第10話
それから数か月、ひっそりとした家の中で、アイは目覚ましい成長を遂げていた。かつては細く頼りなかった四肢が、今ではしっかりと肉付き、膨大な知識を吸収していく姿は、リヒトとエイルにとって希望そのものだった。努力が形となり、着実に身についていくアイの笑顔は、日々の暮らしにかけがえのない光をもたらしていた。
ある夕暮れ、地下の修練場で木剣を振るうアイの姿があった。薄紅の夕焼けが差し込み、彼女の真剣な動きを静かに照らす。振り下ろされる剣から風切り音が生まれ、空気を切り裂くごとにその音は力強さを増していく。強くなりたいという一心でさらに厳しくするよう懇願してくるひたむきな姿勢は、彼自身の誇りでもあった。
「よし、今日の稽古はここまでだ」
リヒトが声を掛けると、アイは額に浮かんだ汗を拭い、無邪気な笑顔を向けた。その姿に、エイルの胸には複雑な感情がわき上がった。喜びと、ほんの少しの驚きが入り混じったような感覚。
確かにアイは成長していた。しかし──
モチモチ……タプタプ……
そんな音が聞こえてきそうなほど、アイは丸々と膨れ上がっていた。かつての小柄で儚げな印象とは異なり、丸みを帯び、もちもちとした脂肪に覆れている。頬はふっくらと膨らみ、衣服の上に乗る腹肉は穏やかな起伏を描いていた。腕も脚も柔らかな質感を湛え、触れれば指先が吸い込まれるような弾力を想像させる。
「……まさか……アイがこんなに育つなんて……」
エイルの顔に動揺の色が浮かぶ。心の中で、原因を探ろうと記憶を掘り起こす。
「お菓子ちょうだい」
「もう……リヒトには内緒よ?」
甘い菓子をひそかに渡したあの日。
「おかわりちょうだい」
「おう!いっぱい食えよ!」
何度も繰り返された食卓でのおかわり。
「ご褒美ちょうだい」
「なら、今日はステーキにするか!」
誰も止めなかった。いや、止められなかった。そんな小さな積み重ねが、今のアイを形作っていた。
「こんなもちもちなゲーベンフォルク、見たことないわよ!」
エイルは堪らず声を上げ、頭を抱えた。その声に反応して、アイはしゅんと肩を落とし、控えめにエイルのスカートの裾を引っ張った。
「怒ってる?」
「怒ってるわけじゃないわ。ただ、少し心配してるの」
「どうして……?」
「だって、こんなに……太っちゃったから」
その指摘に、アイはじっと自分の手足を見下ろした。その仕草に思わず胸を締め付けられる思いでいると、リヒトが全てを見透かしたような笑みを浮かべ、口を開く。
「まあ、そう言うな。これも計画の内だ」
「計画……?」
「そうだ。アイはもともと飢餓状態だった。でも、それは戦士にとってのいわば“ボーナスタイム”みたいなものでな。窮地に陥った体はエネルギー確保に必死で蓄えようとする。だから、身体を大きくする絶好のタイミングだったんだよ。いわゆる増量期ってやつだな。食って、鍛錬して、寝る。そのサイクルをしっかり回して、基盤を整えていたってわけだ。ちょっとアイの腕を触ってみろよ。驚くぞ?」
その言葉に促され、半信半疑で一見柔らかそうな腕にそっと手を伸ばす。軽く叩くと、ふわりと揺れる脂肪の奥に潜む硬質な筋肉が指先に感じられた。
「……たしかに、見た目じゃわからなかったけど、カチカチね……」
「だろ?だからアイに関しては心配する必要はない。それよりも……エイル、心配なのはお前の方だ」
「……え、私?」
突然の矛先に、ぎょっとしたように目を見開く。
「そうだ。お前は家にこもりきりだし、アイと違ってほとんど体を動かしてない。それに、アイにつられて食べる量も増えてる。それで、その……顔つきや体つきも、少し……な?」
不意の言葉に、エイルは顔を真っ赤に染めた。鏡を覗くたびに薄々感じていた違和感が、急に現実感を伴って襲いかかる。
「うっ……でも、私はアイほどじゃないし……」
エイルが言い訳がましい声を絞り出したが、その言葉にはどこか説得力が欠けていた。
「まあ、いい機会だ。そろそろアイも減量期に入るし、一緒に始めればいい」
「そんな急に言われても……あっ、そうだ!“ツイン・アストラル”解除すれば全部解決じゃない?」
その案にリヒトはわずかに間を置き、意地悪な笑みを浮かべる。
「なるほどな。じゃあ、俺から向こうのエイルに伝えてやろうか?『太ったから解除してくれ』って頼まれたって」
「っ!?そ、そんなのダメに決まってるでしょ!!言ったら絶対許さないんだから!!」
イルは羞恥心と怒りで声を震わせながら叫んだ。その必死な様子を見て、リヒトはからかうように顎に手を当てて続けた。
「でも、体型ってどうなるんだろうな?片方に合わせられるのか、それとも足して割られるのか……でも、記憶と経験は統合されるし……もしかしたら……」
「くぅっ……!」
エイルは言葉を失い、唇を噛みしめた。俯いた顔はさらに赤みを増し、耳の先まで熱が伝わっているのが分かる。さすがのリヒトも可哀そうになり追撃をやめ、いつもの真面目な顔に戻った。
「まぁ、半分冗談だ。でも、解除はしない」
低く引き締まったリヒトの声に、空気がピンと張り詰めた。
「…どうして?」
