口付けにはまだ早い〜水神様の嫁にされそうです〜

くれは

16歳、神様の嫁にされそうです

 わたしの顎をその指先が、つ、と辿った。背中がぞわりとする。

 ぴくりとも動けないのは怖いからだけじゃない。わたしの体は糸のようなものに絡め取られている。逃げることはできない。

 指先は顎を辿って喉元に辿り着いた。長い爪が滑ると、そのまま掻き切られるんじゃないかと想像してしまい、体が震えた。

 わたしの怯えを見てか、目の前の顔が笑みを浮かべた。その顔だけを見ればびっくりするほど美人の女の人だ。白い顔を縁取る艶やかな黒髪に黒目がちの瞳。鮮やかな黄色い着物。

 けれど、その下半身は蜘蛛だった。

「ああ、ようやく見付けた。オオミブチ様の力を受け継ぐ娘」

 美しい蜘蛛の化け物は、動けないわたしの首を撫でながら、うっとりとそんな言葉を漏らした。

「お前はオオミブチ様の嫁にはならぬと言ったな。であれば、私が代わりになってやろう。だから、その血をおくれ」

 言っている意味はわからない。

 でも、そう。夕食の後、自分の部屋で宿題をしていたら、いつの間にかこの蜘蛛の化け物がいた。そしてこの化け物は、わたしに迫った。「お前がオオミブチ様の嫁か」と。咄嗟に首を振って「知らない」と言うことしかできなかった。そしたらこの状況だ。

 今はわたしの首に化け物の指先が、尖った爪が這っている。恐ろしさに声も出せなかった。涙だけが滲む。

「まあ、待て」

 不意に、涼やかな男の人の声が降ってきた。わたしと化け物との間に、小さな青い光がともったように見えた。

 実際はそれは光じゃなくて、小さな水の塊。握りこぶしほどの水が、そこで渦を巻いていた。

「オオミブチ様」

 化け物はそう声を上げると、わたしの首から手を離して後ずさる。尖った爪が遠のいて、わたしは少しだけ安堵する。

 そうやってできた隙間で、水の塊がぐるりと渦を巻きながら大きくなった。柔らかく輝く水が次第に人の形になる。そして、わたしと化け物の間にすらりと立った。

 着物を着ていた。浴衣とかと違って、もっと古いイメージの──平安時代の貴族なんかが着ていそうな着物。膨らんだ袖と裾。

 作り物めいた白い顔に、細いつり目。その目がわたしを見て、さらに細められた。

「これは俺の嫁だ。なぜお前が手を出している」

 着物の男の人は化け物の方を向くと、そう言った。化け物はわたしを睨む。

「その女はオオミブチ様の嫁にはならぬと言いました。約束を反故にしたも同じ。であれば、私がその血を得て、オオミブチ様に捧げようと」

「俺が何も言わぬうちにか」

 男の人の冷たい声は威圧感に満ちていた。化け物は一瞬たじろいだ。けれどすぐに、一歩──蜘蛛の脚ががさがさっと動いたので一歩ではなく数歩かもしれない──前に出た。その顔に、ふ、と嘲るような笑みが浮かぶ。

「けれどオオミブチ様は……ああ、おいたわしや、そこまでお力を失って、早く取り戻したいでしょうに」

「俺と小渕おぶちの者との取り決めは、俺の問題だ。お前ごとき出る幕ではないよ」

 男の人はそう言って、持っていた扇を開いて舞でもするようにはらりと振ってみせた。霧のようなものが現れて、化け物の姿が見えなくなる。

 男の人がわたしの方を向く。わたしの体はまだ蜘蛛の糸に囚われたままで、動けない。

「本当はゆっくりと説明するつもりだったのだが、こんな事態になってしまった。残念ながら力を失っているのは事実ゆえ、足止めもあまり長くは持たないのだ」

 そんなことを言って、けれどその人は焦るふうでもなく穏やかに微笑んだ。この人も化け物なのだろうか。わたしを助けてくれるのだろうか。恐怖と不安と安堵が入り乱れる。

「よく聞いてくれ。お前は俺の嫁なのだ。ずっと昔に小渕の者とそう約束をした。その代わりに小渕の者に俺の力を預けてあるのだ。その力を返してくれないか。そうすればあいつなどすぐさま追い払える」

