第6話
ガチャガチャ……カチャン……バタン……
「ここが……リヒトの家……」
扉を開けた瞬間、静寂が空間を満たした。室内は余分な装飾を一切排した簡素な美しさを湛え、家具は必要最低限のものだけが整然と配置されている。その洗練された無駄のなさが、彼の性格を何よりも雄弁に物語っていた。どこか無防備に漂う痕跡に、彼の存在を鮮明に意識させられ、抑えきれない背徳感に支配されそうになる。まさか、意中の男性の部屋に足を踏み入れる日が来るとは思わず、その特別感に、心のざわめきがを止まらない。
リビングのソファに腰を下ろすと、緊張でこわばっていた身体がほんの少し解ける。少女もだいぶ落ち着き、膝の上ですやすやと眠っている。顔色はまだ優れていないものの呼吸は安定しており、命に関わるような状態でないことに安堵した。
それでも、不安が消えるわけではない。ゆっくり眠らせてあげようと、私はそっと立ち上がり、寝室へと足を運ぶ。純白のベッドが目に留まり、その上に大きなタオルを何枚も重ねて敷き、小さな身体をそっと横たえた。
水を桶に汲み、濡れタオル用意する。身体を拭いてあげようとボロ布を脱がせ、痩せ細った体を目にすると、喉元がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
肋骨が浮き出た胸部、青白い肌、痩せこけた頬――その姿は、幼いながらも過酷な日々を生き抜いてきた証のようで、一体どんな過去を抱え、この体に刻まれたのか。私の拙い経験では推測できなかった。
一通り拭き終えた後、室内を物色して適当なシャツを見繕い、着せてあげた。大きな布地に包まれているその姿に若干の嫉妬心を抱いていると、彼女が薄く瞼を開く。ぼんやりとした瞳が私を捉え、何かを訴えるように微かに揺らめく。
「良かった……目が覚めたみたいね。喉乾いてるでしょ?これ飲んで」
手元に用意しておいたコップに水を入れ差し出すと、頼りない手つきでそれを受け取り、慎重に口元へ運んだ。小さな喉がコクリ、コクリと動くたびに、生命の灯火を確かに感じさせる。気づけば、あっという間に飲み干していた。空になったコップを両手でこちらに差し出すその愛おしい姿に、言葉にならないほどの庇護欲を掻き立てられる。
「ふふ、よっぽど喉が渇いてたのね。…………はい、おかわり。あと、お腹は空いてる?」
そう尋ねると、小さく頷いて応えた。
「それじゃあ、ちょっと待っててね。すぐ作るから!」
そう言い残し、私は台所へ向かったものの、胸の内には密かな不安が渦巻いていた。王宮では料理をする機会などほとんどなく、調理実習で触れた程度の経験のみ。だがそうも言っていられず、やると決めた以上作るしかない。
色々物色している合間に見つけた家庭科の教科書にざっと目を通す。簡単かつ栄養が取れて食べやすいもの、この条件を元にページをめくっていると「ポトフ」の文字が目に入った。これなら私にもできそうだと思い、必要な材料を揃え、ぎこちない手つきで作業を開始した。
鍋を用意し、教科書に書かれた手順を参考に野菜を切り始める。ジャガイモの下ごしらえから始めるも皮を厚くむきすぎてしまい、人参を切る際にも力加減が分からず、指を落としそうになり慌てて手を止めた。
深呼吸して再び包丁を握り直すも恐怖が蘇り、結局包丁のみねに左手を添え、押すように切る事にした。どの具材も形は不揃いで、薄すぎたり厚すぎたり、小さかったり大きかったりするが、気にしている余裕はない。なんとか材料を切り終わり、鍋に水と具材を入れ火にかける。
そこへ教科書の指示通りに塩とコンソメを加えたつもりだが、分量が少し怪しいと思ったが、そのまま続けた。蓋をして煮込む間、私は鍋の中を何度も覗き込んだ。野菜が煮崩れかけているのに気付き、急いで火を弱める。味見もしてみたが少し薄い。少しずつ、少しずつ、塩やコンソメを加え、試行錯誤を繰り返していると、ようやくポトフらしい香りが部屋に漂い始める。
(大丈夫、形にはなんとかなったはず……それに少し崩れてる方が食べやすいかもだし……)
そう自分に言い聞かせながら、ポトフを器によそった。見栄えの良さは欠けていたものの、温かい湯気が立ち上り、食欲をそそる香りが漂う。お盆に載せ、慎重に運ぶ私の手は、少しだけ震えていた。
ベッドの上では少女がちょこんと座り、待ちきれないといった様子でこちらをじっと見つめている。
「お待たせ……一応ポトフなんだけど……あんまり自信ないから……その、もし変な味だったら残して良いからね」
