第2話 幼き日の絆


浮名祐が目を閉じれば、かつての明るい笑い声が脳裏に響いてくる。小さな手が彼女の袖をつかみ、「お姉ちゃん!」と嬉しそうに呼びかける声。弟、祐二がまだ幼い頃、二人はいつも一緒だった。


休日には近くの公園に出かけ、花冠を作ったり、虫を追いかけたり。祐二は祐の後ろをいつも嬉しそうに追いかけてきた。時折、彼女が読む絵本の挿絵を指さして「これ、何?」と聞くこともあった。そんな日々は、祐にとって何よりも大切な時間だった。


「お姉ちゃん、大好き!」という祐二の無邪気な笑顔を、祐は今でもはっきり覚えている。


だが、それも昔のことだ。高校生になった彼は、何かに怯えるように部屋に閉じこもり、祐と話をすることさえ避けるようになった。



祐は自室のデスクに向かいながら、昨日の律水の言葉を思い返していた。「まずは安心感を与えること」──それが彼女にできる第一歩なのかもしれない。


だが、祐にはそれが難しく思えた。弟の祐二は、1年前から突然学校に行かなくなり、家の中でさえも自分を閉ざすようになった。あんなに明るかった彼が、どうしてこうなってしまったのか。


その日の午後、祐は意を決して祐二の部屋の前に立った。ドアの前で手を止め、深呼吸をする。


「祐二、少し話せる?」


ドア越しに声をかけたが、応答はない。祐は少し躊躇いながらもドアをノックし、ゆっくりと開けた。


部屋の中はカーテンが閉められ、薄暗かった。祐二はベッドの上で背中を向けている。机の上には埃をかぶった教科書やノートが無造作に積まれ、部屋の隅にはギターケースが置かれている。


「あのギター…」祐はそのケースを見つめながら、祐二がバンドに夢中になっていた頃のことを思い出した。


当時、祐二は学校の友達と一緒にバンドを組み、ギターの練習に明け暮れていた。初めてステージに立った日の祐二の興奮した顔を、祐は今でも覚えている。


「祐二、またギター弾いてみない?」祐はそっと尋ねた。


だが、祐二は布団をさらに頭まで引き上げるだけで、答えは返ってこなかった。


「わかった、無理に聞いてほしいわけじゃないから…」祐は小さな声で呟き、部屋を出た。


翌日、祐は再び星辰と月夜の庵を訪れた。談話室では、律水がいつものように静かにお茶を飲んでいた。


「浮名さん、弟さんとは話せましたか?」律水は穏やかな声で尋ねた。


「いえ、声をかけたんですが、反応がなくて…。私、どうしていいかわからなくなってしまいました。」祐の声には焦りと戸惑いが滲んでいた。


律水は深く頷き、「無理に扉をこじ開ける必要はありません。心を閉ざした人に対して大切なのは、焦らず、ゆっくりと信頼を築いていくことです。」と語った。


「でも、どうすれば祐二は私の声を聞いてくれるんでしょうか?」祐は必死に問いかけた。


律水はしばらく考え込んでから、「彼が昔、大切にしていたものを思い出してみてはどうでしょう?それが弟さんの心の扉を開く鍵になるかもしれません。」と助言した。


「昔、大切にしていたもの…」祐はハッとした。「ギターですか?」


律水は優しく微笑み、「ええ、そうかもしれません。そのギターは、弟さんにとって過去の喜びと繋がるものです。それを思い出させることで、彼が少しずつ自分の気持ちに向き合うことができるかもしれません。」


祐は帰宅後、祐二のギターを手に取り、部屋の中にそっと置いた。そして、それ以上は何も言わずに部屋を後にした。


翌朝、祐二の部屋を通りかかった祐は、ドアの隙間から小さな音が聞こえるのに気づいた。恐る恐る覗き込むと、祐二がギターを膝に乗せ、静かに指で弦を弾いている姿が見えた。


音はまだ不器用で、ぎこちなかった。それでも、祐にとっては小さな奇跡のように感じられた。


「祐二…」祐は涙をこらえながら、その場で立ち尽くしていた。


彼女の中で、ほんの少しだけ希望が芽生え始めていた。祐二の心が再び開かれる日は、そう遠くないかもしれない。

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