苦い真実

(一)


 夜の帳が下り、宵の時間も過ぎた頃。

 ずっと寝たふりをしていた氷室は再び静かに起き上がると、懐の中から薄紙を幾重にも重ねた包みと火打石を取り出した。

 遊び女特有のゆったりした小袖の着こなしは道具を持ち込むのに便利だ。加えて、病持ちの振りをすれば誰も触れてこない。

 何重にも重ねた包みを開き、親指程の大きさの細かい木片──、特殊な香木の欠片に火打石で点火する。木片に煙が出るより先に氷室は袖を口元に宛がい、速やかに廊下へと抜け出す。


 素早く、静かに、木片を各部屋へ、通り過ぎ様投げ入れていく。

 この香木には即効性及び強力な催眠作用があり、お救い小屋程度の広さなら欠片が数個あれば効果は充分発揮される。そうして屋内を一巡したのち、闇に紛れて屋外にも香木を投げ置いていく。


 襤褸の小袖に少し香りが移ってしまったが、この程度の香りなら耐性のある氷室にはまったく効かない。皆を眠らせている内に、と、お救いの小屋内外の本格的な探索を始める。


 雑魚寝部屋一つ一つの室内、眠る人々を避け、あらゆる戸を開けては証拠品を隈なく探す。床下や天井裏に隠していそうだが、案外室内のどこかに隠し持っている可能性も高い。

 また、床下や天井裏はいざとなれば逃げやすいが、室内の場合逃げ遅れるかもしれない。眠らせた直後なら危険な場所から始めた方がいい。


 雑魚寝部屋の次は、お救い小屋の手伝いを行う男衆の居室。

 これまでに入った決して清潔とは言い難い、埃と黴、腐臭漂う雑魚寝部屋とは違い、男衆の部屋だけは清潔が保たれた書院造の八畳部屋だった。いる筈の男たちの気配は……、ない。

 警戒心が一気に跳ね上がった時、廊下から複数名の足音が近づいてきた。

 氷室は咄嗟に付け書院の引き戸を開け、中に身を隠した。


 狭い付け書院の中、息を潜めていると部屋の戸が開き、男衆が戻ってきた。

 足音の数や衣擦れ、畳に座った気配から数は四人。


「……くそっ、廃神社の金品はすでに奉行所が持って行っただと!」

「だから言っただろう?金で雇った無法者に任せぬ方がいいと」

「これまでは上手く隠しおおせていたのだが……。噂通り、あの軍師の勘の鋭さは本物らしい」

「感心している場合か!」

「大きな声を出すな。寝ている者たちが目を覚ますぞ」

「多少は問題なかろう。今夜に限っては皆、死んだかのように深く眠っている」

「しかしだな……、ここの隠し金も遅かれ早かれ見つかるだろう」


 神妙な空気が流れ、室内が沈黙に満たされていく。


 まずいな。

 香木の香りは効果の割には微香性。匂いに気づかれるより先に睡魔が襲ってくる。

 中途半端に話しが途切れた今、彼らが会話を再開するか、眠気によって奥の寝室へ入ってしまうか。

 現に一人、二人と、あくびを噛み殺しているようだ。氷室の内心に苛立ちと焦りが差し込んでいく。


「否、隠した金品が見つかるよりも、我々の企てを邪魔される訳にはいかぬ。絶対に」

「そうだ。かつての祖国・那邦なほうを滅ぼした憎き南条の名を騙ってまで立てたのだから」


『那邦』の名に氷室は瞠目し、片手で口元を強く押さえた。そうしないと、唾を飲み込む音が引き戸越しに聞こえてしまうかもしれない。

 動揺を必死に抑え、音もなく付け書院の引き戸を、気づかれない程度に薄く開ける。今にも消えるか消えないか、薄っすらたよりない白煙上る最後の木片を開いた隙間に差し込む。


「……いかん。今宵は疲れているらしい。頭がうまく回らぬ」


 男衆の一人がぽつり、絞り出すようにつぶやくと、それが合図かのように、彼に同調する者、大きなあくびをする者が現れだす。遂には「まともに回らぬ頭で考えても埒が明かん。今宵はひとまず眠ろう。ひとまずの手も打ってある」との一声をきっかけに、全員がぞろぞろ、奥の寝室へ下がっていく。


 寝室との境の襖越しに全員が眠った気配を悟ると、氷室は速やかに脱出した。

『那邦』の名への動揺はなかなか収まらないが、伊織の下へ辿り着くまでには収めなければ。


「……父上、母上。…………義姉ねえ様」



 那邦は名の知れた神社であり、氷室の父は那邦神社の神官かつ、土地を治める領主だった。

 土地を守るための兵力は持ちつつ、那邦は神に仕える者の国として、いかなる大名たちも手出しせず。乱世の只中とは思えぬ平和を享受していた。

 十五年前、氷室が数え八歳の時、南条家に侵略されるまでは。


 南条から持ち掛けた和平の条件──、氷室の腹違いの姉、月白げっぱく姫を人質に差し出すことを、父・那邦氏が受け入れ、一度は停戦となった。しかし、その和平は二月ふたつきと経たずして南条側から破られ、那邦は再び攻め込まれた。


