第3話

 あの日の光景が、胸の奥深くに焼き付いている。


 忘れたくても、忘れられない。どんなに目を逸らそうとしても、その記憶は容赦なく意識を呑み込み、影を落とす。


 現実は残酷で、祈りも願いも全て虚空へと消え、無慈悲な事実だけが存在する。


 この世界がいかに歪んでいて、いかに私たちを試していたのか。彼が何を背負い、何を犠牲にしようとしていたのか。私がどれほど無力で、どれほど愚かだったのか。今ならはっきりと理解できる。だからこそ思う。もっと早く、もっと真摯に向き合えていたなら……過ちを犯すこともなかったのでは……と──



  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



「もう……どこまで行っちゃったのよぉ……」


 吐き捨てるように呟いた声が頼りなく響く。迷宮のような路地裏を彷徨い、昨夜の雨で濡れた土の感触に若干の苛立ちを覚えた。靴底が泥に沈み込むたびに、焦りと不安が絡まり合い、冷たい汗が背を伝う。


 奥へ進むたび、なんとも言えぬ不快な匂いが微かに鼻を刺した。暗がりには何かが潜み睨んでいるような錯覚に見まわれ、足が竦みそうになる。


 しばらくして、ようやく彼の背中が見えた。壁に体を預け、微動だにせず屈むその姿は、普段の飄々とした印象とはまるでかけ離れており、獲物を狙う猛禽のように目を光らせている。吐息すら許されない緊迫感が辺りを支配し、思わず息を呑んだ。


 何を見据えているのか問いかける勇気も出せないまま、足音を殺してそっと近づき、彼の隣に身を潜める。


「静かに」


 低い声が耳を打ち、ゆっくりと彼の指先が示す方向に目を向けた。


 その先に広がる地獄とも呼べる凄惨な光景が、人生の分岐点だと知りもせずに。


 ボロ布に包まれた子供たちが死屍累々と積み重なっている。痛ましいという言葉すら生ぬるい程、小さな体はどれも生傷と血にまみれ、紫色に腫れた痣が無数に刻まれていた。生命活動を停止した者もいれば、微かに震え、痛みを訴える仕草を見せる者もいる。その目は絶望に染まり、生への渇望など欠片も残されていなかった。


 元凶は中心に立つ屈強な男。身なりと状況から察するに、禁止されているはずの奴隷商に手を出したのだろう。衣服は赤黒く染まり、太い腕には錆びついた鞭が握られている。その先端からは肌を裂いたばかりの鮮血が滴り落ち、靴底には押しつぶされたような小さな手形がこびりついていた。


 顔は粗野で彫りが深く、嘲笑とも怒りともつかない不気味な笑みを浮かべている。目は獣のようにぎらつき、狂気に支配され、享楽に突き動かされているようだった。


 今もなお男は子供たちを玩具のように蹴り飛ばし、小さな呻き声が路地に響く。


 赤い液体と水たまりが混ざり合い、道全体が赤黒い小さな河川に侵食されている。冷たい風が吹き抜けるたび、鉄錆臭を漂わせた。咄嗟に口を押さえ目を逸らしたが、目の前の惨状が脳裏に焼きつき、消えてくれない。


 何とか声を抑え、呼吸を整え、ようやく落ち着いたところで絞り出すように呟く。


「……あの子達……もう長くないわね……どうしてこんな……酷いことを……」


「……大方、口減らしだろうな。売れる見込みもない商品は、こうしてストレスの捌け口に使い潰される」


「そんな……」


「怖いよな。追い詰められた人間ってのは……法もモラルも、果てには自分自身さえもかなぐり捨て、どんな手段でも使おうとする。でも、決して他人事じゃない。俺も、お前も、いつこうなるか分からない」


 その言葉に宿る切り裂くような現実感。彼が何を見てきたのか、どれほど多くの理不尽を背負い、痛みに耐えてきたのかをまざまざと思い知らされる。


 私は未熟だ。この時も──今も。自分が如何に無力であるかを思い知らされる。


「じゃあ、行ってくる」


 迷いのない真っすぐな言葉を残し、立ち上がった。このまま、知らないどこかへ消えてしまうのではないか、その恐怖が私を突き動かしたのだろう。気づけば、無意識に彼の腕を掴んでいた。


