第4話

「おい、黙ってないで早く啼けよ」


 醜悪な笑みを湛え、空気を歪めるほどの威圧感を放つ声が響いた。その手に携えた鞭が振り上げられ、陽の光に照らされる。蹲る少女は小刻みに震え、漏れるすすり泣きすら嘲笑に掻き消されていく。


 ガランッ!


 その時、静寂を裂くように大きな音が響いた。金属版の上で何かが弾むような反響に驚き、動きがぴたりと止まる。鞭は宙に留まり、男は苛立たしげにその出どころを探った。


「……何だ?」


 ガラガランッ!


 眉がピクリと動いた。辺りに走らせるその眼光は闇に潜む獣そのもので、汗ばむ掌が鞭の柄を握り締め警戒する。だが、正体は廃材の隙間を小さな体で這い逃げる鼠に過ぎなかった。


「チッ、ただのネズ─」


 バキッ!


 鈍い音とともに巨体は揺れ、壁際へと弾き飛ばされる。拳が放った一撃は容赦なく顔面を襲い、しがみつくように握られていた鞭はするりと滑り落ちた。濁った水たまりに沈み、波紋が静かに広がる。


「テメェか……」


 薄闇の中から現れたリヒトが鋭い目つきで男を睨みつける。その隙にエイルは裂傷まみれの少女に寄り添い、その冷たく垂れ下がった体を抱き上げる。小さな指先がかすかに反応するが、瞳に映るのは今にも消え入りそうな命の灯火。


「もう大丈夫。すぐに痛みも和らぐから安心して……

 ──煌めく熾天使の極光よ、蒼穹の高みより降り注げ。

 穢れなき調べを紡ぐ翼は、悠久の慈悲を授けん。

 万象を照らす真理の灯火となり、

 生命の歪みを癒やす天命の輝きをこの手に宿せ――《セラフィムグロウ》!」


 手のひらから放たれる翡翠色の輝きが、小さな体をそっと包み傷を癒す。青白い肌は次第に赤みを取り戻し、呼吸も規則性を持ち始めた。幸い欠損個所は無い。このまま治癒を続ければ間違いなく助かる。そう安堵した刹那────


 ズシャァ


 不意に響いた轟音に、集中が一瞬乱れる。だが、再詠唱する時間などない。彼を信じ、治癒魔法を続けるしかなかった。激しい戦闘音が耳をつんざく――肉と骨がぶつかり合う鈍い衝撃音、荒々しく地を踏み鳴らすステップ、押し殺したような息遣い。それらすべてが混ざり合い、破滅へ向かう狂奏曲となって襲い掛かる。


 だがその結末はあっけなく、荒々しい力任せの一撃が、容赦なく彼を捉えた。


「ははっ……どうしたガキ。その程度かよ!」


 男は勝ち誇った叫びとともにマウントポジションをとり、憎悪と嘲笑が入り混じった不快な声を放つ。


「その制服、よく見たらテルミナのエリート様かよ!クハハハッ!……魔法が使えなけりゃこんなにもカスだとはなぁ!まぁ良い機会だ。この世の理不尽を、奪われる痛みを、温室育ちのボンボンが知れてよかったなぁ!」


「……っ!」


 その言葉に胸の奥を灼かれるような怒りを覚えたエイルは、抑えきれず声を荒げた。


「私はそうかもしれない……でもリヒトは違う!お前なんかよりよっぽど辛い目にあってきた!何も知らないくせに、勝手に決めつけるな!」


「エイル、いいんだ。俺は今、恵まれてる……おっさん、何があったかは俺には分からない。けどな、命を弄ぶようなやり方を認める訳にはいかない。苦しませずに済み方法なんていくらでもあったはずだ。でも、今のお前は──」


 ぐぎゅ……


「ガキが……綺麗事ぬかしてんじゃねぇよ!」


 目は獣のように血走り、怒りに任せ首を締め上げる。リヒトはもがき苦しみながらポーチを開きナイフを取り出すものの、汗で滑り落としてしまった。それに気づいた男は転がった凶器を拾い上げ、荒い息をつきながら天高く掲げる。なんの躊躇もなく刃先を鋭く下へ向け、一気に胸元目掛けて振り下ろした。