「か……返すって、どうやって?」

 ようやく絞り出したわたしの言葉に、その人はゆったりとした口調で答える。

「本来ならばお前が嫁になることで成るのだが、今はそこまでの時間がないだろう。であれば、そうだなあ、口付け程度でも一時しのぎにはなるか」

 口付け……その言葉の意味を考えている間に、その人が顔を近付けてきた。キス、されてしまうのだろうかと、動かない体を固くして、目を閉じる。溜まっていた涙が頬を伝い落ちる。

 ふ、と鼻先で笑う息づかい。

「そう怯えられるとやりにくいな。今はその涙でなんとかしよう」

 その声とともに、頬に柔らかいものが押し当てられる。それはわたしの涙の跡を目尻まで逆に辿った。

「ああ、俺の力だ。わずかだが戻ってきたぞ」

 ふ、と体の力が抜けた。わたしの体を縛っていた糸が切れたのか、消えたのか。

 抱きとめられて目を開けると、化け物はもういなかった。男の人がわたしの顔を覗き込んで、おっとりと微笑んでいた。

 今はいつものわたしの部屋で、その男の人だけが異質だった。すぐさま離れてしまいたかったけれど、力が抜けてしまったわたしの体は言うことを聞かなかった。

 だからわたしは男の人に抱き止められたまま、ぽかんとその雅な顔を見つめていた。


「俺の名はオオミブチ、水神だ」

 その男の人はそう名乗った。おっとりとしているのに威圧感あるその姿は、確かに神様なのだという気がした。

 神様なのだから呼び捨てはまずいような気がする。一応、助けてももらったし。だからわたしはオオミブチ様、と呼ぶことにした。

「お前の名は?」

小渕おぶち水澄みすみ

 問われて素直に応えると、細い目をますます細めて微笑まれた。

「水澄というのは良い名だな。水に関わるゆえ深く繋がりを作ることができる」

 オオミブチ様はわたしのベッドの上にあぐらをかいている。雅な着物姿で。わたしは勉強机の前、椅子に座ってそれを見ているけれど、どう見ても異常事態だ。

「あの、それで……いったいどういう状況なんでしょうか」

 おずおずと聞くと、オオミブチ様は閉じた扇の先を口元に当てて首を傾けた。

「さて、どこから話すか……」

 水をたたえた湖のように透き通った瞳が、ふと遠くを見る。そうしてオオミブチ様が話したことをまとめると、こうだ。

 オオミブチ様は山間にある池の神様で、近くの村で祀られていた。

 あるとき、小渕おぶち──つまりは、わたしのご先祖様の家の小さな子供が池で溺れてしまった。小渕の家の者はオオミブチ様に救いを求めた。

 オオミブチ様はその子に自分の力を分け与えて家に戻してやった。その代わりに、次に小渕の家に娘が生まれたらその娘を嫁に、と約束をした。

 けれど小渕の家になかなか娘は生まれなかった。そこから村はだんだんと廃れてゆく。村から人がいなくなって廃村になってしまい、オオミブチ様の力はどんどん失われていった。

 そんな中、ようやく生まれた小渕の娘がわたし。ということらしい。

「困ります、そんな、顔も知らないご先祖様の約束なんて」

 わたしの言葉に、オオミブチ様は微笑んだ。

「約束は守ってもらわなければ。かつて俺が小渕の者に分け与えた力は確かにお前の中にある。そしてお前が俺の嫁になることで、俺の力は戻ってくるのだ」

「な、何か他の方法はないんですか?」

 オオミブチ様はふむ、と考える様子を見せた。

「あるいは、お前が生贄になるか。嫁と生贄と、どちらが良い?」

「どっちも嫌です!」

「我が儘な娘だ」

 扇を広げて口元を隠すと、オオミブチ様は声をあげて笑った。わたしは優雅に笑うオオミブチ様を睨む。

「俺とて事情もあるのだ。近くの村が廃村になってから力が失われてゆく一方でな、このままでは祟り神になってしまいかねない。そうなれば、俺の力を持つお前とて、どうなるか……少なくとも無事ではいられまい」

 祟り神だとか無事でいられないとか、それは脅迫じゃないだろうか。わたしが何も言えずにあわあわしていると、オオミブチ様は目を細くしてわたしの顔を覗き込むように身を乗り出してきた。

