氷解・弐
(一)
嫁ぎ先へ向かう直前にのみ、伊織は杜緋と会うことが許されていた。
城の中でも奥まった離れの一室、部屋の外には口が堅く信に置ける侍女が必ず見張りを兼ねて控えているが、ほぼ二人きりで。
事情を知らない者から見れば、元婚約者同士の人目を忍んだ逢瀬……などと甘いものでは当然ない。互いに先代領主の命に従ってのこと。
板の間こそ多少は磨いてあるが、飾り棚にはうっすら埃が積もり。床の間には掛け軸も花も飾られていない殺風景な室内。
最初の結婚前、それの扱い方の説明と共に手渡した時、杜緋は表情こそなかったが顔色を失くし、明らかに怯えていた。
二度目の結婚前、同じそれを渡した時、杜緋の黒曜の双眸は深淵が渦巻き、感情が消え去っていた。
三度目の結婚前に至っては、『
四度目の結婚前は、言葉一つなく手を差し出され。伊織が毒を受け渡すやいなや、彼の目をまともに見ることなく、早々に無言で部屋を去っていった。
所詮は家同士が取り決めた婚約。互いの元服や裳着を迎える頃には破談となっていた間柄。杜緋にとっての伊織などその程度の認識だっただろう。
一方で、伊織は身分や立場など関係なく、心から杜緋に魅かれていた。ことに大人たちが褒めそやす賢さ美しさではなく、ころころとよく笑い、溌溂と元気な彼女が好きだった。
すべては尾形家のためとはいえ、時間をかけて嫁いだ夫たちを次々と毒で死に追いやり、その度に凍りついていく杜緋の姿が見るに堪えなかった。
四度目の嫁ぎ先、最後に嫁いだ古くからの南条の属国であり、十も年下の少年領主が治める小国で自刃したとの報せを受けた時、怒り狂う樹や周とは違い、伊織は心から安堵した。彼女がこれ以上心を凍らせなくてもいいのだと。死に場所に選んだのが敵国というのはいささか口惜しかったけれど。
氷室は誰の目から見ても美しい娘だが、杜緋とは似ても似つかない。
樹や周が、自分が氷室と杜緋を重ねているとでも感じていたら心外甚だしい。
ただ、氷室の凍りついた目を見て、心を悟った途端、力づくにでも融かしてやりたくなった。あんな深淵を宿した目など見るのはもう二度とご免だ。
別に氷室のためなんかじゃない。
単純に伊織自身があのような目を見たくなかっただけだ。
(二)
氷室の居場所はあっさり見つかった。
何のことはない。氷室は家に隣接する厩の柵にもたれ、茜に染まりつつある秋空を眺めていた。
「意外と近くにおったか」
氷室は伊織の姿を認めると、柵から離した背を真っ直ぐ伸ばした。
伊織は氷室の隣に立つと、先程までの彼女していたように柵に深く凭れた。柵越しから伊織の愛馬が顔を覗かせ、しきりに鼻先を彼の頬にすり寄せてくる。
どうどう、といなしつつ、その鼻先を撫でていると、「……ない」と、氷室はぽつり、つぶやく。
「……すまない、
「何が?」
「少し……、否、だいぶ頭に血が昇り過ぎた。みっともなかっただろう」
「そうか?誰も気にしておらんと思うぞ?儂はむしろ嬉しかったがの」
「……嬉しい?」
伊織は愛馬を撫でる手を止め、気味悪げに眉をひそめる氷室に向き直る。
いつになく真面目な顔の伊織に、氷室の眉は益々ひそめられ、一、二歩後ずさった。
何やら警戒されているらしい。伊織は固い表情からいつも通り、八重歯をのぞかせ、へらっと笑ってみせる。
「其方の氷が融けたからじゃ」
「氷?さっぱり意味が分からん」
「分からなくとも別にかまわぬ。人前で怒りを露わにさせる気力が戻ったのは良き兆し。その調子じゃな」
「お主はさっきから何を言っている」
どんどん剣呑になっていく氷室の眼差しを受けながら、伊織は軽い口調で問いかける。
「氷室。今後はなるべく儂の仕事に其方を付き合わせることにする」
「はあ?所構わず愛妾を侍らすうつけ者と皆に笑われるぞ」
「其方、南条を本気で滅ぼしたいのであろう?儂の仕事の多くは南条との戦に向けた前工作。元南条の忍びであったお主から聞き出したいことは山のようにあるからの」
「それなら、別にあたしは構わない。南条を滅ぼすためならいくらでも協力してやる……、といいたいところだが、あたしは忍びでも捨て駒同然。役に立つ情報が得られるかは知らぬぞ」
「それこそ構わぬ。どんな些細であっても、南条領で長年暮らした者からの情報は必ずや役立つ。是非協力してくれぬか」
にこにこと、屈託なく氷室に笑いかけ、答えを待つ。
氷室は怒ったような、困惑したような複雑な表情を浮かべ、口を固く閉ざしていたが、そのうち観念して肩を竦めた。
「……
氷室は目を閉じ、唇の端をごくごく僅かに持ち上げる。
笑みというにはあまりに固く、ぎこちなく、皮肉げで。しかし、伊織の目には笑みとして焼きつけられた。
「何をにやにやと……」
「いーや?べっつにぃー?」
瞬時に氷室は能面顔に戻ってしまったが、彼女の氷の心は確実に融け始めていた。
氷解 ー了ー
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