第9話

 それからの日々、三人は静かで穏やかな時間を過ごしていた。

 

 リヒトが日中家を空ける間、エイルはアイに寄り添い文字の読み書きや常識を教え込み、彼が帰ってきてからは、地下にある修練場で剣術や武道の鍛錬をする。手に握られる木剣は小さく、その振り下ろしはまだ拙いが、その瞳に宿る揺るぎない信念と、強さは日に日に増していった。


 時折、息抜きもかねて三人で裏庭に出ることもあった。目立つわけにもいかないため人目につかない閉ざされた空間だが、アイにとっては唯一といっていい外の世界。そんな限られた自由の中でも彼女は懸命に学び、遊び、笑うようになった。


 ある日の午後、エイルとアイは居間で向き合い、机には開いた本と拙い文字が並んだ紙が置かれている。


「……そうした過去の過ちから、人に対し危害を加えるような魔法は自動で発動失敗になるように、子供が生まれる時は必ず教会が立ち会いその身に紋章を付与する。発現場所も大きさも形も、全て人によって違うわ。色も階級ごとに分かれていて、大戦時皆を先導した祖先の血脈である『ケーニスヒエレ』は赤、その仲間である英雄達の血筋である『レーベンクラフト』は黄、一般人の『ミッシュガルト』は青、それから……大戦に敗れた者達の末裔『ゲーベンフォルク』は黒」


「うん」


「ただ、みんな別称としてこう呼んでいるわ。ケーニスヒエレを『王族』、レーベンクラフトを『貴族』、ミッシュガルトを『平民』。王族は世界の維持、貴族は治安や政策、技術や文化等の管理、平民は幅広く手がけているけど、基本は壁外のネフリム退治と遺物調査が主な仕事、それぞれ役割は違うけれど、どれも魔力を使う仕事であること。そして……」


 エイルの言葉がふいに途切れる。その一瞬、部屋に流れる空気が変わった。アイが顔を上げる。


「どうしたの……?」


 アイが心配そうに尋ねてくる。エイルは深呼吸を一つし、震える声で続けた。


 「ゲーベンフォルクの蔑称は……『奴隷』。魔力を持たず、肉体労働しか許されない。平民以上の階級なら誰でも、施設から彼らを労働力として借りることができる。つまり……その人生の全てが引き取った人の手に委ねられるの」


 彼女の声はかすれ、言葉が重く響いた。


「表向きには登録制だから、目立った迫害はない。でも、それを掻い潜り、陰で酷い仕打ちを与える人間もいる。この辺は私よりもリヒトの方が詳しいかな。とにかく、魔法が使えない、先祖が罪を犯した、それだけで差別され、虐げられる人も――」


 エイルの言葉が震え、息を詰まらせる。その手は拳となり、白くなるほど強く握られていた。その姿を見たアイが、小さな声で呼びかける。


「エイル……?」


 その声に、エイルはハッとしたように顔を上げた。だが、その瞳には涙が滲んでいた。


「……こんなの、おかしいよ」


 震えていた。声も、瞳も、体も。怒りと悲しみが混ざり合い、胸の内で抑えきれなくなった感情が堰を切ったように一気に溢れ出す。


「どうして……どうして貴方たちが!アイが!こんな扱いを受けなきゃならないの?先祖が罪を犯したからって、その罰をあなたたちが背負うなんて…………そんなの……そんなの、あまりにも理不尽すぎる……」


 涙がぽたりと一粒、頬を伝い落ちる。その雫が床に触れる音だけが、静寂の中に響いた。


「何が『王族』よ……ただその血筋であるだけで、何一つ変えられない。見て見ぬふりをして、何もできないまま、偉そうに話すことしかできなくて……悔しい……情けない……」


 言葉は次第にかすれ、涙に押し流されて途切れていく。それでもエイルは目をそらさず、ただアイを見つめていた。


「ごめん……本当に……ごめん……」


 震える声で懺悔のように繰り返すエイル。その瞬間、アイの小さな手がそっとエイルの手を掴んだ。


「エイル……泣かないで」


 その声は驚くほど穏やかで、優しいものだった。


「私、今幸せ。エイルとリヒトがいて、名前ももらえて……こんな生活、夢みたい」


 エイルはその言葉に肩を震わせた。小さな手の温もりが彼女の心に触れるたび、胸の中で絡まった感情がゆっくりとほぐれていくのを感じた。それでも涙は止まらない。悔しさ、悲しさ、アイの未来さえ守り切れる自信が持てない自分自身への苛立ちだった。


「……でも、夢みたいじゃ、ダメなのよ。私は知らなかった。上っ面だけの知識じゃ見えなかった現実を。この世界は未だ残酷で、不公平で、ひどく歪んでいる。でもね、私は絶対に変える。いつか、アイが大人になるまでに、この世界を胸を張って歩けるように。それが私の使命だから。だから……それまで待ってて」


「エイルだけじゃダメだよ」


 アイはきっぱりと言い放つ。


「守られるだけじゃなくて、エイルもリヒトも……二人とも守れるくらい、強くなりたい」


 守るべき存在だと思っていた少女が、自ら立ち上がろうとしている。この世界に傷つけられた彼女が、いずれ世界を癒す存在になるのだと。そんな確信が、胸の中で静かに芽生えた。


「……そうね、アイ。きっと貴方は強くなれる」


 ゆるぎない決意を含んだ瞳でじっと見つめ合う二人。幼い少女が紡いだ未来への願いが沁み込むにつれ、次第に涙は引いていく。


 ガチャ


 扉の開く音がして、二人はそちらに目を向けた。


「ただいまーっと……何かあったのか?」


 夕暮れの光をかすかに反射していた目の下を伝う白く細い線。年下の少女に抱かれ、泣き笑いのような表情で向かい合う友人の姿を見れば誰しも察することだろう。


「……おかえり。ちょっと昔話をしてただけよ。大丈夫、もう平気だから。ね、アイ」


 エイルが微笑むと、アイも少し照れたように頷き返した。その光景に、リヒトは安堵の笑みを浮かべ、二人の肩に手を置いた。


「ま、あんまり抱え込むなよ。とりあえず風呂でも入ってこい。その間に晩飯用意しておくからさ」


 彼の手のひらがそっと撫でる。同時に、どちらの腹からか『ぐう』と音が鳴った。三人は顔を見合わせた後、同時にくすくすと笑い始める。

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