「だからどうか、俺の嫁になってくれぬか」

 わたしは必死に首を振る。

「無理です! 大体、今の日本では、結婚できるのは十八歳からなんですよ! わたしはまだ十六歳ですから!」

「二年など、これまで待った時間を考えるならほんのひとときだな。では、待たせてもらうぞ」

 ぱちり、と音を立ててオオミブチ様は扇を閉じた。そしてそのまま、ベッドの上でくつろぐように体を横にした。

「ま、待って! 待つって、ここで? この部屋で? 無理! 出てって! ……ください」

 慌てるわたしの叫び声に、オオミブチ様はまた体を起こした。きょとんとした表情をしている。

「なぜだ? お前の中の俺の力を狙ってくるモノどもがまた来るだろう。俺がお前の傍にいるのは、お前を守るゆえなのだ」

 オオミブチ様の言葉に、さっきの蜘蛛の化け物を思い出す。え、あんなのがまた来るの? それは嫌だ。怖い。

 でもだからと言って、部屋にいつも神様がいるのは困る! 大体、ベッドでくつろがれたら、わたしベッドで寝れないし!

「で、でも、男の人が部屋にいるとか、落ち着かないし……」

「姿が変われば良いのか?」

 オオミブチ様は少し考えてから、目を閉じた。その姿が揺れる。初めて現れたときと同じだ。その体が透き通る水になって、そうして渦を巻く。その水はどんどん小さくなって、ベッドの上で消えたように見えた。

 びっくりして立ち上がってベッドに近づくと、そこには片手のひらに乗るほどの小さな白蛇がいた。頭を持ち上げて、つぶらな黒い瞳でわたしを見ている。蛇ってはじめて見たけど、思ったよりも怖くない気がした。

「この姿ならどうだ?」

 白蛇は、赤い舌を出し入れしながら、そう言った。どうやらこの白蛇が、オオミブチ様らしい。

 わたしは少しの間考える。オオミブチ様──この白蛇がわたしの部屋にいることと、それから化け物に襲われること、それらを頭の中で並べてみる。

 そうして、わたしはしぶしぶだけど頷いたのだった。


 オオミブチ様との共同生活が始まった。

 オオミブチ様は当然というように学校にもついてきた。小さい白蛇の姿でわたしのバッグやポケットに入り込む。わたしは最初拒否したのだけれど、いつどこで狙われるかわからないと言われて、結局はそれを受け入れた。

 実際、この前は黒い大きな蛇のような形のもやに襲われた。周囲を囲まれて怖かったのだけれど、オオミブチ様が「小物が」と言いながら追い払ってくれた。

 学校では、友達に白い蛇の姿を見られそうになって慌てたりもした。バッグの奥に体を押し込めてしまって、オオミブチ様には後から謝った。

 わたしの言葉遣いはだんだんとぞんざいになっていった。神様なんだからと思って最初こそ丁寧に話していたんだけど。それでも許してくれているのだから、オオミブチ様はずいぶんと心の広い神様らしい。とはいえ、祟り神になるかも、なんて脅されてしまうと、やっぱり怖くもある。

 そうして気づけば、オオミブチ様と一緒にいるのが当たり前になりつつあった。自分では認めたくないのだけれど、わたしはオオミブチ様の存在に慣れてしまったらしい。一緒にいて、安心感すらあった。

