雲煙過眼と成れ・壱
伊織は戦で負け知らずと言われているが、窮地に陥った経験は幾度となくある。
最も足る例は七年前、五度目の南条との戦で本陣に刺客が放たれ、危うく総大将の紫月を討たれかけた時だ。
刺客はまだ若く、短身痩躯に胴丸具足のみの軽装ゆえに身のこなしが異常に速かった。暗殺に特化した修練も積んでいたかもしれない。
紫月を取り巻く家臣たちの動きでは間に合わなかった。樹であれば応戦できただろうが、彼はその時、戦場の乱戦の只中で暴れ回っていた。
『貸せ』
伊織はたまたまそば近くにいた者の大薙刀を咄嗟に奪い取り、紫月に斬りかかろうとした刺客の首の付け根から背中を大きく斬りつけ、薙ぎ払った。
地に落ちた刺客のとどめは他の者に任せ、伊織は大薙刀を握りしめたまま、紫月を広い背に庇う。
『伊織』
『御屋形様。まだ油断召されるな』
『お前でもそのような切羽詰まった顔を見せるのだな』
『は……?』
背後からの、場にそぐわぬ呑気な発言に伊織は思わず振り返る。
深い緋色に金糸の刺繍を施した陣羽織がやや茶味を帯びた美しい下ろし髪、人形のような白い肌によく映える。愉しげに歪む少し下がり気味な眉目、弧を描く薄い唇。右の目尻にある黒子が美しさだけでなく妖艶な印象を与える。
女に生まれていれば男を狂わせる傾城の笑みを浮かべ、紫月は『冗談だ。感謝する。伊織だけでない。この場にいる者すべてに』と、静かに述べた。
『しかし、このような非常事態に置いても、お前はやはり一撃必殺を貫くのか』
『非常事態だからこそ、ですが……』
『本当にそれだけか?』
紫月の試すかのような口ぶり。
笑みは益々深まり、妖艶さも更に増していく。
『お前は優しい奴だ。なるべく苦しまないよう、ひと思いに、が本音であろう?』
『さあて、どうでありましょう?』
伊織もまた表情を崩し、いつもの締まりのない顔で切り返したのだった──
一瞬にして三人同時に斬り伏せた伊織に怯み、襲撃者たちの攻撃の手が緩む。
その隙に氷室は、受け止めていた二人分の刃を跳ね返し、伊織の側へ駆けつける。
氷室と背中合わせ、打刀は構えたまま、伊織は得意げに笑う。
「……にしてもじゃ。見事なまでにかかったのう」
伊織の余裕とも取れる発言に、氷室も襲撃者も一斉に彼のだらしない笑みを凝視する。
「そこの者。お主、奉行所で働く者であろう?昼間に儂や郷人と共に、廃神社の隠し金探してくれていた」
「…………」
「お主、あの時氷室の不在を問うたな?左程関わりのない大抵の者はな、氷室が儂の側にいようがいまいが特に気にはせん。端から見たら、
廃神社で伊織は『氷室は疲れて寝ている』と彼に嘘を伝えた。
その意図は、彼女をお救いの小屋へ潜入させたことを悟らせないため……、以外にもう一つ。
昼日中から寝る程疲れているようでは、万が一の襲撃を躱すのは難しい。
襲撃するなら今夜だと思わせるため。昼間、氷室の不在を指摘した男は全身を驚愕で震わせる。
「ま、まさか。あれも、わざと、だったのか……?」
「ん?何がじゃ?」
「『御屋形様へのご報告のため、今宵馬を走らせ、朝までに城下へ戻る』と奉行へ申していたことだ!それも我々をおびき寄せるためか!」
「全員誘き出せなかったのは惜しいがのう。まあ、お主らを成敗すれば芋づる式に残りも捕縛できる」
「はっ!!出来るものならなっ!!我らの企てを邪魔する者は誰であろうと始末あるのみ!!」
「おーおー、怖いのう、怖いのう。あ、そうじゃ。ちなみにこの娘、何を隠そう那邦の二の姫だが?」
