第7話
ガラッ──
リビングの扉が勢いよく開け放たれる。濡れた髪から水滴をぽたぽたと垂らしながら、バスタオル一枚というあられもない姿で現れたエイル。その堂々たる登場に、ソファに腰掛けていた家主の青年が反射的に立ち上がり、声を張り上げる。
「おい、エイル! いきなり叩くこたぁねぇだろ!」
だが、当の本人は抗議に耳を貸すどころか、冷ややかな眼差しでリヒトを見下ろし、鼻を鳴らして一蹴した。その背後では、小さな少女が隠れるように控えている。彼は深々とため息をつきながらソファに体を預け、傍らに置いていた袋から衣類を取り出し、少女に向かって差し出した。
「はぁ……まぁいいや………はい、これに着替えな」
少女はおずおずと衣類を受け取り、その場で着替えを始める。特に恥じらいを見せるでもなく静かにボタンを外し始めた。
「ちょっと! 何ジロジロ見てるのよ変態!」
「ただ観察してただけだ。それに、お前たち王族からしたらおかしな話かもしれないが、俺たち庶民にとってはこれが普通なんだよ」
「なっ……! 私が普通じゃないっていうの?」
「そこまでは言ってない。けど、これが俺たちの共通認識であり価値観だってことは理解しておけ」
「なにそれ……意味わかんない……」
少女は二人の言い争いを気にする様子もなく、無表情のまま淡々と着替えを済ませた。多少だぶついているものの、フードが付いたワンピースタイプのパジャマがよく似合っている。外側は羊毛のようにもこもこしており、内側は柔らかな綿素材で通気性も良い。袖口に触れる少女の仕草から、肌触りの良さを確かめる慎ましい喜びが伝わってくる。
ふと、少女はフードを深くかぶり、肩の高さまで両手を上げたまま首を傾げた。表情こそ無表情のままだか、無邪気な一面が垣間見える。
「きゃああ!かわいい!」
エイルは両手を叩いて歓声を上げると、満面の笑みを浮かべて少女の周りをぐるぐると回り始める。先ほどまでの険しい顔はどこへやら。
「あ、ああ……そうだな」
どちらが子供なのか疑ってしまうほどの感情の移ろいに苦笑いを浮かべるリヒト。呆れ半分、和み半分といった様子だ。そんな二人の様子をぼんやりと眺めていた少女の口元には、ほんのわずかに笑みが浮かんでいる。
「そうそう、そこら一帯の荷物はお前のだ。『絶対見るな』って釘を刺されたから中身は知らないけどな。あと、机の上に本置いておいたから、適当にこの子に読ませてやってくれ。じゃ、俺は風呂入ってくる」
それだけ言い残し、浴室へと消えていった。とりあえず自分の着替えを探すため荷物を漁り、中身を確認しようと手を伸ばしたが……
「あばばばば……な、何よこれぇ……!」
取り出した衣類を目にした瞬間、頬が火照り赤く染まった。視線を彷徨わせても、鞄の中から次々と現れるのは、目を覆いたくなるほど露出度の高い衣装ばかり。ブラジャー、ショーツ、ネグリジェ……それだけではない。部屋着すらも肌を惜しげなく晒す挑発的なデザインの物ばかりだった。
(そ、そうだった……この子のお世話で忘れてたけど……あの時の私は脳内ピンクの色ボケ…………我ながら頭が痛い……)
頭を抱えながら悶絶し、顔どころか全身が燃え上がるような熱を帯びる。けれど、いつまでも取り乱してはいられない。致し方なくネグリジェに袖を通した。
だが、鏡に映る自分の姿を目にした瞬間、再び羞恥心が押し寄せる。
細やかなレースが施された生地は胸部以外を儚げに透かし、腹部やショーツの輪郭さえも仄かに映し出す。胸元は大きく切り取られ、太ももを半ば露わにする短い丈。背中も大胆に開いており、肩甲骨も丸見えだ。
「ま、まあ? 万が一ってこともあるかもしれないし……」
震える声で自分に言い聞かせるように呟きながら、何度か深呼吸をする。
気を紛らわせるため他の荷物も確認すると、歯ブラシや櫛といった日用品に加えて、美容オイルやアロマキャンドルなども入っていた。これから長期間の共同生活を想定しているかのような準備の良さで、もはや新婚生活でも始めそうな勢いである。いや、それだけではない。『それ以上のもの』を想像させる何かが、確かに存在していた。
顔を覆い、深々と息をつきながら何度も首を振った。邪念を追い払おうと試みるも、頬に残る熱や胸のざわつきは簡単に消え去りそうにない。意識を別のことへ向けるべく、椅子に腰掛けている少女のもとへそっと歩み寄る。膝の上で広げている本は分厚く、古めかしい革表紙が歴史を物語っている。
だが、驚くべきはその内容。世界の成り立ちや魔法の根幹に関わる理論──それら全てが精緻な筆致で記されており、読むには高度な知識が求められ、学識豊かな学者でも手に余るような難解さだった。しかし、椅子に座る少女はまるで童話を読むかのように、そのページを淡々とめくっている。
無垢な表情と手にする難解な書物。その違和感が次第に疑問となり、やがて言葉となって口をついて出た。
「ね、ねぇ……あなた、もしかして……」
震える声で問いかけると少女はふと顔を上げ、小首を傾げた。しばらく沈黙が流れる中、言葉の意味を確かめるようにじっと見つめ合い、やがて理解したのか無言のまま頷いた。
瞬間、エイルの全身に衝撃が走る。背筋を冷たい汗が伝い、思わず肩を震わせた。
(間違いない……この子は………………)
胸の中で湧き上がる確信が、次第に形を成していく。
「天才なんだ!」
心の中だけでは収まらず、その感嘆は声となり部屋に響いた。驚きと喜びに染まり、無意識に笑みが浮かぶ。
「ふふっ♪……そっかぁ♪」
だが、その幸福も束の間。少女は再び視線をエイルに定め、その眼差しを外そうとしない。何かを訴えかけるようなその仕草に一瞬戸惑う。
「えっと……私に何か言いたいことでもある?」
一瞬間を置き、神妙な面持ちで小さく頷いたかと思えば、ぽつりと呟いた。
「……文字、読めない」
「えっ?」
「読んで」
「あ、はい……」
心の中で思い描いた幻想は、いとも簡単に崩れ去った。その場に立ち尽くしたまま、何とも言えない脱力感に包まれた。けれど、少女の真っ直ぐな頼みを前に、思わず小さな笑みがこぼれる。
「じゃあ、一緒に読もうか」
そう言ってエイルは椅子を引き、少女の隣に座った。ページの間から漂う微かな埃と古紙の香りが、二人の間に漂っていた。
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