第8話

「ふぅ~さっぱりした〜」


 リビングに戻ってきたリヒトは、頭をタオルで無造作に拭きながら現れた。鍛え抜かれた上半身が光を受け、艶やかな陰影を描き出している。身に纏うのはラフなスウェットパンツのみで、エイルの視線をしっかり引き寄せていた。そんな様子に気づくことなく、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、グラスに注ぎ一気に飲み干す。喉仏が大きく上下する様に彼女は色気を感じ慌てて目を逸らすも、頬がじんわりと赤くなっていくのを止められない。その変化を察した彼は眉をひそめ、不思議そうに問いかけた。


「……どうした?」


「な、なんでもないわよ!」


 恥ずかしそうにもじもじと身を縮め、視線をちらつかせる。普段の彼女なら絶対に見せないであろうしおらしげな姿に、怪訝そうな顔でそっと近づき、肩に軽く手を置いた。


「まあ、なんでもいいけどさ。いつまでもその格好でいると、風邪ひくぞ?」


「なっ!?違っ!これは……そういうデザインなの!ていうか、アンタこそ服着なさいよ!いつまで半裸のままでいるつもり!」


「別にいいだろ?誰も困らないし」


「困るわよ!……こっちは、その……目のやり場に困るから……」


 声は消え入りそうに小さく、全身熱を帯び多様に暑い。


「ははーん、我が肉体美に魅せられたか」


「なっ、そんなんじゃないわよ!」


「……仲良し?」


 突然、少女の澄んだ声が部屋に響いた。二人は揃ってそちらへ振り返り、思わず目を丸くする。一拍置いてからリヒトはニカっと笑い、はっきりと答えた。


「ああ、そうだな。俺たちは仲良しだ」


「っ!?」


 エイルは動揺のあまり何も言葉が出なかったが、満更でもないといった表情を浮かべている。


「ははっ!冗談だよ。じゃあ、お望み通り着替えてくるとしますか」


 そう言い残し、軽く手を振りながら扉の向こうへと消えていった。


 (仲良し……か)


 その言葉が、何度も頭の中を巡る。先程の無邪気な笑顔が浮かび、胸の奥がかすかに疼いた。


(何であんな簡単に言えるのよ……私ばっかこんな意識して……)


 頬に手を当てるも、火照った熱がまだ引かない。彼の無防備な姿や何気ない仕草が次々とよみがえり、心がざわつくのを抑えきれない。


(いつもみたいに適当に茶化されて終わるかもしれない。でも、何もせずに後悔するよりは……)


『あの言葉』の真意を確かめるべく、彼女は行動に移った。


 数分後。着替えを終えたリヒトが扉を開けた途端何かに衝突し、柔らかい感触がその身を包んだ。


「うおっ!?……どうした?そんなとこに立って?」


「……」


 驚きのあまり声を上げるも、何も答えず、ただじっと彼を見つめていた。頬は薄紅色に染まり、潤んだ瞳が微かに揺れる。代わりにぎゅっと手を握り、艶美な吐息を漏らす。そして、小さく息を吸い込むと、意を決したように一歩前へ踏み出し、彼に寄りかかりながら、ほんのり震える声で囁いた。


「……美味しくいただけるようにってやつ……いつしてくれるの?私、もう待ちきれないんだけど……」


 甘えるような声色と蠱惑的な仕草――その雰囲気はあまりにも扇情的で、別人のようだった。


「分かった、俺ももう我慢の限界だ。そのために色々用意したからな、絶対に満足させてやるよ。それまであの子の面倒、よろしくな」


「……うん…分かったぁ♡」


 疑いが確信に変わり、浮ついた足取りで少女の世話を始めた。本を読ませたり髪を梳いたりして過ごしていたが、頭の中はこれから起こるであろう行為のことでいっぱいになり、彼が今何をやっているのかなど全く目に入っていなかった。


(これが終わればリヒトと……これが終わればリヒトと……早く早く早くぅ……!)


