第2話
石畳にそっと足を下ろすと、周囲は暖かな夕焼け色に染まっていた。陽の光を浴びた煉瓦造りの建物は、まるで長い時を生き抜き、記憶を語り継ぐ古老のように静かに佇んでいる。幾世代もの人々が行き交ったであろう舗道は、長年の摩耗で滑らかな輝きを帯び、その表面には無数の物語が刻まれているかのようだ。街を包むざわめきは柔らかな風と溶け合い、どこか温もりすら感じさせる。
「さてと、とりあえず広場に向かうか?」
「そうですね。期間限定出店のお店もあるみたいですし、面白そうです!」
一行は賑やかな声を響かせながら、広場へと向かっていた。時計台を中心に露店が所狭しと軒を連ね、鮮やかな果物や繊細な刺繍布が所々に並べられている。行き交う人々の笑い声が重なり合い、どこか牧歌的で心地よい喧騒が広場を包み込んでいた。それほど多くの品が集まれば、好奇心をくすぐり欲望を刺激されるのも無理はない。
「………じゅる」
「……エイル、お前最近太ったって気にしてなかったか?」
「なっ!?ちょっと美味しそうって思っただけで、食べたいだなんて……」
「そうか。じゃあ、三人分だけ買ってくるか。もちろん、お前のは無し」
「待ちなさい!食べないとは……言ってないでしょ……」
「ほぉ?じゃあ、つまりどういうことなんだ?」
「そ、それは……っ!」
視線を横へ逸らし、つま先で小さな円を描きながら顔を真っ赤にして口ごもる。その仕草が、どれほど必死に心の内を隠そうとしているかを物語っていた。
「欲しいなら、欲しいって言えばいいのに。そんなに難しいことか?」
「……いらないし」
ぷいっと顔を背け、踵を返し歩き出す。金色の髪が風に揺れ、怒りとも羞恥ともつかない表情を浮かべ、何処かへ行ってしまう。
「あーあ、リヒトの奴またエイルの機嫌損なわせやがって……」
「ふふっ、本当にそうでしょうか」
一通り会話が終わると、静かに足を動かし一悶着があった場所へ向かい始めた。
その足音に気づいた彼は、片手をポケットに突っ込んだままゆっくりと振り返る。
しかし、視線を交わすことなく再び前を向き直すと、まるで何かをじっと待ち望むように、一点を見つめ続けていた。
「追わなくていいんですか?」
「行かないよ」
「そうですか。では、ここで待つとしましょう」
満足そうに目を閉じ、隣へそっと歩み寄りながら肩を並べる。街のざわめきが遠く聞こえる中、二人の間には心地よい静けさが漂っていた。
しばらくすると、通りからトボトボとこちらに歩いてくる人影が見えた。その金色の髪は微かに乱れ、頬はどこか恥ずかしげに赤く染まっている。
「いらないんじゃなかったのか?」
「別に……アンタの施しを受けるつもりが無かっただけ……はい、これ……」
否定する声はどこか強がっていたが、隠しきれない感情が滲み出している。差し出された紙袋の中には、露天で買ったらしい焼き菓子が詰まっており、ひときわ目を引くハート型の焼き菓子を指先で摘み上げひっそりと渡した。
「おう!ありがとな!」
「っ!?」
その率直な一言に、口元がほんのりほころんだ。しかし、それを誰にも悟られまいと、すぐに顔をそむけて足を早める。後ろを行く彼は、追いかけるでもなく、少し距離を保ちながら静かに後をついていく。二人の間に言葉は交わされない。それでも、目には見えない確かな絆が二人をつなぎ留めていた。
広場を離れるほど、街路の景色は少しずつ様変わりしていく。軒先に吊るされた色とりどりのガラス細工や木彫りの置物が目を引き、焚き火で焼かれる香ばしいナッツの匂いが鼻腔をくすぐる。乾燥ハーブの爽やかな香りが風に乗り、通りを進むたびに目新しい品々が視界を埋めていく。
そんな中、エイルがふと足を止めた。その瞳は小さなアクセサリー屋の店先に釘付けになり、期待に満ちた声が思わず漏れる。
「見て見て!これすっごく可愛い!」