 だからといって、嫁になるのを受け入れられるかと言えば別だ。そこまで割り切ることはできない。自分が結婚するなんて、イメージすらできないのに。


 その日は、お父さんもお母さんも仕事で遅くなると言われた。ひとりで適当に夕飯を食べて、というメッセージが届いた。

 それでわたしは自分で夕飯を作ることにした。オオミブチ様は白い蛇の姿で台所までついてきたけど、家には他に誰もいなかったので、まあ良いかと思った。

 冷蔵庫の中を覗き込んで、卵のパックを取り出す。ご飯は冷凍のものを、と考えてふと、振り返った。オオミブチ様は食卓の上で、物珍しそうに醤油差しを眺めていた。

「今更だけど、オオミブチ様ってご飯は食べないの?」

 白蛇の黒い瞳がわたしを見る。

「食う必要はない。しかし食うことはできる。食物というのも供物くもつの一種だからな、食えば俺の力になる」

「そっか。じゃあ、一緒に夕飯食べる?」

「ああ、ぜひ」

 それでわたしは、冷凍のご飯を二人分温めることにした。

 細かく刻んだ玉ねぎを炒めて、温めたご飯を入れてさらに炒める。ケチャップをたっぷり。フライパンで熱せられたケチャップは、すぐに香ばしいにおいになった。

 わたしが料理する様子が気になるのか、オオミブチ様は蛇から男の人の姿になって、わたしの隣に立った。わたしの手元を覗き込んでくる。

「かまどがこんなに小さいとは。薪も必要ないのだな」

 感心したように、オオミブチ様が呟く。オオミブチ様の人間世界の知識は、どうやらだいぶ古いらしい。今までもいろんなことに驚かれた。

 二枚のお皿にケチャップライスをこんもりと盛る。次は卵だ、とボウルを出すと、オオミブチ様がわたしの顔を覗き込んできた。

「なあ、俺も料理をしてみたいのだが」

「え、料理できるの?」

「やったことがないからわからぬ」

 神様にも好奇心というものがあるのだろうか。わたしは不思議な気持ちでオオミブチ様の顔を見た。目が合うと、「駄目か?」と首をかしげられた。

 まあ、なんとかなるかな。

「じゃあ、わたしが先にやるから見ててね。その後、同じことをやってもらうから」

「わかった。やってくれ」

 オオミブチ様がおっとりと頷く。それでわたしは、卵を割って中身をボウルに入れる。もう一つ。それから牛乳も少し。粉チーズも入れちゃう。

 そして菜箸で卵をかき混ぜる。ちらと見れば、オオミブチ様は神妙な顔でわたしの手元を見ていた。

 あたためていたフライパンに油をしいて、とき卵を入れる。じゅうっと卵の端から固まってゆく。それを菜箸で適度にかき回しながら、形を整えてゆく。ふわっとした状態のところで火を止めて、さっきのケチャップライスの上に卵を乗せる。真ん中を突き崩せば、ふわふわオムライスの完成だ。

「はい、これがオムライス」

「おむらいす、良いにおいがする」

 オオミブチ様はそう呟いて、ほうっと息を吐いた。それからわたしの顔を見て微笑む。

「水澄は料理の手際が良いのだな」

 急に褒められて、わたしはなんだか気恥ずかしくなった。

「え、でも、簡単なものしか作れないよ。これだって、そんなに難しくないから」

「そうか、じゃあ、俺もやってみるとしよう」

 わたしは乗り気なオオミブチ様に菜箸を渡した。

 オオミブチ様が料理をしたことがないというのは、本当なんだろう。とにかく、全てが大変だった。

 まず卵がうまく割れない。力加減がうまくいかず、ボウルの中に卵の殻がいっぱい入ってしまった。

「思ったより難しいのだな」

「まあ、取り除けば大丈夫だから」

 ボウルの中身を見て唇を尖らせるオオミブチ様をそうやって励まして、殻を取り除く。

 卵をとくのも苦労した。何せオオミブチ様の菜箸の持ち方は、とても品がある。指先はしなやかで、菜箸はまるで優しい鳥のくちばしのよう。けれど、卵はなかなか混ざらない。最後はわたしがちょっと手伝った。

 そしていよいよフライパン。そこでの菜箸の動きはやっぱり優雅で落ち着いていて、卵の端っこがみるみるめくれ上がって固まってゆく。

「もっと手早くできる?」

「ふむ、やってはいるのだが」

 そんなことを言っている間にも、卵はどんどん固まってゆく。なんだか気づけばボロボロの、焦げ目のついたスクランブルエッグのようになってしまっていた。

「水澄のようにはできぬか……」

 火を止めて、ケチャップライスの上にスクランブルエッグを乗せる。オオミブチ様はその出来栄えに満足しなかったらしい。お皿を見下ろして、なんだかしょんぼりして見えた。

 その姿が少し可哀想で、そしてちょっと可愛く見えて、わたしは笑ってしまった。

「まあでも、きっと味は悪くないと思うよ。せっかくだから、それ食べさせてよ。オオミブチ様はわたしの食べて良いから」

「そうか、食ってくれるか」

 わたしの慰めに、なんだか少しほっとしているようだった。わたしはまた笑った。

 それで二人で向かい合ってオムライスを食べた。オオミブチ様のオムライスは、味は悪くなかった。だから「美味しいよ」と言えば、オオミブチ様は嬉しそうに目を細めた。

「水澄が作ったおむらいすも美味いぞ」

「ありがとう」

 オオミブチ様のオムライスは実際、自分で作ったものをひとりで食べるときよりも、ずっと美味しく感じられた。


 学校の休み時間、クラスの文化祭委員の男子に声をかけられた。

「小渕、文化祭のアンケート、今出せるか?」

「あ、ごめん、出すの忘れてて」

 わたしは慌ててバッグからプリントを出して手渡す。男子は軽い調子で笑った。

「ありがとな」

「ううん、遅くなってごめんね」

 じゃ、と男子は離れてゆく。バッグのチャックを閉めようと視線を落としてぎょっとした。その隙間から、蛇姿のオオミブチが頭を出していたのだ。オオミブチ様はなんでか、さっきの男子を目で追っている。