そう言いながら器を差し出すと、少女は小さく頷き、手を伸ばして受け取ろうとした。しかし、力が足りないのか、その手は震えている。
「あ、いいよ、私が食べさせてあげる」
少女は少し驚いたような表情を浮かべたが、やがて餌を待つ雛鳥のように小さな口を開いた。
私はスプーンでポトフをすくい、息を吹きかけ冷ましてから、口元へ運んであげる。恐る恐る口に入れ、ゴクリと喉を鳴らした。その瞬間、私の胸は緊張と期待で張り詰める。
「……どうかな?食べられそう?」
しばらく沈黙が流れ、様子を伺う。目を閉じて噛み締めるように味わい、やがて顔をほころばせた。
「美味しい……」
その声はとてもか細い呟きだったたけれど、私にとっては何よりも大きな救いだった。
「よかった……」
安堵と嬉しさが入り混じり、思わず笑みがこぼれる。再び口を開けるのを見て、私はもう一匙すくい上げた。スプーンを口に運ぶたび、頬に少しずつ赤みが戻り、私の心もじんわりと温かくなる。やがて器の中身は空っぽになり野菜ひとつ残らなかった。食欲は問題なさそうだ。
「まだ食べられそう?」
微かに笑みを浮かべ、頷いた。その表情があまりにも愛おしくて、私は思わず小さな頭を優しく撫でる。
不出来な手料理でも美味しいと言ってくれた事、それが何よりも嬉しく、次はもっと美味しいものを食べさせてあげたい。心の中でそう誓った。
時計を見れば、いつの間にか19時を過ぎている。気が抜けた途端、リヒトの言葉が脳裏をよぎり、胸がざわめいた。今夜、そういう展開があるかもしれないと意識した途端、身体中が熱を帯び始める。
(どどど、どうしようっ!?今日このまま泊まっていくのよね!?ということはつまり……なら、そろそろ帰ってくるだろうし、この子と先にお風呂済ませておいた方が良いかも……って違うわっ!!何を考えてるのよ私ぃ!!)
頭の中はぐるぐると空回りし、もはや考えをまとめることすらできない。深呼吸をして落ち着こうと試みるが、むしろ逆効果のようで、一向に収まる気配はない。
(考えてもしょうがない。この子をお風呂に入れる!そのついでに私も入る!ただそれだけのこと。何もおかしいことはないわ!そうと決まれば行動開始よ!)
内なる声で自分を奮い立たせるようにして、私は少女をそっと抱きかかえ、風呂場へ向かった。湯気が立ち込める静かな空間で、服を脱がせ、自分も同じように身を軽くする。冷えた空気が肌を撫で、瞬間的に背筋が震える。
少女の細い髪を優しく濡らしながら、肩、腕、足、そして小さな手のひらまで、一つひとつ丁寧に泡立てて洗い流す。その合間を縫って、自分の身体も手際よく洗っていく。指先が痩せ細った身体に触れるたび、どんな過去を背負ってきたのか、知らず知らずのうちに想像してしまう。全てを洗い終えた頃、少女の肌は真珠のように滑らかに輝いていた。
湯船に浸かると、温かな湯がじんわりと全身を包み込み、冷え切った心の隙間に光が差し込むような感覚が広がった。
少女もまた同じように感じているのだろうか。細めた瞳から安堵がにじみ出て、肩の力がすっと抜ける。その様子にほっと胸を撫で下ろし、私も束の間の平穏に浸っていた。
その時だった――
……ガタン……ドサッ……ガタンッ!
突如響いた不穏な物音に、全身が硬直する。反射的に湯船から飛び出し、何事か確かめようとした瞬間──浴室の扉が勢いよく開かれた。
そこには、肩で息を切らすリヒトの姿があった。額を伝う汗が、焦燥感を物語っている。
「はぁ……無事だったか……どこにもいないから心ぱ──」
パシンッ!!!
無意識に伸びた私の手が、彼の頬を正確に撃ち抜き、その音が浴室に鋭く響き渡る。
「な、なに勝手に入ってきてるのよ!このバカッ!!」
「はぁ?お前何言って──」
「いいから!さっさと出て行きなさいよぉっ!!」
バンッ!!!
扉を閉める音が、怒りを代弁するように響き渡る。向こうで何やら文句を言っているようだが聞きたくない。
(まったくもう……!なんでこんなタイミングで帰ってくるのよぉ……それに、ぜっっったい見られちゃったじゃない……あぁ〜もう最悪!恥ずかしすぎて死にそう……)
湯気に包まれる浴室の片隅で、頭を抱えてしゃがみ込む。湯船の温もりが急速に冷めていくように感じられる中、深いため息だけが静かに響いた。
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