小さな花模様の彫刻が施された髪飾りを頭に当て、嬉しそうに微笑んでいる。華奢な銀の金具に赤い宝石があしらわれ、光の角度によって様々な色に輝いていた。
「ん?あぁ…………まぁ、悪くないんじゃないか?」
「なによその反応……そんなに似合わなかった?」
「いや、そういうわけじゃ……ただ少し──」
「もういいわよ……買わないから……」
髪飾りを名残惜しそうに商品棚へ戻し、足を踏み出しかけたその瞬間、手首を掴まれ引き止められる。
「待てよエイル。これやるよ」
「……なによこれ?」
「お前にはこれが似合うと思ってな」
懐から取り出されたのは、小さな革製の袋だった。そっと手のひらの上に置かれると、微かに革の香りが漂う。恐る恐る袋の口を開き中を覗き込むと、細い銀の鎖に繊細な装飾が施されたブレスレットが収められていた。
「……本当に私に?」
「他に誰がいるんだよ。ほら、つけてやるから腕伸ばせ」
言われるままに細い腕を差し出しすと、慎重な手つきでブレスレットを通される。編み込み加工が施された細い輪に、小さな青い石が埋め込まれていた。白い肌を引き立てる上品な輝きを放つそれに一瞬言葉を失い、瞳を潤ませながら見上げる。
「……ありがとう。すごく、嬉しい」
陽だまりが差し込み逆光に照らされる。普段の刺々しい雰囲気を微塵も感じられない穏やかな口調と、新雪がじんわり溶けゆくような優しい微笑みは、本心をそっとさらけ出すかのように映し出されていた。
「お揃いだ。ほら」
袖をまくり、石違いで同じデザインのブレスレットであることをほのめかす。
「お揃い……二人だけの、ね」
愛おしそうに眺めながら、小さく呟いた。口元が自然とほころび、頬が緩む。自分のために選んでくれたことに喜びを感じつつ、それを包み込むように右手を胸に当てた。胸の奥底で高鳴る鼓動を感じながら、心の底から溢れ出す幸福感を噛み締める。
「良かったですね、姉様」
「べっ!?別に?これはその……ただプレゼントされたから仕方なくつけただけだし?喜んでなんか──」
「じゃあ、エルナはこれな!」
「は?」
「えっ?えっと……ありがとう…ございます……?」
「フィン、お前はこれだ!」
「おぉ、サンキューな!」
他二人にも同じ意匠のブレスレットを渡していく様子に、呆然と立ち尽くす。
「どした?」
「いや……全員分あるのかと思って……」
「当たり前だろ?もちろん、ティナの分もちゃんと買ってあるから心配すんなって!あいつ、こういうの好きだろ?」
「ははっ……そっか……全員お揃い……ね。そうよね、そういうの……仲間らしくて、いいわね……」
虚ろな瞳で虚空を見つめ、独り言のように呟く。抜け殻と化した姉の姿を目の当たりにしたエルナはいたたまれなくなり、そっと耳打ちした。
「そんなに落ち込まないでください。そちらも紛れもなく、姉様のために選んでくださった品であることには変わりません。それに……いつまでもこの関係が続く訳ではありませんからね。悔いの無きよう、一時の悦に身を委ねるのも悪くはないかと」
「……そうね……うん。ありがと」
妹の励ましになんとか気を持ち直し、顔を上げる。まだぎこちないながらも精一杯の笑みを浮かべ、感謝の気持ちを伝えた。
しかし、視界の端にふと違和感を覚える。何かを探すように周囲を見回しながら歩いていたリヒトがふいに足を止め、影の濃い路地裏へと吸い込まれるように姿を消したのだ。
「あっ!ちょっと待ちなさい!!……ごめん、エルナ!すぐ戻るから!」
返事を待つこともせず、慌てて後を追う。胸の奥を微かな不安が締めつけ、気づいたときには全力で駆け出していた。
「……どうか、ご無事で」
その呟きは誰の耳にも止まらず、人混みに紛れ沈んでいった。
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