「学校で出てきちゃ駄目」

 わたしは小声で言うと、返事も聞かずにオオミブチ様の体をバッグの奥底に突っ込んだ。そしてバッグの口を閉める。周囲を見回して、誰の視線も感じないことにほっとする。

 今すぐにでもオオミブチ様に「姿を見られるようなことしないで」って言いたかったけど、学校の中では我慢していた。

 そして家に帰ってバッグのチャックを開く。途端、オオミブチ様が出てきて、しかも人の姿になった。わたしが文句を言おうと口を開く前に、オオミブチ様がずいとわたしに向かって踏み込んでくる。

「あの男はなんだ」

「え、男?」

 オオミブチ様の勢いに、わたしの文句は吹き飛んでしまった。見上げれば、なんだか機嫌が悪いようだった。

「親しげに話していただろう」

 それでようやく、文化祭委員の男子のことを思い出す。親しげというほどの会話じゃなかったと思うけど。

「別に、ただのクラスメートだよ。今日のだって用事があったから話しただけで」

 わたしの言葉は、オオミブチ様には言い訳のように聞こえたらしい。疑うように目を細めて、わたしの顔を覗き込んできた。

「ただのくらすめーとというのは、どういう間柄なのだ? 文を渡すような間柄なのか?」

「文?」

 なんのことだろうと口ごもると、オオミブチ様はさらに顔を近づけてきた。思わず逃げそうになる背中に手が回されて、捕まえられてしまう。至近距離で見つめ合う。

「懸想するような間柄なのか?」

「けそう……?」

 意味はわからなかったけど、とにかく何か勘違いされているということはわかった。

 オオミブチ様はなんだか怒ったような顔をしている。わたしが男子と話したから? 親しげに? ただのクラスメートなのに?

「あのね、多分何か勘違いしてると思うんだけど」

「勘違い? 俺がか? 何をだ?」

 オオミブチ様の細い目が、ますます細められる。わたしの言葉を見定めるように、わたしを見据えている。

「あの男子とは特別仲が良いってわけじゃないから。そりゃ、同じクラスだから話す機会はあるけど」

「渡していたあの文はなんだ」

「あのプリントのこと? あれは学校の用事だよ」

 オオミブチ様はわたしが困っている様子をじっと見ていたけれど、やがて目を伏せて息を吐き出した。

「……恋い慕うような間柄ではないのだな?」

「恋……まさか! 全然そんなんじゃないってば」

「ならば良い」

 そうして、不意に抱き寄せられた。ふわりと、大きく膨らんだ袖に包まれる。

「お前は俺の嫁になる身なのだ。ほかの男とあまり親しくしてはならぬぞ」

 男の人の腕だった。男の人の胸だった。思いがけない触れ合いに、心臓の動きが早くなるのがわかった。こんなふうにされるなんて初めてのことで、身体中が熱くなった。

「で、でも、わたし、まだ嫁になるなんて」

「それでもだ。お前が俺以外の男と親しくしているのは、気に入らぬ」

 直接耳に拗ねたような声が吹き込まれて、頭がくらくらとした。

 オオミブチ様は、わたしの中にある力が必要なんだと思っていた。そのためにわたしを嫁にしたいのだと。

 でもなんだか、これじゃあ、まるで──。

 わたしが固まっているうちに、オオミブチ様はわたしの体を離した。そうして小さな白蛇の姿に戻ると、部屋の隅に行って丸まった。

 わたしはへにゃへにゃと、その場に座り込んでしまった。


 学校からの帰り道だった。

 雨の日で、傘を差していたから視界が悪かった。オオミブチ様はいつもみたいにバッグの中にいて、わたしは住宅街の中を歩いていた。

 ふと気配を感じて顔をあげると、美しい女の人と目があった。見覚えがある。鮮やかな黄色い着物を着て、下半身が蜘蛛──いつかの、化け物だった。

 自分の息を吸う音が、雨音の中、ひどく響いた気がした。逃げようと振り返ればそこには、大きな黒いもやがあった。ぼんやりと見えるそれが恐ろしいモノだとわかって、足がすくむ。

