雲煙過眼と成れ・弐
(一)
伊織と氷室、樹の活躍により、南条の名を騙った元那邦の生き残りの企ては未然に防ぐことができた。
しかし、この企ては郷人の生活にも多大な支障を齎し(例えば郷長の屋敷への放火、街道での乱闘によって店の一部の破損など)、事件始末の他、郷への今後の生活補填など事後処理のため、伊織と氷室は数日郷に滞在した。
事後処理の目処がある程度ついたところで、二人は城下へ戻り、伊織は紫月に報告。郷へ下っている間に溜まっていた他の仕事を片付けている内に、更に時は経過し──、気づけばひと月近く休む間もなく伊織は働き続けていた。
そして、やっと。
今日という日に待望の非番を迎えた。
半端に開けたままの書斎の戸口、縁側の向こうには白と濃い紅色の
雪が降る前に睡蓮鉢を玄関まで移すか。あの金魚は氷室が珍しく欲しがって手に入れたもの。寒さで死なせる訳にはいかない。
読んでいた書を片手に、伊織が縁側まで身を乗り出し庭を眺めていると、「冷えるぞ」と頭上から氷室の声が降ってきた。
いつもの片身替わりの小袖に月白色の打掛を纏い、武家の妻女然とした氷室が持ってきたのは薬湯だった。
氷室は戸を閉め、畳に座ると盆から薬湯の器を伊織へ差し出す。器を受け取りつつ、伊織はうっ、と顔中を顰めた。
「
「周の薬はたしかによく効く。よく効くが……、めちゃくちゃ苦くてのぉ……」
「良薬は口に苦し。幼子でもあるまいに。我慢して飲め。飲めぬと言うならあたしが飲ませてやろうか?」
「匙で掬って優し〜く一口ずつ飲ませてくれるなら……」
「馬鹿か。する訳なかろうが。力ずくで口をこじ開け、強制的に流し込むだけだ。そうされたくなければ飲め。今すぐ飲め。お主のためだ」
ほとんど脅迫めいた物言いで、ずずい、と薬湯を押しつけられ、観念した伊織はぐい、と一気に飲み干した。咥内にも喉にも青臭さと苦い後味が残り、えづきそうなのを堪える。
「金平糖が舐めたいのう」
「あたしのならやらんぞ」
「一粒だけでも……」
「ぜ・っ・た・い・に・や・ら・ん」
「あれは元々、紫月様から儂への賜り物……」
「欲しいと言ったら快く
噛みつかんばかりの顔で牽制し、氷室は空の器を盆に乗せようとして、出来なかった。伊織が氷室の膝に頭を乗せ、ごろんと畳に寝転がったのだ。
「主。何の真似だ」
「職務に疲れたし、口の中苦いし、慰めてくれ……、ったああ!?」
間髪入れず、氷室は膝から伊織の頭を振り落とし、器を盆に乗せ、立ち上がる。
「やめろ。打掛が汚れる」
「湯浴みなら毎日しておるが?!」
あー、やかましい……、と、氷室はうんざりと戸を開け、伊織の書斎から去ろうとした。すると、年老いた下女が戸の前に控えていて、二人に来客の旨を報せた。
(二)
客間の上座に鎮座する人物を見るなり、伊織は姿勢を正し、平伏した。
「伊織。面を上げよ。非番の日にすまぬな。そう畏まらなくてもよい」
「はっ!」
派手な女物の小袖を防寒着代わりに羽織り、黒狐の毛皮の襟巻を外しながら、その人物は艷やかに伊織へ微笑みかける。
客はお忍びで傾奇者を装った紫月だった。
「失礼いたします」
盆を手にした氷室が、紫月、伊織の順にそれぞれの手元へ薄茶と茶菓子の饅頭を並べていく。
「氷室、久しいな。其方にも話がある。残れ」
「……はっ」
客間から出ていこうとしていた氷室は、ひとまず入口近くに座した。
「まずは、元那邦の者らの企てを未然に防いだこと、改めて礼を申す。伊織が気づかなければ、無駄に南条の残党狩りに躍起になり、見逃すところであった」