 そわそわしながら待つこと小一時間、ようやくその時がやってきた。


「待たせたな………じゃあ始めようか」


「うん……♡来て♡リヒト♡」


 両手を広げて迎え入れようとするエイル。それに応えるように、彼も両手を広げ……


 パンッ


「いただきます!」


「…………」


 期待を遥かに裏切る光景に、彼女は呆然と立ち尽くし頭が真っ白になっていた。


 湯気をたたえる料理の数々がテーブルに所狭しと並び。リヒトと少女はにこやかに箸を進め、幸福感に包まれていた。


「ん……美味しい……」


「そうかそうか。でも、あまり無理して食べるなよ?さっきまで飢餓状態だったんだから、無理せずゆっくり味わえ」


「分かった」


「はへ?」


 その穏やかなやり取りに、エイルは言葉を失う。ただ、ぽかんと、目の前で繰り広げられるやり取りに唖然としてしまった。


「調理器具も調味料も必要最低限しかなかったからな。今日そろえてこなきゃここまで美味いのは食えなかったんだ。一応、提案者であるエイルに感謝しような?」


「エイル、ありがと」


 その言葉に、彼女はようやく現実に引き戻された。混乱と驚きが溢れ、勢いよく声を上げた。


「ちょっと待って!? なんで普通にご飯食べてるのよ!?」


「お前が待ちきれないって言ったんだろ?リクエスト通りお前の好物を俺が!お前に!作ってやったのに、それでも文句あんのか?」


「そ、そうじゃなくて! いや、確かに言ったけども……それじゃ何? 『美味しくいただけるように』って結局どういう意味だったのよ!?」


「言葉通りの意味だよ。お前もこの子の面倒見るんだろ? 朝晩はともかく、昼飯くらい用意する必要があるわけだ。でもお前は仮にもお姫様。まともに料理なんてした事ないだろ?だからちょっとずつ料理の腕上げて『美味しくいただけるように』なろうな。っていう俺の優しさだったんだが?」


「そ、それなら先に言いなさいよ……はぁ………馬鹿みたい……」


 崩れそうな肩を抱え、深く溜め息をつく。その姿に、彼は軽く肩をすくめ、近くに置いてあったパーカーを彼女の肩にそっと掛けた。


「……何よ?」


「いつまでもそんな格好でいるとか、痴女なのか?」


 一瞬、沈黙が訪れる。だがすぐに、口元に苦い微笑みを浮かべ、力なく呟いた。


「……あはは……かもね……」


「えっ、なにその反応……逆に怖いんだが………とりあえず、座って飯食おうぜ」


 パーカーのジッパーを上げ、促されるまま席に着いたエイル。箸に手をつけようとしたそのとき、聞こうと思っていたが先延ばしにしていた疑問を口にした。


「そういえば、この子の名前まだ知らないんだけど」


 リヒトも箸を置き、向かいの少女に目を向ける。


「そうだな。君、名前は?」


 問いかけられた少女はしばらく考えるような仕草を見せた後、そっと首を振った。


「……名前、ない」


 その短い一言が、部屋の空気を静かに変えた。


「……名前が、ない?」


 エイルが言葉の意味を測りかねるように問い返す。少女は俯きながら、ぽつりと言葉を紡いだ。


「名前なんて……いらなかったから。誰にも呼ばれなかったし……誰もくれなかった」


 その一言が胸に鋭く刺さる。名前がないということ。それは誰にも求められず、この世界に存在する意味すら否定されたということではないか――そんな思いが胸の奥で疼き始めていた。


「……そうか。じゃあ、俺たちが名前をつけてやるよ。それでいいか?」


「……いいの?」


 少女の瞳が揺れ、かすかに見開かれる。その動揺は、戸惑いと期待の入り混じったもののようだった。


「ああ、もちろんだよ。名前ってのは、自分がこの世界にいる証明みたいなもんだからな。君には君だけの名前が必要だ」


「そうね。私たちで一緒に考えましょう。あなたにぴったりの、素敵な名前を」


 少女の表情はまだぎこちなかったが、その瞳の奥にほんの少し光が灯ったように見えた。


「じゃあ、どうする?」


 リヒトが問うと、エイルは腕を組み、真剣な顔で考え込む。


「そうね……例えば、お花の名前とか?」


「いや、もっとこう意味をしっかり持たせたいよな。歴戦の戦士の名前とかはどうだ?強い子に育つようにって」


「女の子なんだから、もっと可愛い名前にしなさいよ!」


 二人のやり取りを聞きながら、少女は静かにその様子を見つめている。何かを羨んでいるような眼差しに、エイルはふと思いついたように声を上げた。


「……ねえ、『アイ』ってどうかしら?」


「アイ?」


「そう、アイ。多分この子は今まで愛情から切り離されて生きてきたんだと思う。温かい気持ちとか、大事にされるとか……そういうの。だから、これから愛される存在になって欲しいっていう想いを全部詰め込んだみたいな……そんな名前。それに目も藍色で綺麗だし、響きも可愛いくない?」


「随分ロマンチックな名前だな」


「うっさいわね!いいじゃない別に!」


 顔を真っ赤にして怒るエイルを宥めつつ、リヒトは少女に問いかけた。


「まあ、いいんじゃないか?なぁ、キミはどう思う?気に入ったか?」


 少女はしばらく目を伏せ、考え込むような仕草を見せていた。しかし、やがて顔を上げ、静かに微笑む。


「……うん……すごく嬉しい……ありがと」


 その言葉に、二人はほっと胸を撫で下ろす。そして改めて、これから共に暮らすことになる少女の名を呼んだ。


「……ん」


 小さく頷き、恥ずかしそうに俯く少女の姿は、とても可愛らしく見えた。

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