 それだけじゃない。黒いもやは他にもいた。ひとつだけじゃない、三つも四つも──いつの間にか、囲まれていた。わたしは傘を取り落とした。

 震える手で、バッグのチャックを開く。中からオオミブチ様が出てきて、すぐさま人の姿になった。ふわりと濡れた地面に降り立つと、その背中にわたしを庇うようにする。鋭い目つきで油断なく周囲を見回した。

「オオミブチ様、まだお力を取り戻しておいでじゃないのですね」

 蜘蛛の化け物は美しい顔でうっとりするように笑った。

「私がオオミブチ様のお力、全て受け継いでみせますわ。そうして私が代わりに神となりましょう」

 髪が、制服が、濡れてゆく。けれどわたしは傘を拾うどころか、動くこともできなかった。そんなわたしをオオミブチ様が、安心させるように抱き寄せた。

「案ずるな、俺がなんとかするゆえ」

 黒いもやが、距離を詰めてくる。わたしは小さく叫んで、オオミブチ様にしがみついた。オオミブチ様は扇を開いて、それをはらりと宙に滑らせた。その動きに合わせて、黒いもやが千切れる。

 けれど、何事もなかったかのように、黒いもやはまた元通りにくっついた。そうして、もぞもぞと動く。ぞっとした。

 次のもやがまた迫ってくる。オオミブチ様が扇を動かせば、もやは千切れ、動きを止める。けれどすぐにまたくっつく。

 そうして次のもや、次のもや、と限りなく迫ってくる。オオミブチ様はそれを追い払っているけど、気づけば息を切らしていた。

 オオミブチ様でも勝てないんだと思って、怖くて体が震える。涙が勝手に出てきた。

 化け物が嘲るように笑った。

「お力もほとんどないというのに。これだけの数を相手するのもおつらいでしょう」

「それでも俺は、水澄を守りたいのだ」

 わたしはオオミブチ様を見上げた。オオミブチ様は苦しそうに眉を寄せて、油断なく周囲を見ていた。化け物がふふ、と笑う。

「ご安心ください。私がその娘の中の力も全て、手に入れますゆえ」

 化け物の言葉で思い出した。わたしの中にオオミブチ様の力があるって。それで口付け──キスをすれば、わたしの中にある力をオオミブチ様に返せるって。

 いくつもいる黒いもやは、だんだんとわたしたちに近づいてきていた。オオミブチ様が喉の奥で「くっ」と声を漏らした。なんとかしなくちゃいけない。

 それには、わたしの中にあるっていう力が、きっと必要なんだ。

「あ、あの、キス……口付けを」

 その提案に、ためらいがなかったわけじゃない。でも、オオミブチ様を助けたかった。

 黒いもやをひとつ薙ぎ払ってから、オオミブチ様はわたしを見た。薙ぎ払われたもやは、また何事もなかったかのように元に戻る。

「良いのか?」

 覚悟を決めて頷く。オオミブチ様の顔が近づいてくる。わたしは顔を持ち上げる。初めてのキスだと思うと、こんなときだというのに、顔が熱くなる。

 唇が今にも触れるかというそのとき、ふ、と笑われた。

「お前にはまだ早いようだな」

 何を言われたのかと瞬きをすると、オオミブチ様はわたしの頬にキスをした。わたしの涙が舐め取られる。

「今はこれで良い」

 その声とともに、オオミブチ様は扇を高く掲げた。そうして、舞うかのように、わたしを片手に抱えたまま、くるりと回った。その動きに合わせて、周囲の黒いもやが、砕けて消えてゆく。もう元に戻ることはない。

 空から地上に落ちる雨が、輝いて見えた。

 オオミブチ様は扇を化け物に向ける。

「きっとまた参りますわ」

 化け物は美しい顔を歪めてそう言い残すと、その姿を消した。

「今は追い払うが精一杯か、まあ、仕方あるまい」

 急に雨の音が耳に入ってきた。ああ、大丈夫だったんだ。

 わたしは体の力を抜いて、オオミブチ様にもたれかかった。わたしを抱える腕が、とてもたくましく感じられた。火照った体に、雨が心地良かった。


 それからも、オオミブチ様はわたしと一緒にいる。わたしを守ってくれている。それは嬉しいけど、嫁になる覚悟はまだできない。

 相変わらず一緒に学校に行くし、ときどき何を勘違いするのか嫉妬される。それから、一緒に料理もする。お父さんもお母さんもいないときだけだけど。

 困ったことにわたしは──最近は一緒にいるのがあまり嫌じゃないのだ。




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