「なるべく向こうのエイルに情報を与えたくない。もしこのことを知られたら、どこかでボロを出す可能性が高いからな。だから、やむを得ない状況にならない限り、このままにするつもりだ」
彼女自身、嘘が下手であることを痛感していた。不用意な言葉がアイの存在を危険に晒す可能性を否定できない以上、余計な情報は毒にもなりえると思った。
「……そうね……もし、バレてアイが施設送りになったら……」
「ゲーベンフォルクの貸し出しはランダムだからな。俺たちの元へ戻る確率は、ほぼゼロだと思った方がいい」
アイのことを考えると、リスクを避ける以外に選択肢は見当たらず、少し悩んだ末に承諾することにした。
「分かったわよ……やればいいんでしょ!」
「よし。これからは食事も運動も、俺が徹底的に管理するから覚悟しておけ」
「……エイル、大丈夫?」
アイの小さな声が間に割って入る。
「……ええ、平気よ。大丈夫……たぶん……」
エイルの返事は普段の彼女らしさに欠け、どこかか細かった。
それから始まった二人の生活は、まさに試練そのものだった。
「はぁ……ひぃ……」
まだ陽が山肌を染める前、冷たく湿った空気を肺に取り込みながら、エイルはひたすら足を運ぶ。心臓が喉を叩く鼓動に耐え、走り終えれば筋力トレーニング、そして入念なストレッチが待っていた。朝陽がようやく地平線を越える頃には、二人の身体は汗でぐっしょりと濡れ、荒い息遣いだけが辺りに響いていた。
リヒトの管理は無慈悲ともいえるほど徹底されていた。食事はタンパク質中心に栄養バランスを緻密に計算し、甘味や嗜好品は一切排除される。睡眠時間から休憩の分数に至るまで、彼の眼は隙を許さない。それはまるで、全身が鋳型に押し込められているような息苦しを感じさせるような日々だった。
それでもアイは平然とこなし、負荷を徐々に増やしながらさらなる力を手に入れていく。一方、エイルにとっては、最低限の鍛錬ですら苛酷そのものだった。
普段の生活で避け続けていた運動は、彼女の体を容赦なく追い込む。慣れない動作に筋肉が悲鳴を上げ、肺は焼けるように熱を帯びる。額を伝う汗が視界を曇らせ、塩気が滲んだ痛みが瞼を走る。だが、その苦痛ひとつひとつが、新たな強さを育んでいるかのようでもあった。
そして毎夜、リヒトの施す指圧が疲労に苛まれた体を解放する。彼の指先は驚くほど正確に凝り固まった筋肉を見つけ出し、押し込むたびに鋭い痛みと共にほのかな快感が広がる。
「……っ……は……」
刺激を与えられ吐息を漏らすたび、疲れた心がほどけていくような感覚に包まれる。次第にその感覚はまどろみへと変わり、エイルは自然と眠りに落ちていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数週間後、地下修練場でエイルが見せた姿には、目に見える変化があった。
「はぁ……ふぅー……」
深く息を吐きながらも、自らを追い込む彼女の瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。汗に濡れたタンクトップが肌に密着し、鍛えられた身体の輪郭が覗く。頬は熱を帯びて赤く染まり、碧く澄んだ瞳には、積み上げてきた努力の軌跡が明確に映し出されている。乱れた長い金髪は無造作に揺れ、額に貼り付いた一房が彼女の熱中ぶりを物語っていた。呼吸は荒く、時折肩が大きく上下する。それでも彼女の目は、はるか先の何かを見据えていた。
「無理するなよ。お前のペースでいい」
「これくらい、大丈夫……!」
気丈に返すその声には決意が感じられたが、彼女の足腰はすでに限界に達していた。震える脚で前に進もうとした瞬間、バランスを崩して膝を折りかける。リヒトは迷うことなく背後から彼女を支えた。
「言わんこっちゃない。今日はここまでだ」
「……うん……ごめん……」
エイルは息を整えながら、崩れるようにその場に座り込む。リヒトは無言で水の入ったコップを差し出した。彼女は震える手でそれを受け取り、唇に運ぶ。冷たい水が喉を通るたび、体の隅々にまで染み渡るような心地良さが広がった。
「もう十分頑張ったと思うが……何か思うところでもあるのか?」
「……魔法が使えない状況で、私が頼れるのはこの身ひとつしかないから。それに、アイもリヒトも必死に頑張ってるのに、私だけが楽をするわけにはいかない……」
小さく漏らされた言葉に満ちた決意を悟ったリヒトは、微かに笑みを浮かべ、声を出す。
「お前、意外と真面目だよな。……そういうところ、結構好きだぜ」
「っ!?」
思いがけない一言に、エイルの頬がたちまち赤く染まる。瞳孔開き、何かを言おうとも言葉にならない。
「まぁ、お前のやりたいようにやればいいさ。ただし、危なっかしい時は俺が止める。だからさ……今日は休め。明日からまた始めればいい。ほら、立てるか?」
差し出された手をエイルは少し躊躇いながらもそっと取り、ゆっくりと立ち上がる。抱えていた不安をふっと溶かすように温かい。
「ありがと。私、頑張るから」
共に戦う誓いを胸に、自らの足で再び歩き始めた彼女の表情には、自信に満ちた笑顔が浮かんでいた。
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