 氷室は覚悟を決めた父によって、平民の子供に扮させられ、落城直前に脱出させられた。結局は乱取りに遭い、流れ流れて、南条の忍び一族の元へ売られてしまったが。


 時同じくして、義姉・月白も南条領主に強引に側室にさせられ──、後ろ盾のない敵方の姫として周囲から散々冷遇されたあげく、数年後に病で世を去った。


 南条に身を置いていた頃の氷室は、那邦での幸せな日々も、優しく美しい義姉のことも思い出せなくなるほど、常に血反吐を吐き、地獄とも言える日々を生き抜くのに精一杯だった。

 八年前の数え十五の年、伊織に尾形領へ連れてこられなければ。比較的平穏な日々を過ごすことがなければ。

 己の本来の出自も、慕ってやまなかった義姉のことも一生思い出さなかっただろう。


 だからこそ、彼らが本当に那邦の武家の生き残りで、(滅びたとはいえ)仇敵・南条の名を使ってまで不穏な計画を立てているのが……、信じ難かった。






(二)


 そろそろ亥の刻から子の刻午後十一時頃に変わる頃だろうか。

 郷長の屋敷に併設された四畳半の茶室。燈明で部屋を明るくし、伊織は自ら立てた茶を嗜んでいる。


 就寝前ゆえに袴は穿かず、浅黄色の小袖のみを着用。寒さを防ぐため、濃紫の胴服紐付きの長場織を羽織ってはいるが、深夜の冷え込みを凌ぐには少し厳しい。

 温めた酒でも飲んでさっさと眠った方が賢明。賢明ではあるが──、どうにも胸騒ぎがして寝る気になれない。

 そもそも、実は伊織、言う程酒が好きではない。茶の方が余程好きだ。上手い茶を立てられた時など、戦で作戦が成功した時よりもホッとする。


 などと、どうでもいいことを考えつつ、茶をひと口啜り、正面の戸口へ視線を向ける。すると。


「珍しいのう。何を焦っておる」


 やはりと言うべきか。


 伊織の胸騒ぎ、というか、勘は見事的中。

 乱暴な割に音は立てず、息を乱した氷室が戸口に姿を現した。


「別に焦ってなどいない」

「そうか」


 それ以上は何も言わず、伊織はまたひと口、茶を口に含む。

 悠長とも取れる伊織の行動を見つめたまま、氷室は黙って立ち尽くしたままでいる。


「報告がある」

「儂の勘は当たったか」

「半分当たって半分外れだ」

「ほーお?」


 ことり、茶器を置き、氷室へ対面へ座るよう、促した。

 しかし、氷室は頭を振り、動こうとしない。


「氷室。化粧で身体中痒いであろう。あそこの桶の水を使うといい。湯でなくて悪いの」


 伊織は戸口の側にある手桶に目線を送ると、茶器をもう一度手に取り、くるり、背を向ける。

 ほんの一瞬、氷室は戸惑ったが、「……かたじけない。失礼する」と、組み紐の帯を解き、襤褸の小袖をその場で脱ぎ捨てた。


 ちゃぷり、ちゃぷちゃぷ、水音を立て。

 氷室は素裸で上がり框の縁に座り、手拭いで全身の化粧と汚れを拭いながら、伊織と背中を向け合い、報告を続ける。


「お救いの小屋を手伝う男衆は、昨夜の廃神社の連中の仲間だ。連中が話しているのを確かにこの目で、耳で確かめた」

「そうか。他には?」


 氷室の言葉と動きが再び止まる。

 水音と身体を拭く音はすぐに聞こえ始めたが、話はなかなか始まらない。

 伊織は急かすことなく、話の続きを黙って待つ。


「……噂では南条と言われていたが、違った」


 しばらくのち、やっと話が始まったところで、伊織は思わず氷室を振り返る。氷室も同じように伊織を振り返っていた。

 氷室は手拭いを手桶に雑に放り込むと、一糸まとわぬ姿のまま、伊織へと近づいていく。


那邦なほうの生き残りだ。十五年前、南条との戦で捕虜となったのち従属した者たちだろう」


 拳を握りしめ、氷室は伊織を睨み下ろした。凄惨なまでに冷たく、鋭く、哀しい目で。

 伊織は氷室を無言で見上げていたが、ふっと目を逸らし、自らの胴服を脱いで氷室に差し出した。


「冷えるであろう」

「平気だ」

「少しは恥じらわぬか。目のやり場に困る」

「何を今更。もう見慣れた癖に?」


 氷室の目から哀しみが消え、皮肉を込めた笑みらしき表情へと変わっていく。

 伊織は氷室の問いに無視を決め込み、面白がる顔から徐に背中を向ける。小さく鼻を鳴らす音に、氷室が大変珍しく笑っていることが伝わってくる。

 振り返りたくなったが、からかわれるのも癪なので背中を向けたままでいることにした。

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