「待って……何するつもり?」


「決まってんだろ?助けるんだよ」


「やめて……私の目に入った以上、あいつはもう粛清対象よ。それに……あの子たちはもう…………何よりアンタが…………」


 胸の内を吐き出すものの言葉が詰まり、声が出ない。私が何より恐れているのは彼を失うこと。どんな理由があろうと、命が奪われる未来だけは絶対に避けたい。

その一心で、心が張り裂けそうになる。


「かもな。でも、あの子だけなら……まだ間に合うかもしれない」


「それは……そうだけど……」


 言い返す言葉を見つけられず、俯いたまま黙り込んだ。確かに、今なら助けられる可能性はある。でも、その代償が彼の存在であれば同意できない。いつだってそう。どんな危険があっても迷いなく飛び込み、自分の信念を貫く。その強さが私には眩しくて──


「あ……れ……?……ははっ……おかしい…な……」


 気づけば涙が頬を伝っていた。滲む視界の中で、必死に嗚咽を押し殺そうとするが、どうしようもなく溢れてしまう感情に抗えない。私は弱い。虚勢を張り、強く見せなければ立っていられない脆い女。それ以上声を出せば崩れてしまいそうで、歯を食いしばり堪えることしかできなかった。


 その時だった。


「………エイル、俺に力を貸してくれ」


「……え?」


 不意に差し出された彼の手が、私の頬に触れた。温かな指先が涙をそっと拭い、その優しさが胸の奥に染み渡る。弱さを見抜きながらも、責めることなく包み込んでくれる。その微笑みに初めて恋に落ちた時の記憶が蘇る。


「一人より二人の方が成功率は上がるだろ? 俺たちならきっとやれる。それとも、お前は俺を信じられないか?」


 ずるい質問だ。こんな言い方をされて、誰が否定できるだろう。口元に浮かぶ意地悪そうな笑みに、それが確信犯だと気づかされる。涙を拭いながら、彼の気持ちに応えるように小さく頷き、声を絞り出した。


「バカ言わないで。私はノア・テルミナの第一王女、エイル・フォン・ケーニスヒエレよ。民を信じ、導くのが使命。当然、アンタも信じる。でも……命令よ」


「………」


「絶対二人で………いや、三人生きて帰るわよ」


 精一杯笑顔を作り、強がった。泣き顔なんて私には似合わない。


 彼は静かに息を吐き、その目をわずかに伏せた。刹那、心の内に揺れる迷いが影を落としたように思えたが、すぐさまおなじみの飄々とした笑みを浮かべ、軽口を叩いた。


「仰せのままに」


覚悟を決めた私たちは慎重に歩を進めた。闇に溶け込むように音を殺しながら、一歩ずつ距離を詰めていく。男がこちらに気づいていないことを確かめながら、影の中へと身を滑らせ男の背後に回り込み、物陰に身を潜めて様子を窺った。


薄明かりの中、倒れ伏した少女のか細い肩を無情に踏みつける男。傷口に容赦なく鞭が振り下ろされ、乾いた笑いが虚空に響いた。血の匂いが湿り気を帯びた夜気と交じり合い、吐き気を催すほどの重苦しさが辺りを覆う。


胸の奥が燃えるように痛んだ。怒り、哀しみ、そして抑えきれない恐怖が、荒波のように心を飲み込む。もしここで見つかれば、次は自分が同じ目に遭うのではないか……そんな想像が脳裏をよぎるたび、震えが全身を蝕み、呼吸は浅く速くなる。


(ダメよ……しっかりしなさい……私……)


 震える膝はまるで言うことを聞かない。冷気が頬を刺し、どこまでも続くような怒号が私を押し潰そうとしている。目の前の男はただの人間だというのに、得体の知れない化物と相対しているような錯覚に陥っていた。


(早く!……早く抑えないと!……じゃないとあの子も!リヒトも!……全部……全部──)


ぎゅっ


「っ!」


そのとき、不意に手が握られた。振り向かずとも、それが誰のものか分かった。


胸の奥に渦巻いていた不安が少しずつ溶け、温もりがじわりと沁み込む。一人じゃない。彼がいる。それだけで、張り詰めていた緊張の糸が緩み、震えが収まっていく。


深呼吸をひとつ。気持ちを整え、再び男の方へ視線を向けた。もう迷わない。私には、リヒトがいる。

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