気の抜けた喋り方で、さらっと、ぽろっと、伊織は氷室の素性を口にした。
たちまち氷室は、能面は能面でも般若顔に変わり、襲撃者ではなく伊織の首を掻き切ってやりたい衝動に駆られ……るも、冷たくも激しい怒りを抑え、低く問う。
「……貴様、何のつもりだ」
「えっ、いやあ、
「はっ、二の姫が正当な血筋だと?。正統なる那邦のお血筋は今は亡き
『お湯殿の姫』との言葉に、氷室の目つきが険しさを増す。
都の神職から迎えた正室腹の月白姫と、那邦氏が入浴中手をつけた侍女(のちの側室)腹の氷室を比べ、蔑み、陰でそう呼ぶ者は確かにいたし、幼い氷室自身もその言葉を耳にしていた。伊織に話した、面白くないこととはこの蔑称についてだった。
枕詞のようにせめて男児であれば、という言葉も必ず続き、泣いて悔しがっては義姉によく慰めてもらっていたものだ。
「ほーお、利用価値とな。お主らの真の目的はかつての主家の再興、ではない。主家の名を借りた略奪行為。笑わせるのう。本当に主家を再興したくば、儂なら
伊織は心底呆れていると、肩を竦める。
軽い口調で阿呆呼ばわりされ、襲撃者たちの怒りに油が注がれていく。
「阿呆はお主じゃ!喧嘩売ってどうする!」
「氷室ぉ、そう怒らんでくれ~。儂とて腹が立てば口も悪くなる」
「どこがだ。腹を立てている奴がそんな情けない顔するものか」
「信用無いのぉ~。儂、久々に腸が煮えくり返っておるのに~」
言ってろ、と吐き捨てようとして、氷室は言葉を飲み込む。
襲撃者たちが二人に斬りかかってきたこともある。が、伊織の顔から笑みが消え去り、犀利な眼光で鯉口を切る様に臆してしまったのだ。
伊織は抜刀と共に二人同時に斬り捨て、間を置いてまた二人斬り捨て。血糊を払い、襲撃者の輪をなぞるように突きつけた切っ先をぐるり、順に巡らせる。その顔から一切の表情が消えていた。
刃を向けつつ、じりじり、さりげなく後ずさる襲撃者たちへ、伊織は淡々と告げる。
「何が那邦の再興じゃ。国を興す気なら
伊織の眼光に更に鋭さが増し、長身も相まって凄まじい気迫を放つ。
襲撃者の中には伊織の気迫に圧倒され、明らかに腰が引け始める者まで現れだす。
「
「へっ!偉そうに語ってやがんなぁ!!」
聞き慣れた叫び声が襲撃者の後方よりこだまし、次の瞬間、彼らの頭上高く跳躍する大きな影。
影は輪の中へ飛び降り様、豪快に太刀を振りかざした。
「樹!郷は……!」
「郷は無事だ!おめーがいた屋敷以外は襲われてない!だからここまで間に合ったんだっての!ったくよぉ、うだうだうだうだ、くっちゃべってないでこいつら斬るならさっさと斬れよなぁ!おめーはほんっとーにまだるっこしいんだよ!!伊織!」
姿勢を低めて着地、足払いをかけては樹は襲撃者を躊躇なく斬りつけていく。
「あたしも樹殿と同感だ。変な遠慮なんてやめろ。こいつらは那邦とはもう関係ない」
「氷室」
「あたしはとっくに尾形の人間だ。尾形の敵はお主の敵であり、あたしの敵だ。樹殿!加勢する!」
大立ち回りを演じる樹と襲撃者の中へ飛び込んでいく氷室へ伸ばしかけた手を、伊織は引っ込める。
「やれやれ、二人とも喧嘩っ早いのう」
これは加勢しなければ、夜が白み始めても終わりそうにない。
そう判断すると、伊織も乱闘の只中へ飛び込んでいった。
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