昔がたり・弐(二)(☆)
一方、時同じ頃。
米の収穫を終え、年貢納めを迎えたこの時期。
各郷では、その地を治める知行役と郷長含む選ばれた郷人三十人ほどで酒宴が開かれる。約一年間農作業に勤しみ、時に戦にも駆り出される民への労いを込めた、知行役からの接待だ。
接客の場である主殿にて、火が焚かれた中央の囲炉裏を大勢で囲み、運ばれてくる酒や食事に舌鼓を打つ。
今ばかりは支配層の武家・被支配層の農民という隔たりを払い、無礼講と化している。特に、この地の知行役の樹は元々民への態度が気安い。そこへ持ってして、酒が入れば互いへの遠慮がなくなっていく。
「おめーらよお、いいかぁ?今日出した飯は残さず食えよ?残したら承知しねぇぞ?俺や蘇芳が作った飯食えんとは言わせねー!」
盃ではなく五合徳利に直に口をつけ、樹は豪快に喉を鳴らす。完全にデキ上がっている。
「残さねーですって!こんな馳走、年に一度のこの酒宴でしか食えねぇし」
「全部美味いけど、特に刺身と山菜飯がな、箸が止まらねーですよ!」
「おー、そうかそうか!ならよしっ!」
デキ上がっているのも手伝い、樹は大口開けて破顔した。破顔しつつ、「白米じゃなくて悪ぃけどよ」と、首を竦める。
「麦飯の方が体に良いって周も言ってたしよぉ。長生きしたけりゃ、白米より麦飯食えってな」
「それは良きことを聞いた」
穏やかに凪ぐ春風のように、ふわり、甘やかな優しい声が樹の耳をくすぐった。
酒宴の喧騒に掻き消されそうな、控えめな声なのに、たしかにはっきりと。途端に樹から笑顔が消える。
「つーかよぉ、てめーはいつまで居座る気なんだよ?いい加減帰れ。城でやること山のようにあるんだろうが」
「家臣が優秀な者揃いだからね。私が一日くらい城を空けても支障はない」
は〜ああぁぁ?と、露骨に顔中顰める樹の隣、何食わぬ顔で料理に箸をつけているのは、何と領主の紫月だった。
髷を結うには長さが到底足りない、伸ばして半年の髪を隠す頭巾も被らず。無地の浅葱色の小袖、鈍色の袴(どちらも古着で年季が入っている)という恰好だけを見れば、庶民と変わりない。
だが、中途半端に伸びた髪を晒そうと、質素な恰好をしようと、生まれながらの美貌が只者ならざる雰囲気を生み出してしまう。そのため、お忍びで酒宴に参加して早々、紫月の正体は郷人に気づかれてしまった。
しかし、立場や美貌に反しての気安い態度、庶民の舌に合わせた濃い味付けの料理を実に美味そうに食べる様子。加えて、とても領主に対するものとは思えぬ、樹の紫月への砕けた(砕けすぎた)態度などを目にする内に、郷人の緊張もほぐれていき。
一刻を過ぎた現在、酒宴は大盛況だ。
「この刺身も美味いな。樹が捌いたのか?」
「まあな……って、毒見してねぇ刺身率先して食う領主がいるか!馬鹿野郎!!万が一、おめーの身に何かあったら、俺と蘇芳の首が危ねえんだぞ!?」
「ん?その時は、この酒宴のために鯉を送った周も連帯責任で切腹だなあ。最も、伊織も含めて、お前たち三人が共同運営する郷だからこそ、安心して皆と寝食共にできるのだよ」
花が開くような笑みを零しながら、紫月がそう言うと、郷人は口々に「ありがてえ、なんてありがてえお言葉だよ……」「領主様がそんなにオレ達を信頼してくださるとは……」と一様に感激する。樹はと言うと、けっ!とすっかり鼻白んでいる。
「相っ変わらず、うまいこと人の心掴みやがる」
「そうでなければ、上には立てないだろう?お前も掴まってくれたから私に従うのだろう?」
「あ?んなもん、うつけの上に色惚けクソ野郎の紅陽よりか多少はマシだと思ったからに決まってんだろうが」
自惚れんなよ?と釘を差す樹に怒るどころか、紫月は益々笑みを深めていく。
老若男女、誰もが見惚れる微笑みを間近にしても、樹が他の者のように頬を赤らめることはない。おそらく樹同様、紫月の笑みに周と伊織も特に感じ入ったりしない。彼が生まれた頃より知るゆえ、その美貌に見慣れているからだ。
己の美貌に惑わされないという点もまた、紫月がこの三人への信頼を深くする理由の一つである。
「皆様、山菜飯のお代わりお持ちしましたよー!たっくさんいただいてくださいませ!」
襷掛け姿の蘇芳が大きな木桶を抱えて主殿へ入ってきた。彼女の後には、屋敷の下女と、酒宴参加者の妻たち数名が根菜の汁物の碗を運んでくる。最後尾は九歳になる蘇芳の娘、桔梗だ。
蘇芳は次々とお代わりを求める客人の間を忙しくなく行き来し、他の女たちは汁物を順に席へ配膳していく。桔梗も幼いながら慣れた動きで汁物を配っていき、上座の樹と紫月の元へもやって来る。
