素敵な女性になってみせます!』――と。
胸を張って、曇りのない眼差しで。
彼女は最愛の人と『約束』を交わしたのだ。
『……そう。そうね、ありがとう。リィン』
『おかあさま……えっ!?』
その直後だ。
光が弾け、それが少女の中に溶け込んでいったのは。
リィンの意識が遠のいていく。
だが、たしかに。
『大丈夫。リィン、私はずっと……』
母――ミラは、最愛の娘に声を届けたのだった。
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