昔がたり・弐(三)(☆)
(一)
青緑色に染まった池でぱしゃり、飛沫が跳ねる。
水面に浮かび上がった鯉が物欲しげに口元をぱくぱく動かすも、縁の茂みに隠れて膝を抱える紫月は──、否、この頃は幼名の月若と呼ばれていた──、月若は、お前たちの餌など持ち合わせていない、と首を振る。
本当はこんなことをしている場合じゃない。
もうすぐ古典を師事する僧侶が屋敷へ訪れる。今の内に自室へ戻り、待機していなければならない。
今頃、
しかし、皆には悪いけれど、月若はどうしても戻る気になれなかった。
何の邪気もなく餌を求めてくる鯉たちに、お前たちに何かを求められたところで……、卑屈になってしまった心に拍車がかかっていく。
『見つけた!こんな場所にお隠れになって』
頭上に影が差すと共に、少女の声が降ってくる。
どきり、動悸が走る共に、声の正体が蘇芳であったことにほんの少しだけ安堵した。
樹と伊織は六つ、周とは九つも年が離れているため、彼らは家臣であると同時に月若にとっては兄のような存在だ。彼らは領内の若衆の中でも特に武芸も学問も秀でており(ただし、樹の場合、武芸は突出しているが学問についてはやや怪しい)、月若は密かに強い憧れも抱いていた。ゆえに、弱く情けない姿を見せたくなかった。
とはいえ、見つかった相手が蘇芳でホッとしたのは瞬きひとつの間だった。
樹たちに情けない姿を見られるのとは別の意味で恥ずかしく、気まずい。
兄の樹と同じく、蘇芳も幼い頃より月若の屋敷へよく出入りしている。
小柄な体躯に小栗鼠みたいな顔立ち。美しいとか綺麗とまではいかなくとも愛らしい見目に気立ての良さも手伝い、皆から可愛がられていた。
かく言う月若も、二つ違いと年の近い蘇芳には誰よりも親しみを持っていた。
強い思慕と憧憬の対象であった実の姉・杜緋が他国へ嫁ぎ、寂しさの余り塞ぎ込んでいた時もそう。叱咤する者ばかりの中、蘇芳だけは月若の気持ちに寄り添い、慰めてくれた。
けれど、近頃の月若は蘇芳にも落ち込んだ姿を見せたくないと思うようになってしまった。だから人目につかない場所に隠れていたというのに。
上から覗き込む蘇芳から月若はさっ、と目を逸らし、そっぽを向く。
一人にして欲しい、そっとしておいてくれ、と、露骨に態度で示す辺り、自分が如何にまだ未熟な子供なのかと思い知らされる。
『
月若の素っ気ない態度など意に介さず。
蘇芳はわざわざ茂みの中へ分け入り、隣にしゃがみ込む。
そうだ。彼女は、あのぶっきらぼうで口の悪い樹の妹。
ちょっとやそっとの素っ気ない態度など柳に風。気にすらなっていないかもしれない。
『杜緋様が恋しくなられました?』
『わ、私はもうすぐ十二だ。さすがに姉上がいなくて寂しがったりなんかしない』
『でしたか』
蘇芳は短く納得したあと、そっぽを向いたままの月若の横顔をじっと見つめてきた。
少し茶色がった美しい髪、都人形を思わせる真っ白な肌。
やや下がり気味の眉目、弧を描く薄い唇。右の目尻にある黒子が、幼いながら妖艶な印象を与える。
女に生まれていれば傾城と成り得た。
そう揶揄される月若の美貌に蘇芳は見惚れている訳じゃない。本当に心の底から月若を案じている。
『母上に、年が明けたら……、出家するようにと……、命じられました』
蘇芳は返事もしなければ、相槌も打たない。
只々、真剣な眼差しで続けるよう、無言で促す。
『私は、国のため、民のため、引いては父上や義兄上のお力になりたくて、学問も武芸も精進してまいりました。なのに、なぜ……』
今年の城での正月行事の際、紅陽から投げつけられた言葉が脳裏を過ぎる。
『いい気になるな』
『わかっているぞ。お前が私から次期領主の座を奪わんとしていることを。そのために、優秀な高僧から様々な教えを乞うているのであろう?子供とはいえ、食えない奴じゃ』