「伯父上どうぞ!」
「おお、すまねぇな」
「領主様、どうぞ!!」
「うむ、かたじけない」
樹の半分ほどしかない小さな手で、桔梗は碗を二人の膳へと乗せていく。
大人と変わらぬ危なげない動きに、紫月が感嘆し、樹が自慢げな顔をしていると。
「伯父上。領主様がいらっしゃるのに、どうして
「あぁ?」
「伯父上と同じ席でも無礼にはならないのですか?」
悪気など一切なし。心底不思議そうに問う桔梗に、樹は答えに窮し、一瞬言葉を詰まらせる。が、すぐに「いーんだよ、かまわねぇ。今日は無礼講だからな」と、絞り出すように答えた。
「でも……」
「いいったら、いいんだよ。蘇芳も特に用意しろって指示してないだろ?」
「桔梗殿。私がいいと言ったんだよ。高座に座ったりしたら、皆に余分な緊張を強いてしまうかもしれないと思ってね」
一旦は口を噤んだものの、桔梗は明らかに納得しきれていない。
更なる追及の言葉を探しつつ、下座から蘇芳に呼ばれたため、二人の前から去っていく。
「なかなか抜け目ない娘に育ったなぁ」
「まあな。聡いだろ?」
「蘇芳殿に似たのであろう」
ああん?俺に似たって言わねぇのかよ、と噛みつきかけて、やめる。
蘇芳本人も『桔梗は私一人の子ですから』と、穏やかに、けれど、はっきりと言い切っている。
複雑な出自、しかも因縁深き紅陽の血を引いていても、樹も蘇芳も桔梗を大切にし、どこへ出しても恥ずかしくないように育てている。
それでも、『追放された前領主嫡男が家臣の妹を凌辱して産ませた子』という立場は、桔梗の将来に影を落とす可能性が高い。桔梗だけではない、蘇芳にも兄としてそろそろ幸せになってもらいたいのだが……。
戦続きの世、若くして夫を亡くす女性は多く、再婚、再々婚を繰り返す者も珍しくない。また、経産婦は出産能力を見込まれるため、妻や妾にと望まれやすい。
紫月が領主になって以降、紅陽の存在を気にしなくてよくなったからだろう。
蘇芳への縁談話がぽつぽつと舞い込むようになっていたし、その中のいくつかの話を樹も彼女へ勧めたりもしていた。その時に言われてしまった。
『義兄上が軍事訓練で屋敷を空けている間、一体誰が家を守るのですか?』
『奥方を迎えられるのでしたら、縁談はお受けします。ですが、義兄上にそのおつもりなどないのでしょう?』
痛いところを突かれ、それ以上は縁談話を勧めることができなかった。
蘇芳の言う通り、樹が妻を迎えることが一番の解決の近道だろう。
一応は家の当主でありながら、二十七になっても独り身ということ自体がすでに武家の社会において常識的ではない。
けれど、樹に結婚する気がないことは彼なりに理由がある。
与えられた職務柄、一年のほとんどを家を空けることになる。更に戦が始まれば、数か月家を空けることなんてザラだ。
そんな自分が夫の役割などまともにできる気がしなければ、相手の女性と夫婦としての信頼関係を築けるとも思えない。なのに、家だけ守れ、と言うのも随分虫が良い話では、と思う。
妻は跡継ぎを得るため、家を守らせるために娶るもの。世の中の男、特に武家にとってはこれも常識である。樹はこの常識がどうにも気に食わない。女は道具じゃねぇんだよ、と、その常識に唾を吐きかけたくなる。
そう考えるのは、本来の主君であった筈の杜緋が辿った運命への反発心によるものだろう。
これも武家にあるまじき非常識だが、樹自身、家など正直どうでもいい。
屋敷だって売り払ってかまわないとさえ考えているが、蘇芳たちの居場所を残しておきたいし、屋敷で働く者たちを路頭に迷わせる訳にもいかない。が、今は、その家が樹と蘇芳の双方を縛っている気がしてならなかった。
「……様、樹様。伊織様より干菓子が届きました」
下女から知らせを受け、「干菓子ぃ~?酒と甘味ってどういう組み合わせだよ?!呑んでる時に甘味なんて食えるかよ!合わねぇだろうが!信じらんねぇ!」と盛大に悪態を吐く。
「まあ、貰ったもんはありがたく受け取るけどよ。酒席にはちょっと出せねぇよなぁ」
「では、皆様がお帰りになられる時にでも配りしましょうか」
「おう、そうしてくれ。ったく、あいつ、頭良いようでズレてるんだよなぁ……、なあ、紫月様よぉ……?おおん?」
振り返って声を掛けた先、すぐ隣にいた筈の紫月は忽然と姿を消していた。
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