「……勿体なきお言葉に御座います。ですが、此度は防いだものの、南条が滅ぼし、吸収した国は多く、今後も那邦とは別の元属国が尾形に仇なすやもしれませぬ。引き続き警戒は怠らぬよう。不穏な噂が流れたらただちに調査へ向かいますゆえ」
「その時はまた頼む。国内が強固に纏まっていなければ、他国との戦にも勝てぬ」
紫月は姿勢を崩し、悩ましげにため息をつく。
「近頃『白蛇君主』の動向が怪しいらしい」
「あの、白蛇を土地神と祀る小国が……?二十歳を超えるか超えないかの若い領主の」
「そう。先代までは争い事を好まない国だったが、あの白蛇君主は違うらしい。じわじわと周辺の小国を攻め落とし、天下を狙い出したともっぱらの噂」
「尾形とは少し離れた地の国とはいえ、油断はできませぬな」
「私は天下統一などどうでもいい。
「儂も同感です……が」
「「おそらく、二、三年の間に大きな戦が起きる」」
「そこで、だ」
紫月は少し前のめりになり、伊織に眼前まで近づくよう手招きする。
伊織は戸惑いながらも、「失礼……致します」と遠慮がちに紫月のすぐ目の前まで寄っていく。
「伊織。氷室と子を作れ」
「………………は?」
返事ではなく、素で疑問を口にしてしまい、「し、失礼いたしましたっ」と紫月に詫びるも。
「お言葉ですが、あの者を愛妾と呼ぶのは、その方が腹心として傍に置くのに都合が良いからでありまして……」
「わかっておる。だがなぁ、氷室の年頃を考えてみよ。子を成してない武家の妻妾は二十五でお褥滑りとなる。氷室がお前の元へ来たのは十五、それから八年一度も子を成さず。今後、氷室が二十五を超えても子を成さなければ、傍に置き続けるのは周囲の目が少し苦しくなってくるぞ?どうせ、何だかんだ言いつつとっくに手をつけているのだろう?」
「…………御屋形様、昼日中に話すことではございませぬが…………」
「ふむ、否定はしないのだな」
「……あの、ほんっとーにご勘弁願えますでしょうか……」
「私は至極真面目に話している。大きな戦が始まった場合、生きて戻れるかはわからない。そうなる前に、お前の優れた血を残しておいてもらいたい。次代の尾形のためにも」
「……しかしながら、氷室の意思も聞かずしての御命令となりますと……」
「あたしは一向にかまわぬが?」
平然と、呆れすらも交えて氷室がスパッ!と言い放つと、伊織も紫月も彼女を二度見、三度見した。
「ひ、氷室?氷室、自棄になるでないぞ?!」
「別に自棄になどなってない。だいたい、あたしは前からずっと」
「わーーーーーー!?!?言わんでいい!!!!黙っておれ!!!!」
「お?伊織を好いているとでも?」
「いえ、お言葉ですが、違いますゆえ誤解なきよう、御屋形様。たしかに身近で一番信には置いておりますが、
氷室は伊織にちらっと向き直り、これ見よがしに、ハッ!と生温く嘲笑した。
なんじゃその顔と笑い方はっ!と憤る伊織と、つーんと顔を背けた氷室に、紫月はとうとう堪えていた笑いを噴き出した。
「お前たちは面白すぎる。見ていて飽きぬ。そういうことだ、伊織。まあ、ひとつ頑張れ」
「お、御屋形様?!紫月様!!先程の命、何卒撤回を!!」
「武士に二言はないぞ。あと、据え膳食わぬは男の恥とも言う」
「御屋形様ぁぁああああ!!!!!!」
伊織の情けない大絶叫は紫月の無責任甚だしい言葉をかき消し、屋敷中に響き渡ったのだった。
(了)
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