違う、そのようなつもりは一切ない。
真っ先に反論したかったのに、舌がもつれ、音となる前に言葉がむなしく消えていく。
『お坊様に成られた暁には、民とより近い立場で向き合えるかもしれませんよ?』
『それはそれで、領主様や紅陽様、国への助力へと繋がっていくのではないでしょうか?』
大変差し出がましいことを言いました、と、最後申し訳なさそうに述べた蘇芳に、月若は大きく頭を振ってみせる。
国のために尽くしているのは何も武家だけじゃない。
むしろ武家以外の者が国を成り立たせている。
『あ、謝ることなどないっ。どうやら、私は少し思慮が足りなかった。蘇芳のお陰で考え直せそうだ』
月若は美しい所作で立ち上がり、髪や着物についた葉っぱを払う。
やや色の薄い双眸から絶望と不安が消え、聡明さが戻っていた。
『それは良うございました!』
しゃがんだまま、月若を見上げた蘇芳は、パッと表情を明るくさせる。
その笑顔に照れつつ、寺へ入ったら蘇芳と会えなくなると思うと、杜緋が嫁いだ時とは違う寂しさや切なさが月若の胸を去来した。
(二)
男たちが酒席で盛り上がる中、厨では女たちが動き回っている。
絶えず火を焚き続ける竈の前、鍋を掻きまぜたり、煮物を煮込んだり、野菜を次から次へと切ったり。
酒宴が始まるまでは樹が主になり料理をしていたが、彼が接待に入ると蘇芳が厨を仕切っていく。寒い季節だというのに汗をかき、独楽鼠のようにくるくると絶えず働き続ける。
「皆そろそろ休憩してきなさい」
「蘇芳様、ですが」
「料理は大体出揃ったわ。あとは、柿と、追加のお酒をお出しすれば、忙しさも一旦落ち着くもの」
竈の横、流し台に併設された物置台にて人数分の柿を剝きながら、「ほら、私にかまわないでいいから」と苦笑し、厨を出るよう蘇芳は女たちを促す。始めは戸惑っていた女たちだったが、やがて、遠慮がちに厨をひとり、ふたりと後にしていく。
完全に一人になると、蘇芳は疲れたように肩で大きく息をつく。思いの外、大きな嘆息に、あわや外まで漏れてしまうのでは、ぎくり、誰もいない筈の厨を見回してしまう。
そう、誰もいないのにね。
自分に呆れ、何個目かわからない柿を剥こうとして、思わず手が止まる。
厨の入り口は竈と流し台のすぐ傍にあり、蘇芳が立つ場所とはほとんど目と鼻の先と言っていい場所にある。その戸口に凭れるようにして、紫月が立っていた。
「柿を剥くのを手伝ってもいいか?」
虚を突かれ、蘇芳が答えあぐねている隙に、柿の入った籠の傍、無造作に置かれていた包丁を紫月は手に取った。
「まあ!いけません!紫月様にそのような真似させられません!!万が一お怪我でもされたら」
「料理なら寺にいた時に作っていた。包丁の扱いは意外に上手いぞ?」
「そういう問題ではありませんっ」
すかさず包丁を取り上げようとするが、紫月はわざと蘇芳の手が届くか届かないかの位置で柿を剥き始めてしまう。飛びつけば届かなくもない高さだからこそ、質が悪い。
手際よく、するすると皮を剥いていく紫月の両手を恨めし気に見上げていると、「ほら、私の動きを見ている間に全部剝き終わってしまうよ?」と煽られる始末。
蘇芳は包丁を取り上げるのを諦め、あえて不機嫌を装って再び柿を剥き始める。
「……随分と意地悪に成られましたね」
「いつまでも素直で聞き分けの良い子供のままでは、領主など務まらぬだろう?」
それきり会話は途絶え、二人分の包丁を動かす音だけが厨に響く。
しかし、不思議と沈黙は気にならず、却って心地良い空気を生み出していた。
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