「リヒトォォッ!」


 叫び声は虚空に溶け、何一つ変えられない現実が冷徹に突き刺さる。胸の奥から湧き上がる恐怖と絶望に飲まれ、目を背け、瞼を閉じる事しかできなかった。脳裏には刻一刻と迫る刃の幻影が容赦なく描かれ、これから起こるであろう現実を映し出す。


 ズシャッ──


 鈍い音が耳を打つ。刺突音でないことに違和感を覚え、私は恐る恐る目を開いた。


「ハァ……ハァ……」


 乱れた息を整えようと、ふらつきながら立ち上がるリヒト。倒れていたのは男の方だった。


「どうして……俺……が……」


 唯一信じていた力にさえ見放され、絶望する姿からはかつての威圧感など微塵も残っていない。ようやく危険が去ったので、私たちは倒れた少女の治癒に専念できた。


「リヒト、大丈夫……?」


「あぁ、大丈夫だ。エイル、お前は?」


「私も……なんとか」


 嘘だった。本当は、今すぐその場に崩れ落ち、声を上げて泣きたかった。震える唇を引き結び、無理に笑顔を作る。


 ふと視線を先に向けると、地面に転がる男の姿が目に入った。その荒々しさも暴力的な気配も、今は跡形もなくただ朽ち果てた倒木のように横たわっている。その周りには数え切れないほどのゲーベンフォルクの子どもたち。だが、その全てが生命活動を停止し、既に骸となってしまっていることは誰の目にも明らかだった。


「やっぱり他の子は…………間に合わなくて……ごめんなさい……」


 涙が零れそうになるのを必死にこらえながら、謝罪の言葉を口にする。今泣いてしまえば、この子も不安にさせてしまう。それだけは絶対に避けたかった。


「……………」


 すると、少女はそっと手を伸ばし、私の頬を優しく撫でた。それが私を慰めるための行動だと気づいた瞬間、押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出す。ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ち、頬を濡らしていた。悔しい、悲しい──ありとあらゆる負の感情が込み上げ、嗚咽を抑えることができない。


「……くっ……うっ……」


 何も言わない、何も語らない。ただじっと私を見つめ、震える指先で涙を拭い取ろうとする。その指先はか細く、今にも折れてしまいそうだった。それが余計に私の心を締め付けて離さない。


「ごめんなさ……ごめん……なさい……」


 言葉は涙に溶け、ひたすらに謝罪だけが口をついて出た。直接的に手を下したのはあの男だ。それは間違いない。だが、その行為に至るまでの環境や原因、その一端が王族である私たちにあることもまた事実だ。システムが生み出した歪みが、この悲惨な状況を招いた。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。むしろ、責め立ててくれた方が楽になれるのではないかとすら感じていた。


 そんな私を諭すようにリヒトがそっと肩に手を置いた。顔を上げると悲しみとも哀れみともつかぬ表情を浮かべ、視線が交差する。


「この光景に憂い、涙を流せるなら……きっと、お前は良い女王になれる。けどな、この子が味わった以上の苦しみや痛みを、今もなお味わい続けている者たちがいる。だから……」


 言葉を一度切り、私の目をしっかりと捉え、離さない。


「頼んだぞ、王女様。誰もが笑って暮らせるような世界にしようぜ。そのためなら、俺は喜んで力を貸すからさ」


 屈託のないその笑顔が、今は何よりも頼もしく感じられた。自然と涙が止まる。彼の想いを無駄にしないためにも、私もここで立ち止まる訳にはいかない。そう強く思った瞬間、不思議と心が軽くなった。


「えぇ、必ず成し遂げてみせるわ」


 もう一度だけ、冷たい地面に横たわる子供たちの亡骸に目を向けた。瞳を刺すような痛みが胸を締め付ける。だが、彼らの犠牲の上に成り立つ平和が、決して当たり前のものでないと知った。私はその悲劇を目に焼き付け、ただの記憶としてではなく、二度と消えることのない誓いとして胸に刻んだ。

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