閑話休題・壱【周と氷室】(☆)

昔がたり・壱 (前編)(☆)

 ※「氷解」から一年ほどのちのお話。




 その日、珍しく周の方から伊織の屋敷を訪問したところ、彼を出迎えたのは伊織ではなく、氷室だった。


「わざわざ屋敷に足を運んでくれたというのに、あるじときたら……、まことに申し訳ない」


 接客の場である主殿へ案内しがてら、廊下を歩く氷室は厠の方角に視線を送り、ためいきをつく。


「あー、中?」

「先の南条との戦から戻り、諸々落ち着いた途端、だ」

「じゃあ、今日煎じ薬届けに来たのは丁度良かったねぇ」

「心より助かった。かたじけない。あの様子では明日の出仕にも響きかねる」

「相変わらずだねぇ、有事から平時に戻ると腹の具合が悪くなるの」

「戦の最中は何ともなかったのだろう?」

「そう。不思議なことにねぇ」


 主殿に通され、畳に胡坐をかく。

 蕾がつき始めた庭の山茶花や、鹿威しの動き、落葉によって生まれる池の波紋をしばし眺めていると、氷室が薄茶と干菓子を運んできた。


「別に構わなくともいいのに」

「そんな訳にもいかぬ」


 周の前にそれらを並べ、氷室は下座へ。

 伊織が来るまでの間、話し相手にでもなってくれるのか?と思いきや、無言無表情で座ったまま。おそらく対応に困っている、気がする。


「氷室ちゃん、俺のことは本当に気にしなくていいから。家のことやっておいで」

「いや、しかし」

「いいからいいから」


 氷室の能面顔が不満からか、微妙に歪む。

 周に対してではなく、自分自身に対してだろう。

 この、以前と比べて表情出てきたなぁ、と思いつつ、理由はどうあれ、客人に不満顔見せるのは如何なものか。それとも、伊織の(一応)友人だからという甘えが少なからずあるのかもしれない。

 世間的には数え十六歳は充分大人の女子の範疇だが、倍以上生きている周にはまだ大人になりきれない少女。そう思えるのは己の一人娘と氷室が同じ年であり、父親目線で見てしまうからに違いない。


「そう言えば、氷室ちゃんにを渡しておいてほしいって、緑青りょくしょうに頼まれてね」

「緑青殿が?」


 周は手荷物の中から娘……、緑青から預かった一帳の古い書物を取り出し、氷室に手渡した。美貌の貴公子が多くの女性と浮名を流す、もののあはれを題材にした物語の一篇だ。


「続きが気になっていたので大変ありがたい。先の戦では主に同伴、帰還後もなかなか緑青殿と会う機会が作れずじまいで」

「伊織に文句言ってやりな?ちょっとくらい友人と会う暇をくれって。娘も氷室ちゃんに会いたがってるよ。にしても、氷室ちゃんもこの手の書物を読むのが意外だねぇ」

「……そうか?緑青殿と読後に感じたことを語り合うのがまた……、なかなか楽しい」


 冷たい能面顔を保ったままだが、氷室の口から『楽しい』という言葉が聞けるとは。

 あとで伊織に自慢してやろう。絶対に『儂の前で楽しいなんて言ってくれたことないのにいぃぃ?!』と悔しがるのが目に見える。


「元々は海松みる……、死んだ妻の持ち物で、俺も昔、ちらりと斜め読みしたことはある。まあ、うん、女子おなごは好きそう」

「亡き奥方の物?形見同然ではないか。そのような大切な物、あたしが借りて良いのか?」

「緑青がいいなら俺はまったく構わないよ?」

「……ならばいいが。いや、その」


 珍しく氷室が口籠っている。

 何だか今日は彼女の珍しい面を立て続けに見せられている。

 南条がまた戦を仕掛けてこないだろうな、と、洒落にならない杞憂を抱いてしまう。


「緑青殿からよく、周殿が亡き奥方との惚気……、もとい、大切にしていたかの話を聞いていて」

「え、何それ、どういうこと?若い娘こわぁ……。あの子、何をどう話してた訳?」

「緑青殿が裳着迎えて成人するまでの間、ずっと女断ちしていたとか、反動で今はおんな遊びしているが、妻や妾を迎える気は一生ないとか」

「ねぇ、何でよりによって生々しい話しかない訳?今の若い娘は皆そんななの?」


 すっかり頭抱えながら、一刻も早く伊織が厠から生還するのを周は心底願った。が、願ったからといって、気まずい空気は変わらない。


「相分かった。こうなったら、もう少しマシな話をしようか。どうせ伊織はまだ戻ってこないだろうし」

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